(四)
風魔小太郎は、北条氏康より与えられし使命を果たすため、自ら走っていた。常人よりはるかに速く、虫の息吹よりもはるかに静かに大地を蹴る。目指すは秩父谷。
鉢形城にいる氏康の四男氏邦への使者ではない。それならば乱波集団の風魔が遣わされることはまずない。
『里見八犬士なる者たちを討ちはたせ』
これが、今朝早くに氏康から申し渡された小太郎の使命である。
昨夜、氏康が今回の里見との戦のために密かに手配していた部隊が壊滅した。やってのけたのはたった八人だという。この部隊の手配のために、小太郎も一族を動かしていただけに、曲者揃いの風魔一族をたばね、めったなことでは揺るがない小太郎も大きく動揺した。
しかも恐るべきことに、八犬士による被害はまだ続いている。報告に戻った三人の武士が、いずれも嘔吐し倒れ、まもなく死亡した。そればかりではない。倒れた彼らを介護した者、嘔吐物をかたずけた者らが、原因不明の熱を発し倒れた。すぐさま医者が呼ばれたが、その医者までもが同じ症状で倒れる始末。中には戻った三人の武士と同じ症状で死んだ者もいる。
報告を受けた氏康は、すぐに小太郎を呼び出し問いただした。かの者たちは何者なのか? かつて里見に仕えたという八犬士と関係があるのか? 部隊を襲撃した際に奇怪な技を使ったらしいが、いま起きている騒ぎもそやつらの技によるものなのか?
小太郎はなにひとつ満足に答えることができなかった。里見家の安房統一に尽力した八犬士の血を継ぐ者たちがいるという情報は掴んではいる。だが、いまは罪人として囚われの身同然の扱いを受けていると報告を受けていた。それにも関わらず、反抗の意思を見せず、牙の抜け落ちた犬のように大人しくしているという。それでは反乱を促し、里見の撹乱に使うことさえできぬと捨て置いた。
それに里見の現当主は義弘であるが、いまだ強い発言力を持つ先代の義堯が、彼らのことを蛇蝎のごとく嫌っているという。その彼が、八犬家の者を用いることを認めるとは思えない。
平伏したまま、なにも答えぬ小太郎に、氏康はきつく申しつける。小田原に向かってきている八犬士を討ち、此度の騒ぎを速やかに鎮めよと。
小太郎は追い立てられるように小田原を出て、まずは風魔の里に戻った。
氏政の軍勢に配下の乱波を半数近く従軍させているのだが、その中でもとりわけ相手を殺す技術に長けた者たちを呼び戻すために使いをだし、八犬士の所在や昨夜壊滅した部隊の生き残りの捜索をするように里に残る乱波に次々と指示をだす。さらには、薬草や日本と南蛮の医学に通じた若者を小田原にやる。これらの指示を矢継ぎ早に終えると、自身は八犬士が現れた三浦半島ではなく、逆方向に近いこの秩父谷へと足をむけた。
秩父に乱立している土豪たちの山城群よりも、さらに奥に小太郎は向かう。街道からはずれ、藪に隠れた獣道をひた走る。崖下から聞こえる荒川の激流の音に心を急かされ、足をさらに速めた。
時間がない。こうしている間にも、八犬士を名乗る輩が小田原を襲撃しているかもしれない。そんな不安にさいなまれながらも、八犬士へ向かわずにこちらへ来たのには、当然ながら理由がある。
情報が欲しい。本来はそれを集めるのも自分たちの仕事だが、残念ながら敵は間近まで迫ってきている。だからと言って半刻もかからずに二百人近くいた軍勢を、たった八名で潰走させた者たちを相手に、いくら集団での奇襲戦法を得意とする風魔一族といえども、なんの情報もなしに勝てるとは思われない。
時間はない。されど情報は欲しい。ならば、すでに持っていそうなところから手にいれる。それが小太郎のくだした結論だった。だが、その情報を持つ者たちの居場所を知っている者は少ない。おまけに足の速い者の多くは氏政の軍に従軍している。里に残っている者たちのなかで、目的地の場所を知り、なおかつ最も足の速いのが小太郎自身だったのである。
とはいえ、小太郎もこの道を走るのはこれで二度目。前に通ったのは三十年も昔。彼がまだ小太郎の名を継ぐ前のことだ。
視界をふさぐ木々が減る。獣道の終わりがすぐそこであることを悟った。この獣道を走りきり、山林を抜ければ断崖にでる。そこに小太郎の目的地に行く唯一の手段であるつり橋があるはず。
獣道を覆い隠すように茂る藪をかきわけ、小太郎はついに山林を抜ける。切り立った崖が眼前に広がった。
この景色は見覚えがある。
ただ、そこには小太郎の古い記憶とは違い、つり橋がかけられていた。
だが感慨にふける時間はない。
目的の場所へとたどり着く為には、あのつり橋を渡らねばならぬのだ。
小太郎が決意を新たにつり橋へと近づくと、つり橋の前に、美しい少年が二人佇んでいるのが視界に映る。
ふたりは警戒しながら歩み寄る小太郎に、笑みを向けてきた。
「風魔小太郎様でございますね」
「ようこそ、一夜の里へ」
彼らは揃って頭をさげる。
「わしが来ることを知っておったのか……」
小太郎は通り抜けてきた山林を振りかえった。誰も後を追ってきている気配はない。ここまで走ってくる間も、誰かに監視されているような視線は感じなかった。
「どうかお気になさらぬように。今は一刻を争う時でございましょう」
「われらが頭領一夜幻之丞が待っております。我らについてきてくださいませ」
そう言って、ふたりが並んでつり橋を渡り始める。
自分が来ることを事前に知られていたのは面白くないが、だからといって感情に任せて引き返すわけにもいかない。元々渡るつもりであったのだ。誰に先導されようと、小太郎に嫌はない。むすりと黙ってふたりのあとに続いて、つり橋に足を踏み入れた。
慎重かつ大胆な足取りの小太郎の眼下では、荒川が轟々と音を立てて流れている。その流れを目にしながらぼそりと呟く。
「以前に来た時は、橋が落とされておったのだ」
「我らが生まれる前のことでございますね。聞いております」
「その時は、ご依頼ではなく、戦をしにまいられたと伺っております」
ふたりの美少年は振り返ることなく言う。
彼らの言う通り。小太郎が前を歩く少年たちよりも、少しばかり年上ぐの頃。その戦が彼にとって初めての実戦になるはずだった。
三代目小太郎に率いられたあの日。風魔衆はこのつり橋の向こうに住む忍びの一族を、力づくで従わせるために獣道を走ったのだ。
その忍びの一族の名は一夜衆。
特定の主を持たぬ忍びの一族である。伊賀の流れをくむらしいので、それ自体は珍しくはない。ただこの一夜衆は諜報活動のみを生業とし、仕事を請け負うのではなく、自分たちで率先して情報を集め、それを売り込むという忍びと言うよりも商人のような生き方をする。その顧客も大名家に限らず、その臣下、公家、寺社、商人などと幅広かった。
ただ決して目立っていた訳ではない。風魔も諜報活動を仕事の一部としているにも関わらず、当時の北条家当主氏綱に、その存在を教えられるまで、風魔は彼らの存在を知らなかった。
彼らは氏綱に関東中央への進出のための情報を売る。その情報は風魔がもたらしたものよりも、新しく詳細で、そして正確であった。そのため氏綱も何度か彼らから情報を買ったが、次第に恐怖を抱きはじめる。もしかしたら、自国の精細な情報も、このように他国に売られているのかもしれないと。
そこで氏綱は、情報を売りに来た一夜の者に、北条の傘下に加わるようにと要求したが、一夜の者はこれをあっさりと拒否したうえでこう言ったらしい。
「氏綱様は情報の大切さを知る良きご主君とお見受けいたします。さればこそ、ご理解いただけるはず。どんな正確な情報も、活かすことができねば手にいれておらぬのと同じこと。仮に相手もこちらの情報を握っておるのならば、あいてより情報を上手く使いこなせば良いだけでござる。我らを恐れる必要などござらぬ」
氏綱は、いけしゃあしゃあと語る一夜の者に怒りを覚えたが、ここでこの者を斬れば、それこそこちらが不利になる情報を流されかねない。
氏綱は三代目小太郎を呼び出し、一夜衆の存在を教えたうえでこう命じた。一夜の忍びを風魔の傘下に組み入れよ。無理であれば滅ぼすようにと。
風魔は伊賀や甲賀と似たような仕事をこなしているとはいえ、彼らと違い忍びとは呼ばれていない。風魔は乱波集団である。これは単に西と東の呼び名の違いではない。彼らは文字通り敵国に乱の波を引き起こすことを得意としていた。集団で敵領国の村落を襲い略奪行為を繰り返す。それが当時の風魔である。三代目小太郎は、配下の者にすぐさま一夜の者を捕えさせ、拷問をすることで一夜衆の本拠地を吐かせると、すぐさま戦仕度を整えた。
本拠地は秩父の山奥。この頃はまだ北条家は西武蔵の支配を確立してはおらず、むしろ武田家の影響が強い時期であったため、正規軍を送るわけにはいかない。その意味でも乱波集団である風魔の方が、都合が良かった。
「いま思えば、あの時もわしらが来ることを事前に知っておったのだな……」
小太郎は苦虫を噛み潰したような表情で昔を思い出す。
風魔衆が捕えた一夜の者から聞き出した場所に行くと、あるはずのつり橋がなかった。あった跡ならば確かにあったのだが。どうしたことかと思っていると、崖の向こうにこちらを見ている集団がいることに気がついた。おそらく、あれが一夜の忍びであろう。こちらがこれからどうするのか、様子を窺っているといったところだろうか。捕えた者に仲間へ報せる暇などなかったはずだが、彼らは風魔の動きを察知し、橋を落としたとしか思えない。
三代目小太郎は、もしもの時の抜け道があるはずだ、それを探せと皆に命じた。小太郎もその指示に従い、散ろうとした時だった。風魔の里から急を知らせる使者が到着する。使者の息が激しく乱れている。自分たちがここに到着してからそれほど時は経っていない。自分たちが出発してすぐに、使者も後を追ってきたのだろう。それほど急に事態が変わったということか。使者が何事かを三代目小太郎の耳元でささやくと、彼はしばし呆気にとられていたが、やがて憮然とした顔で崖むこうの一夜をにらみつけ「退くぞ」と吠える。
その時はなにがなにやらわからず、初めての戦がふいになったことだけが、ただただ悔しかった。
それから十年以上の月日が流れ、三代目が病床に伏せると、四代目小太郎に指名される。その時、長年気になっていた、あの時なにもせずに退却することになった理由を、北条になにがあったのかを三代目にたずねた。
すると三代目は寝具を握りしめ顔をしかめながら、わしにもわからんと吐き捨てるように言ったのだ。わかっていることは、一夜を滅ぼせと命じた本人の氏綱が、それを取りやめさせたこと。しかも、捕えていた一夜の者の解放まで命じたこと。理由は説明されなかったし、問いただせる立場でもなかったと、悔しそうに語っていた三代目を、小太郎は今でも忘れられない。
小太郎は美少年ふたりに連れられて釣り橋を渡りきり、三十年越しに、ついに一夜の里がある地へと足を踏み入れた。
だが小太郎の胸に熱いものが込み上げてくる間もなく、歩みを止めぬ二人に里の入り口へといざなわれる。
たどり着いた里の様子は、平凡でありながら異様であった。
忍びの里といえど、表面上は普通の集落とかわらない。基本的に自給自足。畑を耕し、獣を狩る。必要な物は自分たちで作り、支え合って生きる。
当然のことながら、小太郎の本拠地である風魔の里もここと似たようなものだ。どこの集落にでもあるような、自衛の備えがあるようにしかみせていない。その実情は違うにしてもだ。
だがこの集落には風魔の里とは、決定的に違うところがある。
風景ではない。異様なのは人。道すがらすれ違う者、農作業に精をだす者、木陰で乳呑児をあやす母親、虫を追いかけまわしている子供たち、その全てが前を歩くふたりの少年同様に美しいのである。若き者も老いたる者も、その年齢に適したものではあるが、皆一様に美しいと思わずにはいられぬ外見をしていたのだ。
これは諜報活動を主な生業としていると聞く一夜において、不利に働くのではないか。全ての者が美しい外見をしているこの里の中では目立たぬであろうが、他の土地に彼らがおもむけば、衆目を集めることが容易に想像がつく。目立ちすぎることは諜報活動を行う上では不利だ。主な役目が諜報活動ではない乱波集団の小太郎とてそれくらいはわかる。
いや、それ以前に里の者全てを美しい外見に整えることなどできるのか?
美男美女が子をなしたとて、必ずしも美しい子が産まれてくるとは限らない。幼き頃に美しく見えたとて、成長すれば凡百になることとて珍しきことではない。その度に間引きをしていては人手が足りなくなるだろう。このように揃えきることなど到底不可能に思える。
「ありえるのか? このようなことが……」
小太郎が言葉を漏らすと、ふたりは揃って振り返り微笑んだ。
思わずどきりとするほどの、妖艶な笑み。
「我らにとっては、これが当たり前でございます」
「これが我らの最大の術でござれば」
小太郎のわずかな言葉から全てを悟ったようにさらりと答えてみせた。
これが術かと、小太郎は内心で少しばかり首をひねる。小太郎にとって術とは鍛錬によって後天的に身につける技である。習得する技の種類や習得までにかかる期間は個人でまちまちだが、術とは、技とはそういうものだ。
伊賀や甲賀には、受け継ぐ血を濃くして、特殊な技能を受け継ぐようにしていく術もあると聞くが、たいてい血を濃くした代償として、醜い外見を持って産まれてくると小太郎は伝え聞いている。
このように先天的に美しい人間ばかりにする術などあるのだろうか。あるのならば、それはもはや術というよりも、一種の呪いではなかろうか。
そういえば、八犬士という輩も、もとは呪いから生まれた者たちだと聞いている。
小太郎がそんなことを考えているうちに、里長のものと思われる、他の家屋に比べればいくらか大きめの屋敷へと到着した。
ふたりの美少年が、見張りがいる様子もないその屋敷の中へと、なんの遠慮もなくずかずかと入っていく。小太郎はあたりに気を配りながら慎重に後に続いた。いざ戦いとなれば遅れをとるような小太郎ではないが、どんなに戦闘を得意としない一族であろうとも、ここは忍びの里。どのような罠が仕掛けられているとも限らない。
案の定、屋敷の廊下は迷路のように入り組んでいた。一族の長が住む最終防衛拠点。容易には長のもとにたどり着くことができぬようにしてある。
このことは逆に小太郎を安心させた。里で感じた異様さを考えれば、この備えはいたって普通であったから。
やがて、たどりついた廊下のつきあたりには、地下へとおりる階段があった。少年たちは階段の前で左右に別れ、階段の下を指し示す。
「この先の広間にて、幻之丞がお待ちしております」
「ここより先は、小太郎様お一人でお進みくだされ」
言われるがまま、階段の前まで進みでる。地下の部屋に明かりは灯されているようで、薄明るい。人の気配も確かにある。だが、ひとりではない。ふたりいる。
小太郎はいぶかしむ。
もっと人がいると考えていたのだ。他国からの来訪者。しかも乱波の頭領。警戒されるのが当たり前。この下に本物の一夜の頭領がいるのならば、二人しかいないというのは、あまりにも不用心である。まさか、乱波集団を束ねる風魔小太郎の名を継ぐ者を弱いと思っているわけではなかろう。相手は情報戦に長けた一族。四代目小太郎の武勇の程を知らぬとは思えなかった。
小太郎が足をとめた為か、ふたりが言葉をかけてくる。
「ご安心くだされ。我らに争うつもりはございません」
「ここまで小太郎様に入りこまれた時点で、我らが負けは必定」
小太郎は追従のような言葉に鼻をならす。
どのみち、この階段を下りねば話が進まぬ。
意を決した小太郎は、少年たちに見守られながら階段を下りた。