(三十六)
|八風はこれまでにないほど、身体を軽く感じていた。まるで名前のように、風にでもなったかのようであるだった。道をはばもうとする者はかわし、追いかけようとする者は置きざりにし、彼女は小田原を脱出する。
人ひとりを背負って走る彼女の姿を見たものは、とても彼女が瀕死の重傷を負っているとは気付かないだろう。
八風は高所から落下した彼女の大事な主人を、身を挺してかばった。
落下した生野の体を受けた彼女の骨は折れ、内臓はいま生きているのが不思議なほどに傷ついている。
小雨が降り出すなか、いったん海岸方面へと出た彼女は、途中で進路をかえた。小田原の北を大きく迂回し、山林へと入る。
一目散に安房を目指したかったが、安房まで自身の体が持つとは思えなかったのだ。そこで目立つ海岸沿いを避け、山に一度身を隠し、背中で眠る大切な主人に、体力を回復する時を与えることを選ぶ。本来ならありがたくない雨も、いまは熱くなりすぎた生野の体にはありがたい。しばらく時を稼ぐことができれば、自力で安房に戻る体力を取り戻してくれる可能性はある。
何とか安房へ帰してあげたいと思う。愛しき主人であり、父でもあるこの男を。己を彼女の母の仇だと、胸の内で責め続けている悲しいこの人を。
彼女はこの世に生を受けて、まだ一年に満たない。体はわずか半年で大人と同等の大きさに育つ。たくさんの人の愛に包まれ、健やかに育った彼女だったが、育ててくれた人たちは、決して恵まれた環境にはいなかった。
生野がその環境を変えるために旅立つ日、彼女は彼の命に逆らい、八犬士を追いかけ、船に飛びのり、無理矢理に同行する。
あそこで別れていたら、二度と会えないというのがわかったからだ。二度と帰らない彼らを待ち続けるくらいならば、最後の日を共にしたい。きっと亡き母も生きていたとしたら同じ道を選んだだろう。母もまた彼女と同じく、命を捧げるほどに、生野のことを愛していたのだから。
母が彼と安房に来たのは二年ほど前。
到着してまもなく母は彼女を身籠る。父親はどこの馬の骨とも知れぬような犬ではない。母を身籠らせたのは生野。
彼は八犬家に戻る前に、安房の四方に安置されていた仏像の目に使われていた八つの珠を回収した。はるか昔に力を失ったというその珠は、主人が回収した時には、少しばかり力を取り戻していた。ただ、光を取り戻してはいたが、珠に浮かび上がっていた文字は、初代達が神通力が如き力を振るった際に浮かび上がっていた『仁義礼智忠信孝悌』の八字ではなく、その前に浮かび上がっていたという『如是畜生発菩提心』の八字であった。
生野はこれを、里見義堯の八犬家に対する怨みが晴れていないことの証しであり、八犬家に向けられた呪いであると判断する。
死んでいる者の怨みであれば供養もできようが、生きている人間。しかも主人となる相手からの怨みでは、こちらが死ぬ以外に晴らす術が思いつかない。
そこで主人は、この珠にかかった呪いを過去にならい解こうと考えた。八つの珠が産まれた時の状況を、自ら作りあげようとしたのである。
生野は|八海をつれ、かつて初代八犬士が隠棲した地であり、八犬士の魂の両親ともいえる八房と伏姫がこもった地でもある、富山の地に入山した。
彼は八海の食事に八つの珠を混ぜ込み、彼女に飲み込ませ、かつて伏姫がしたように、毎日八海と一緒に暮らしながら法華経を読経し続けた。
富山という地が霊的な力に恵まれた地であったのか、呪いの力がそうさせたのか、二人の生活が一ヶ月を過ぎたある日。彼女の腹がふくらむ。八風は愛する主人の気を受けて懐妊したのだ。
生野は狼狽する。自分でこの行為を始めたものの、本当に母が懐妊するとは思っていなかったのであろう。八犬家を救わねばならぬという重責を背負いながら、その方法が見いだせず、藁にもすがる思いで、この行為におよんだのだ。まさにこれは、奇跡とも呪いとも呼べる出来事。
己の懐妊を悟った八海は、両膝をついたまま固まってしまった生野の腰から、刀を引き抜き主人の前に置く。
彼女は聞いていたのだ。主人とその友人との長崎での生活の中で、初代八犬士の活躍の物語を。
彼は震える手で刀を手に取った。
八海は大地を背にして寝転がり、服従の姿勢をとる。
生野は血の涙を流し、嗚咽を漏らしながら彼女の腹を裂いた。このときの彼の姿を、八海は一生忘れないだろう。
生野は彼女の腹に手を入れ、珠を取り出した。取り出した八つの珠は真ん中からきれいに割れ、十六の半珠となって彼の手におさまった。
そのうちの半分は、生野の望みに応え、『仁義礼智忠信孝悌』の文字を宿していたが、もう半分はこれまで通り、『如是畜生発菩提心』の文字を宿したままであった。
唖然として半珠を見ていた彼がはじかれたように顔をあげ、すでに息を引き取っていた八海の腹に耳をあてる。
生野は聞いたのだ。死の国へと旅立った彼女の腹から、生命の息吹が吹きすさぶのを。
彼は半珠を置き、もう一度八海の腹に手を入れる。次に引き抜いたときには、手の中で産声をあげる八風がいた。
このとき、彼女は喜びのあまり鳴いていたのだ。これでまた、愛する主人のために命をかけて働くことができると。彼女は八風でありながら、八海でもあった。彼女の記憶と想いを引き継ぎ、新たな命としてこの世に誕生したのである。
すでに東の空から陽が顔を出しはじめ、長き夜は終わりを告げた。
主人を背負い、走り続けていた八風が血を吐きだす。いよいよ最後の時が近づいている。
だがもう少し。彼女の鼻と耳は、いま目の前に広がる森の向こうに川の存在を感じ取っている。
八風が森に足を踏み入れてから程なくして、彼女は崖に行き当たった。嗅ぎ取ったのは、この崖の下を流れる川のものであった。八風は崖へとむかって、地面を踏む足に力を入れゆっくりと歩く。
川を見下ろせる崖の端まで進み出て、歩みをとめた。そこから、前を向いたまま、慎重に後ろにさがり始める。その足を、前に進むときにできた、彼女の足跡にしっかりと踏み合わせて退く。
その状態で森の中まで戻り、そこから残された力を振り絞り、驚異的な脚力で、生野を乗せたまま遠く離れた藪の中へと跳びこむ。そこからさらに、藪の奥へと這うように入り、藪の背丈が八風をすっかりとおおいい隠せるところまで来ると、生野を丁寧におろした。雨のおかげで少しだけ息が整った主人の体に、その雨と追手から守るために覆いかぶさる。ここまでしても彼ならきっと見つけてくれると信じて。主人と主人の妹と同じ匂いのした彼女なら、主人を必ず助けてくれる。
安心し目を閉じた八風の顔は、まるで天女の微笑のようであった。