(六)
低い身分とは言っても、自分たちよりずっと幸せに暮らしをている。
夕日を浴びて、黄金色に輝く稲穂の周りで作業をしている者たちを見て、自分たちの境遇との違いに、お信磨は泣きたくなった。
大きく呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。泣くのはまだ早い。涙を流すのはこのあと。風魔に捕らわれてからだ。
農作業に従事していた男が、彼女に気がつく。男は目を細め、おもむろに指笛を吹いた。すると他の場所から指笛がかえってくる。
ああと、お信磨は納得した。あの指笛は、里に見知らぬものが入ってきたことを伝えるものなのだろう。
彼女は、いたるところから視線を向けられているのを感じながら里の中心にむかう。進めば進むほど視線には殺気が濃くなっていく。
さすがは風魔の里といったところか。
先に様子を探ったお礼の話によれば、現在風魔の里は、その規模に対して人が少ないそうだ。しかも若い男が少なく、女、子供、老人といった非戦闘員と思われる者が多かったらしい。理由までは掴めなかった。勘の鋭い者が多く、姿を消しているはずのお礼の存在を探すようなそぶりを見せる者もいたらしい。話を盗み聞きできるほどそばまで近づくことができなかったそうだ。さすがは乱波集団の里といったところか。
もっとも風魔の里にどんな事情があろうと、お信磨のやることに変更はない。ふたりの兄のためにも、彼女は自身の役割を必ずやり遂げるだけだ。
お信磨が里の中央広場にでたところで空気が変わる。これまで遠くに感じていた複数の殺気が、一気に距離を詰めてきた。彼女はすぐにとり囲まれる。
これまでまったく姿を見なかった屈強そうな男達。
「きさま、どこにいくつもりだ。とまれ。ここより先は行き止まりだ」
「ふふふ、御冗談を。私はこの先に用があるのです。風魔小太郎様のお屋敷に」
お信磨がにんまりと笑う。
彼女の言葉を聞き何人かが目を見張った。
「きさま、女か!」
「ここを風魔の里と知っておるとは……」
「何者だ」
男たちは戸惑いを見せながらも、お信磨との距離を油断なくつめる。
「私は里見八犬士がひとり、犬飼家のお信磨」
名乗るやいなや、男たちが一斉に網を投げつける。黒色の網がお信磨の頭から降りかかった。
お信磨はまったく抵抗しない。抵抗して無駄な汗をかきたくなかったのだ。汗をかくなら建物の中が良い。
風魔の男達は、まだ小太郎から詳しい説明を受けていない。ただ、風魔の総力をあげて里見八犬士と名乗る者たちを討ちとらねばならないことは聞いている。しかし相手の方から里にやって来るとは、小太郎でさえも予測していなかったに違いない。
「どうする、殺るか?」
一人がお信磨から目を離さぬまま言った。
「いや。八犬士と言うからには八人おるのではないか? こやつ以外に里に入ったという連絡はきておらん」
「ひとまず捕えておくにこしたことはあるまい。八犬士討伐は我ら風魔の役目。小太郎様を待つにしろ、残りの者たちのことを吐かせるにしろな」
よしと、男たちはでっぷりと太ったお信麻の体を苦労して縄でしばり、小太郎の屋敷内の納屋へとお信磨を連行した。縄を梁にかけ、数人がかりでお信磨を吊し上げる。
「それにしても、これが女か」
「醜いのう」
「まさに化け物よ」
けたけたと笑う男たちを、お信磨は暗い眼で見下ろしていた。
この男たちが、半年前までのお信磨の姿を知ったらなんというだろうか。少なくとも、このように笑いものにはしなかったろう。
半年前まで、お信磨は母親似のとても美しい娘だった。八犬家の子供は容姿の整った者が多い。それゆえ、逆らえぬことをよいことに、見張りの者達の慰み物として扱われた娘もいた。そのような環境であったから、八犬家の歴史の中でも飛び抜けて美しい娘であったお信磨には、一族が揃って心配したものである。ゆえに手先の器用だったお礼が、こねた泥を顔に張りつけることで、醜い顔であるように誤解させたり、お信磨と同等に美しかった彼女の母が、見張りたちの欲望を引き受けたのもあって、お信磨はきれいな身のまま、これまで成長することができた。
だが、その美しさを彼女は自ら捨てた。優しき異母兄の将来のため、頼もしき異父兄の夢のために。
「頭領はいつ帰ってくるのだ」
お信磨の耳がピクリと動く。
「さあな。武蔵に行くと言っておったが、武蔵も広いからな。まあ、今日のうちには戻るのではないか」
風魔の頭領風魔小太郎は不在。しかも遠出。
驚きが顔にでそうになるのを彼女はかろうじてこらえる。
まさか異父兄生野の読みが外れるとは思ってもみなかった。
生野の読み通り、風魔に八犬士の対応が任されたのは間違いない。ただ生野のさらなる読みでは、小太郎は八犬士対応のために、すぐさま評定をするに違いないとの見解であった。お信磨を含む他の七犬士は、その話に大いに納得したものだ。
この一大事に、ほっつき歩く風魔小太郎に彼女は怒りを覚える。
「ならば、それまでにこやつの口を割らしておったほうが、なにかと都合がよかろう」
男たちはうなずきあい、壁に立てかけてあった棒を各々手にとった。
「おい、女。そなたの仲間はどこにおる」
「たった八人でなにをするつもりであった。本当はもっと仲間がいるのであろう」
「吐けばよし。捕えておくだけにしておいてやろう。だが、吐かぬのならば……」
風魔衆のひとりが、手にした棒で、お信磨のでっぷりと太った体を力一杯殴りつけた。彼女の体が揺れ、納屋全体が軋むような音をたてる。
「おい、まさか崩れたりせんだろうな?」
「まさかそれはないと思うが……」
「まったく何を食えばそこまで太るのだ」
呆れながらも、もう一度殴った。それでもお信磨は呻き声ひとつあげない。そこで男たちは交代で殴りだした。二回りほどしたところで、ようやく彼女が口をひらいた。
「それ以上殴られると泣いてしまう。粗相もしてしまうかもしれん。それにここは暑い。風通しをよくしてくれねば、汗が吹き出してしまいますよ」
お信磨の危機感を感じさせない物言いに、男の一人が腹をたてた。
「ふざけたことを。泣きたくないのならばさっさと吐け。吐かぬのならば、涙でも汗でも小便でも勝手に流せ」
怒りに任せ、再度彼女を殴りつける。
「それではお言葉に甘えて。我、信へと辿る道、我が命をもって菩提とならん!」
お信磨の布で隠れた両乳房のあたりから、光が漏れだす。
途端に彼女の目から大粒の涙がこぼれる。いや涙ばかりではない。お信磨の全身からは汗が、股間からは大量の小便が噴きだし、まるで豪雨のような音をたてて地面を打つ。
驚いた男たちが身をひくと同時に、吊るされた体が下にずれた。それに気がついた者が、あっと声をあげる間もなく、彼女は縄に衣服だけを残し、裸で地面に落ちた。
お信磨が地面に落ちた拍子に、すでに水たまりを作っていたお信磨の汗、涙、小便の混合液が飛び散り、最後に殴りつけた男の顔にかかった。
男は液体を拭き取ろうとしたが、その手がとまる。まず、かかった液体が黒いのに驚き、ついで臭いが気になるのか鼻をひくひくと動かす。
男が臭いの記憶を探り出す前に、起き上がった彼女が、男に身を預けるように飛び込んできた。男はお信磨の両の乳首があったであろう箇所に埋められた『信』と『菩』の文字のうかぶ半珠に目を奪われながら、彼女の大きな体の下敷きになる。
お信磨はうつ伏せの状態のまま、濡れている様子のない手のひらと足の裏で地面をこいだ。
彼女の体が滑るように前に出る。何度か繰り返すと勢いがつき、目の前の男たちを跳ね飛ばしながら、納屋の戸にぶつかり、そのまま戸を突き破った。
慌てて後を追おうとした男たちだったが、お信磨が通った跡を踏んだとたんに足を滑らせ、ぶつかり合いながら倒れこむ。
すでに暗くなった空の下、彼女は全身から黒い液体を垂れ流し続け、腹で地面を滑りながら、今度は家屋へと飛び込む。
「であえ! 侵入者が逃げたぞ。屋敷の中だ」
「殺してかまわん! もとより全員殺すのだ」
お信磨の流した混合液にまみれ、やっとの思いで納屋から這い出てきた男たちの声に応え、いたる所から人がでてくる。
中には、また網による捕獲を試みる者もいたが、時には襖を突き破りながら、滑らかに移動する彼女の動きを捉えきることができない。
男たちがお信磨に翻弄される中、里の中では上等といえる着物に身を包んだ若く整った顔立ちの娘が一人、お信磨の正面にうまく回り込んだ。
「おお! 時雨殿!」
「なにをしているのですか! 小太郎がいないければなにもできないと、敵に嘲笑われるおつもりか!」
時雨と呼ばれた娘は、周囲の男どもを叱りつけるやいなや、袖から取りだした八方手裏剣をお信磨めがけて投げつける。八方手裏剣は狙いあやまたず、お信磨の額に命中した。それなのにその八方手裏剣は彼女には刺さらず、額の上を滑り、あらぬ方へと飛んでいってしまう。時雨は目を見開いたまま、突っ込んできたお信磨に跳ね飛ばされ、壁に叩きけられた。
「時雨殿!」
風魔衆の悲痛な叫びを遠くに聞きながら、時雨は意識を失う。
彼女があえなく撃退された後も、小太郎屋敷全体を使用したお信磨と風魔衆との奇妙な鬼ごっこは続く。彼女は屋敷の中も屋根の上も、余すところなく逃げまわる。まともに追いかけようとする者は足を滑らせ転び、正面に立ちはだかるものは先程の時雨と同様に跳ね飛ばされる。追う者より逃げる者の方が鬼のようなこの鬼ごっこは、屋敷の外からの切羽詰まった声で終わることとなった。
「敵襲! 敵襲だ!」
屋敷の中がこれまで以上に騒がしくなる。
縦横無尽に逃げ回っていたお信磨は、その騒ぎを聞きつけると、屋敷の入り口へと向かう。
一気に庭まで出ると、里へと続く門のところに、彼女の異父兄犬坂生野が、抜き放っていた太刀から血を滴らせ、昨夜と同じようにうなじに光を集めながら立っていた。彼の隣の虚空には綺麗に折りたたまれた一枚の布が、さも当然のように浮いている。
「兄上、お礼姉さん!」
お信磨が声をかけると、厳しい顔つきで自身が斬り伏せた風魔衆をみていた生野が、顔をあげた。彼女の姿を見て、心底ほっとした表情になる。
お信磨は彼のそばまで滑り寄り、両手を地面について止まると、ゆっくりと立ち上がった。その胸で燦然と輝いていた2個の半珠はすでに輝きを弱めている。
彼女がほうと一息吐くと、宙に浮いていた布がひとりでに、しっかりとお信磨の身体を覆い隠す。
「ありがとう、姉さん」
誰もいない虚空に向かって礼を言う。
「兄上、予定通り屋敷は油まみれにしてやりましたが、どうやら小太郎は里を空けて武蔵へと出向いているようにございます」
生野は形の良い眉をしかめる。
「そうかい。わるかったねぇ。あたしがもう少し詳しく調べ上げていれば」
枯れた声が虚空に響く。
「いいえ。さすがは風魔の里。警戒は厳重でございました。無理に探れば姉さんのもう一つの呪いを使うことになっていたかもしれません。あれを使うのはここではありません」
お信磨が虚空との会話を終えると、屋敷の中から四人の風魔衆が飛び出してきた。
「ここにいたか。曲者どもめ」
「もう逃がさんぞ。二人まとめて地獄に送ってくれるわ」
全員の衣服が黒く汚れており、顔には打ちつけたような痕が見られた。一人は鼻血さえ流している。
無言の生野が太刀を地面に突き刺し、小太郎屋敷に向かって一歩前に出る。
懐から黒い円錐状の筒を取り出し、顎をあげ、円の部分を黒い布のついた喉にあてた。
風魔衆のうちの二人が、嫌な気配を感じたのか、すぐさま忍び刀を抜いて走り寄ってくる。
お信磨がたるんだ腹の間にまだ溜まっていた黒い液体を手ですくい、二人の足元に投げつけた。先頭を走っていた者が見事に転び、もう一人もそれに巻き込まれて転倒する。
その隙に、生野は黒い布を筒と喉の隙間から勢いよく引き抜いた。
黒い円錐の先端から、収束された強い一筋の光が、屋敷へと向かってのびる。
瞬間、悲鳴があがった。倒れた風魔衆たちは、突然あがった背後からの悲鳴に振り返る。
燃えていた。小太郎屋敷が燃えていた。屋敷の前に残っていたふたりの風魔衆が、燃えていた。
瞬く間に屋敷中に燃え広がる炎は、入り口にとどまっていた二人の風魔衆にも飛び火したのだ。
「池だ! 池に飛び込め!」
転倒した風魔衆のひとりがそう叫ぶと、ふたりの風魔衆は火をまといながら、一目散に池に走り、そのままの勢いで庭の池に飛び込む。水しぶきが高く上がり、それが収まると白い煙があがるが、それでも火は消えない。体の表面に、なにか膜のようなものが張られたかのように水をはじき、内側から体を焼いているように見える。なんとか火を消そうと、池の中で転げまわっていたが、やがて動かなくなり、そのまま水の減った池に浮かんだ。
唖然とその様子を眺めていた残りの風魔衆は、まだ生野たちが目の前にいることを思い出し、慌てて振り返り身構える。
だが残った風魔衆は、襲われはしなかった。
生野はお信磨と姿を現したお礼に支えられながら、弱弱しく輝く半珠を隠すように、首に黒布を巻きつけている最中。彼の処置が終ると三匹の牙持つ犬は、身構えるばかりで動くことのできない彼らに背をむけ、、静かに小太郎屋敷をあとにした。