(五)
階段を下りた先の広間の中央に、小太郎と同年代らしき総髪の男が、明かりを灯した二本の燭台に挟まれるようにして鎮座していた。それとは別に、男の背後の闇に気配を感じる。もうひとりいるようだ。
「よくこられた。風魔小太郎殿。拙者、一夜の頭領を務めております、幻之丞と申します。以後お見知りおきを」
幻之丞が深々と頭をさげる。
やはりこの男もかと、小太郎は内心ため息をつく。一夜衆頭領を名乗るその男もまた、これまで見てきた里の者同様に美しかったのである。二本の蝋燭の淡い光に照らされたその顔は、幻想的ですらあった。こう美しい顔ばかり見せられると、美しく育ったと密かに自慢に思っていた自分の愛娘が平凡以下に思えてくる。
彼は幻之丞に勧められ、幻之丞の正面に敷かれた敷物の上に腰をおろした。
「わしが来ることを知っておられたようだが、理由もご存知か?」
「存知てはおりませぬ。ですが、ある程度推測することはできます。おそらくは、里見家の八犬士の子孫に関してではございますまいか」
わかっているではないかと小太郎がしかめっ面でうなずくのを見て、苦笑を浮かべた彼は言葉を続ける。
「残念ながら、我らもお売りできるほどの新鮮な情報を手にいれてはおりませぬ。ただ、昨夜の騒ぎを引き起こした八犬士と名乗った者たちが、かの八犬士の子孫であることは事実のようでございますな」
「だが、やつらは一ヶ所に押し込められておるのではなかったか」
彼の問いに幻之丞は表情を崩した。
「さすがは小太郎殿。ご存知でございましたか。確かに八犬士の一族はひとところに集められておるようでございます。今回、表に出てきたのは、おそらく外部に協力者がいるからでございましょう。それに、いまは彼らを忌み嫌い、目をつけておられた義堯様が彼らどころではなくなりましたからな。義弘様とのあいだで取り引きができたのかもしれませんな」
「はっきり申すが、そのようなことはどうでもよい。わしが知りたいのは彼奴らの使う術についてよ。お主、すでに昨夜のことまで耳に入っておるようだが、彼奴らの術についてなにか知らぬか?」
幻之丞は肩を落しつつ首を横に振る。
「それを知っておれば、いまごろ氏康様に情報を売らせていただいておるのですがな。ただ彼らが、自身の技を呪言と名づけていることだけは掴みました」
またもやいらぬ情報に、小太郎は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「初代の八犬士たちが常人を超える力を授かったのは、元は玉梓という女の呪詛に端を発していると聞き及んでおります。八犬士のその尋常ならざる力の象徴として、八つの珠をそれぞれが所持していたとか。その珠は丶大法師と申す者が、安房の四方に安置されている仏像の目としてはめ込んだらしいのですが、半年ほど前にそれがなくなったそうにございます」
「彼奴らが盗ったと?」
話の意図がつかめず小太郎は首をひねる。
「そうかもしれませぬし、そうでないかもしれませぬ。ただ一度は祖先が手にしていた力。再び手にしようとしても不思議ではござらん。北条様の軍勢を八人で打ち破ったのが、すでに人知を超えておる証拠。いくら風魔の方々でも、無策で挑めば無事ではすみますまい」
小太郎は腕を組んで考え込んでいたが、じろりと幻之丞をねめつけて言った。
「わしをここまで引き入れ、話を聞かせるのは何故だ。わしに何を売りつけるつもりだ」
幻之丞は先ほど氏康に売れるほどの情報は持っていないと言った。なのに氏康の使命を果たすために情報を求めてきた小太郎を、彼らの懐まで導いた。
これは何故か? 氏康に売れぬのに、彼には売れる情報があると言うのか?
「先ほども申しました通り、売れる情報はございませぬ。彼らの呪いの情報は、直接八犬士と相対して得るしかござらん」
「それでは!」
遅いと言おうとした小太郎を、幻之丞は手を前にかざして制す。
「たとえ得る情報が少なくとも、活用するまでの時が短くとも、彼らの呪いに対抗し、戦に勝利する手立てを思いつけばよい」
「その手立てを売るというのか?」
「正確には、手立てを思いつく術を売ると言いますか……お貸ししたいのですよ」
幻之丞はそう言って、手をぱんとうった。
すると彼の背後で灯りが灯る。若くそしてやはりと言うべきか、美しい女の顔が浮かぶ。
「この娘、名を乙霧と申します」
幻之丞に名前を呼ばれ、乙霧は妖艶に微笑む。
小太郎は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
この娘は違う。
目の前にいる幻之丞はもちろん、ここまで案内をしてきた少年たちとも、他の里の者たちとも違う。
異質な美しさが、そこにはあった。
恐怖にあらがえず、彼は幻之丞に視線を戻す。
「一夜の忍びとして、半人前ではございますが、頭の冴えは例え比べる相手を天下に求めたとしても、どなたにもひけをとりますまい。一から十を知り、十から百の策を練る。我が里では少々持て余すような娘でございます」
「この娘がか?」
得体のしれぬ恐れを感じはしたが、そのような知恵者とはとても思えない。
小太郎は意を決し、もう一度乙霧に目をむける。
美しい。
もうこの感想を抱くのも飽き飽きしてきたが、それでもやはり美しいものは美しいのだ。
しかし、それでもなお幻之丞の物言いは大げさであろうと思う。こんな山奥の隠れ里に、そんな知恵者が育つような環境があるとは思われない。
「お疑いのようですな。まあ、いたしかたございませんな。ですが、いま私どもが小太郎殿とできる取引は、これ以外にはございませぬ」
「わかった。そのことはとりあえず置いておく。それよりもなぜ大殿の元に参上せずに、わしが来るのを待った」
幻之丞は困ったように苦笑する。
「先程も申し上げましたが、北条の殿様にお売りするに値する情報はございませぬ。特定の主を持たぬは我らが誇り。北条の殿様に知恵者をお貸しいたすなどと申し上げれば、さればお主らが対処してみせよとなりましょう。矜持に反するばかりではなく、一族が存亡の危機を迎えるは必定。我らに戦働きで勝利をおさめるような力はございませぬ」
小太郎がつまらなそうに鼻をならす。
「それで直接対応することになったわしに売りつけるか。ならばなぜ風魔の里に来なかったのだ。買うにしろ買わぬにしろ、わしがここに来ること自体、二度手間ではないか!」
声に怒気が含まれる。それもそうだろう。少しでも早く八犬士に対する手立てを手にするべく急いで来てみれば、小太郎が来ることを知っていたばかりか、小太郎の望む形ではないにしろ、力を貸すつもりであると言われたのだ。
一夜が風魔の里まで売りつけに来ていれば、彼は今頃八犬士への対応の指揮をとれていたのは明白である。
幻之丞は小太郎の怒りを鎮めようと、深々と頭を下げる。
「風魔の里に赴けなかったのは、お恥ずかしながら、小太郎様の動きに我らがついていけなかったためにございます。あまりにも機敏に動かれるものですから、使者が間に合いませんでした。なんとか途中でおとめして、道中で落ち合うことも考えたのですが」
幻之丞はそこで言葉を切り、後ろに佇む乙霧を振り返る。
「この者が、小太郎殿をこの里にお迎えすべきだと主張いたしまして」
小太郎は怒りのこもった視線を幻之丞から乙霧へと移す。
「娘、何故だ⁉」
「じきにわかります」
乙霧が口角をわずかにあげそう答えると、上へと続く階段からドタドタと駆けおりてくる足音が響きわたる。
「お頭さま!」
「小太郎様!」
ここまで小太郎を案内してきたふたりの少年が、息せき切って地下の広間に駆け込んできた。
「一大事にございます‼」
声を揃えて、そう告げる。
ふたりのただならぬ様子に、幻之丞は立ち上がった。
「落ち着かぬか。余計な感情は情報を捻じ曲げる。小太郎殿にも関係あることなのだな。かまわぬ。そこで事実だけを申せ」
ふたりは一瞬だけ顔を見合わせ、すぐに幻之丞たちに向き直る。
「風魔の里から」
「火の手が上げっているそうにございます」
「なんだと⁉」
小太郎は一声そう吠えると乙霧に喰ってかかる。
「娘! 貴様こうなることがわかっていて、わしをここまで招き入れたか! 返答によっては許さぬぞ!」
「まさか。絶対にそうなるだろうなどとは思っておりませんでした。こうなるであろうと、予測の一つとして持っていたにすぎませぬ」
乙霧は妖しい笑みを浮かべ答えた。
彼の溜まりに溜まった怒りが頂点にたっし、怒りに身を任せ乙霧に駆け寄ろうとする。
だが、すぐに踏みとどまる。
間に幻之丞が割って入ったからではない。冷静さを取り戻した訳でもない。
小太郎の本能が、怒りを上回る強さで全身に警報を発したのだ。その娘にに、それ以上近寄ってはならぬと。
「ご安心くださいませ。大きな被害はでておらぬでしょう。八犬士の狙いは風魔の殲滅ではなく、小太郎様のお命。小太郎様がいなければ、風魔はただの野盗でございましょう?」
挑発するような言葉だが、己の内からでた警鐘に戸惑う彼は、ただただ乙霧の言葉に聞き入った。
「小太郎様。私をお連れくださいませ。お代は後払い。小太郎様が、私が役にたったと感じられた時のみで結構にございますゆえ」
一族の頭領たる幻之丞をそっちのけで、小太郎との交渉を始める乙霧に、幻之丞は頭を抱えるが口は挟まない。
「……我らにはそれほどの蓄えはないぞ」
しぼり出すように発せられた言葉に、彼女はゆるゆると首を振る。
「一夜が、私が風魔に欲するは金銀などではございませぬ」
乙霧がこれまで以上に妖艶に微笑む。
「風魔衆からお一人。私の婿になる方をいただきとうございます」
小太郎は自身のごくりという唾を飲みこむ音を、確かに聞いた。