(四十二)
遠くで名を呼ばれた気がして、重い瞼を持ち上げた。それでもまだどこか夢見心地で、自分は死んだのではなかったかなどと、ぼんやりと考える。
視界に揺れる炎が映った。火のついた蝋燭が刺さった燭台が二本、正面に置かれている。無駄に広い部屋の床板に座らせられているようだ。手は後ろ手に、足は胡座をかいた状態で縛られている。
声をだそうとしたが出ない。喉に布が巻かれているようだが、猿轡をされているわけでもない。なのにどうして声がだせないのか。そうだ。出せる訳がなかった。彼は自ら声を捨てたのだから。
意識がはっきりしてきた生野は、自身の体に意識をむける。限界を越えて呪言の力を用いたにもかかわらず、体の熱が引いていた。おそらく誰かが生野の体を外から冷やしてくれたのだろう。
自身の確認が終り、今度は周囲に目をむける。蝋燭の灯りはあるが、ほとんどが闇におおわれていて、部屋の様子が把握できない。
彼を今の状況にしたのは、ひとりしか考えられない。
お礼を殺したあの女。友を助けようとした彼の手を傷つけ、煎十郎を崖下の川へと転落させたあの女だ
信じられぬものを見たような顔をして落ちていく友の顔を、はっきりと思いかえせる。
悔やんでも悔やみきれない。まだ命があるうちに、あの女だけでも殺したい。
そう念じる生野の前に姿を現したのは、あの女ではなかった。壮年とは思えるのに、それでもなお美しい男。
「久しぶりだな、生野殿。確信はしておったが、見事に美しく成長なされた」
思いがけない言葉に、生野は相手の顔をまじまじと見つめる。そう言われると確かにどこかであった気はするが、思い出せない。
「わからぬかな。まあ、もう十年になるからな。憶えていなくともしかたないかもしれぬ」
そう言われて、ようやく目の前の顔の記憶に思いいたる。
行商人だ。彼が京にいたころにであった、あの行商人だ。
生野の表情で思い出したことを悟ったのだろう、男がとても嬉しそうな顔をする。
「思い出してくれたようだな。さて、思い出してくれたところで、貴殿のいまの状況や、拙者とその一族が貴殿の戦いに、どう関わったのか話したいのだが、構わないかね? おそらく貴殿がくびり殺したいと考えている娘のことにも大きくふれることなんだがね」
彼をにらみつつも生野はうなずく。どちらにしろ自由を奪われているうえに、彼自身が口をきけないとあっては、相手の話を聞く以外になにもできない。
「まず、名乗っておこう。拙者のいまの名は一夜幻之丞。聞いたことはないと思うが、一夜という忍びの一族を束ねる者だ。乱波と呼ばれている風魔とはまったくの別物と考えていただきたい。もっとも、拙者らのやっていることは商人と呼ぶ方が近いかもしれんがね」
幻之丞は自嘲するような笑みをみせる。
「さて、なにから話そうか。……そうだな。まずは、我ら一夜衆が八犬士と北条家との争いに関わることになった経緯から話そう。そして貴殿の目の届かぬところで起きた出来事もな」
幻之丞はできるだけ簡潔に、一夜が八犬士の戦いに参加した経緯や他の八犬士の身に起きたこと。派遣した乙霧が生野を一夜の里に連れてきたことなどを、自分で見てきたかのように話して聞かせる。
彼は他の八犬士の死に様を聞かされたときには、涙を流してしまいそうになるのを懸命に耐えながら、幻之丞の話を最後まで聞いた。
「貴殿にも疑問や質問があるだろうが、貴殿は話せぬし、手を自由にさせるのも不安だ。こちらで勝手に聞きたいことを推測させてもらおう」
生野は顔を背ける。疑問に思うことは確かにあるが、一番の目的である一族の立場回復を果たしたからには、他のことなど聞かなくともよい。いまは一刻も早く最後の八犬士として、あの女にけじめを取らせたうえで、先に死んだ仲間の元へと旅立ちたいという想いだけ。
「そうつれなくするな。我ら一夜は八犬士の小田原攻略は邪魔したが、かわりに里見家での立場回復には力を貸したのだぞ」
驚きのあまり顔を幻之丞にもどす。
「貴殿ほどの者なら、疑問に思っているだろう。義弘様が条件付きとはいえ、貴殿らが小田原攻略の下準備しかしていないうちに、八犬家の解放を決断したのはなぜかと。里見家の三船山での勝利。義弘殿の奇襲が決め手であった。その奇襲を成功させるために必要な情報を、我ら一夜が売ったのだ。求めた対価は八犬家の解放。ちなみに家名を変えさせることを提案したのも我らであるし、義堯様の反対を抑えるために、義堯様のそばに侍る者に口添えをさせもした。一族の解放ということに関しては、恩人と感謝してもらっても良いくらいだ」
彼は眉をしかめて、幻之丞の目を疑わしそうに凝視する。
「信じられぬか。そうであろうな。少なくとも貴殿らに我らに助けられるような理由はない。だが我らには助ける理由がある」
幻之丞が遠くを見た。
「八犬家の初代が里見の姫を嫁として以降、二代目から四代目まで、ほとんどの場合、家督を継ぐ者は八犬家の中から嫁をとった。四代目からは女子に限りがあったから、貴殿の母のように複数の家の子を産んだ者もいる。どちらにしろ八犬家の血の繋がりが強まったことには変わりはない。だが、そんな中で唯一の例外があった」
幻之丞は笑顔で生野を見る。生野の顔が青ざめていた。
「どうやら、知っておるようだな。そう貴殿の犬坂家だ。二代目の犬坂毛野胤才。彼だけは、八犬家の外から嫁をとる。その娘はたいそう美しい女子であった。さて時は流れ、犬坂家の三代目には女子が一人しか生まれない。貴殿と貴殿の妹同様、子供の時分から美しく周囲を惹きつける魅力を持っていたが、悲しきことに五歳の時に神隠しにあった。その娘が驚いたことに十数年後に戻ってきた。わざわざ八犬家が監禁されたあとにだ。美しさと魅力に磨きをかけ、さらには腹に子供を身籠った状態でな」
幻之丞が大げさに両腕を広げる。
「よくぞ戻った。お智予の息子よ。本来ならば貴殿と貴殿の妹も、子供のうちに一夜の里に迎えたかったが、お主は八犬士の血が濃く現れすぎ、妹は警備が厳重すぎてな。情報程度は出せても、お主以外の子供を外に出すのには無理があった。……許せ」
生野はあまりにも突拍子もない話に目が回る思いであった。
動揺する心を無理やり押さえつけ、信じるものかと首を強く振る。
目の前の男は、八犬家の、犬坂家の中に一夜衆の血が流れていたから、八犬家の解放に力を貸したと言っているのだ。とうてい信じられる話ではない。
「まあ、信じたくなければ信じなくてもかまわんよ。信じようと信じまいと、事実は変わらぬからな。それよりも、もう一つ疑問に思っているだろうことを解決しておこうか。貴殿にどれだけの時が残されているかわからんからな」
彼がひとつ手を打った。生野の左手側の闇に蝋燭の火が灯った。その灯りに女の顔が照らされた。煎十郎を崖下へと落とさせた、あの女だ。
生野は思わず立ち上がろうとしたが、足をしっかりと括られていては、体が前のめりになるだけで立ち上がることなど叶わない。
「お怒りのようでございますね、生野様。煎十郎様のことは仕方がなかったのです。ああせねば、お二人とも落ちてしまっていたでしょうし、私がお迎えできる殿方はお一人だけでございましたから」
女が微笑んでそのようなことを言うが、彼には意味がわからない。言い訳にすら聞こえなかった。
「その娘が、先ほど話した乙霧でござるよ。一夜の男の中には、一夜の術を完成させることのできる相手が見つからなかったゆえ、本人が危険なめに会うことは承知で外にだしたのだが、いやいや、まさかこのようなことになるとは。乙霧には貴殿の生い立ちは話してはいなかったのだがな。いや、まったく人の生というものはなにが起こるかわからん」
幻之丞はさもおかしそうに笑う。
「これが、貴殿の疑問に対する答えだ。貴殿が一夜の血を引いているからここに連れてきたわけではない。ひとえにこの乙霧に、一夜に相応しき子を孕ませるため」
幻之丞の言葉を乙霧が引き継ぐ。
「あの時までは、煎十郎様をお連れするつもりでございました。煎十郎様に初めてお会いしたとき、下腹部が別の生き物のようにうごめき、この方こそが私に一夜の術を使うことのできる唯一のお方と思ったのです。ですが……」
貴方にお会いしてしまったのですと、乙霧は頬を赤く染め軽く目を伏せる。
「まさか、煎十郎様にお会いした時の感覚が序の口だとは思いもしませんでした。生野様にお目にかかった時のあの全身が蕩けるような感覚。自分で体を押さえなければ、体が溶けて、心だけで貴方様を求めてしまいそうなあの感覚。いまも忘れることができず、私の身体と心を縛りつけております」
生野には目の前の女が人であるとは思えなくなっていた。恐ろしくさえ感じる。言っていることが理解できぬこともさることながら、美しい女の妖しい笑み。全身から放たれているように思える妖気。この世のものとは思えない。
「それでも、我慢はするつもりでした。いかに望もうとも生野様と私は敵同士。結ばれることはないと。……ですが、天は導いたのです。わたしに生野様を里にお連れせよと、二人をあの状況へと追いやったのです。まさに万にひとつの奇跡でございました!」
生野は乙霧を怯える気持ちに負けまいと、彼女をにらみつける。
「無理をされるな、生野殿。乙霧が貴殿にこれだけ反応したということは、貴殿も乙霧に下半身が疼いているはず。貴殿も八犬士の血の影響が強いとはいえ、一夜の男としての才能も十分に持ち合わせているようだからのう」
そう言うと幻之丞は立ち上がった。生野へと近づき、肩を軽く叩く。
「乙霧に抗うのは、男である限りは不可能。初見の時は、犬もいて逃げ場もあったことで耐えられたかもしれんが、ここにはしばらく誰も通さぬゆえ、安心して乙霧に狂われよ」
幻之丞が生野の後方にある階段へ向かうのと前後して、乙霧が生野に歩み寄る。
「さあ、生野様。愛しあいましょう。生野様の命が続く限り!」
乙霧が生野に覆いかぶさる。生野はなんとか抵抗しようと一括りにされた足を乙霧に突き出すが、乙霧の動きをとめるには、ものの役にもたたない。
乙霧が生野の口を吸い、舌が生野の口の中で暴れ回る。生野の抵抗がやんだ。それどころか、生野の方からも舌を絡め始める。
乙霧の目に喜色の色が浮かび、帯にはさめていた小柄で生野の手足を括っていた紐と布を切り、小柄を闇の中へと放り投げた。
拘束が解かれると、生野は待ちきれんとばかりに、乙霧の着物を剥ぎとる。乙霧の白い柔肌が、蝋燭の灯りに照らされ、艶めかしく揺れる。
生野が乙霧を押し倒した。乙霧は両足を生野の腰に絡め、少しでも早く結ばれんと生野を引き寄せた。
「あっ! ああっ!」
これから始まろうとしていた男女の営みにすでに酔っていた乙霧の顔が凍りつき、悲痛な声をあげる。
「いかがいたした!」
女の悦びの声とは明らかに違う声に、一度は上にあがった幻之丞が引きかえす。
乙霧が顔を押さえ立ちあがり、生野の股間を指さす。
そこには本来あるべきものがなかった。傷口を焼いたような生々しい痕があるのみ。
さすがの一夜もこの情報は手にできなかった。知恵ある乙霧も想像できなかった。
生野の分身とも言える男根は、生野本人よりも一足先に、愛する女とあの世で一つとなっている。
生野がふらりと後ろに下がり、屈みこんで己のうなじにあてられた布に蝋燭の火をあてた。左で喉の布地をしっかりと押さえ、右手宙に文字を描く。
『我、智を行使するは、我が命次代の生に捧げんが為』
蝋燭の火は、布を簡単に焼き切り、『智』の半珠に光を注ぎ込む。
口をしっかりと閉じ、空いた右手で鼻を塞いで目をとじる。
喉にも顔にも逃げ場をなくした光が、喉の中でこれまで以上の高熱を発し、生野の体に火をつけた。
呪言の光が生み出した誇り高き炎は、この世に名残を一切残すことなく、生野の身体を一瞬で灰へと変える。
二つの半珠が音をたてて床に転がっても、幻之丞と乙霧は声も出せずに、生野が消えた虚空の闇を見つめていた。