(三十五)
煎十郎は、いつもの大きな箱を背負い、時雨と共に小田原城へとむかっていた。むろん小太郎の指示である。八犬士との戦には勝利したものの、北条方の守備兵にかなりの負傷者がでたらしい。北条に医者がいない訳ではないが、小太郎としては少しでも氏康の印象を良くしておきたいという考えなのであろう。
夕刻より眠りについていた煎十郎だったが、この報せに飛び起き、仕度を整えてくれていた時雨をともない、本丸への道を急いでいる。
ただ、箱が少々重い。煎十郎が書き上げた書までもが詰め込まれているせいだ。時雨曰く、静馬から火急の報せが届きし時は、この書も持たせて出立させよと言われていたものらしい。彼の考えは煎十郎には想像もつかないが、彼のことであるから、なんらかの意図があるのだろう。
もうすぐ二の丸に続く銅門にたどりつこうというところで、大きくて白い毛並みの犬が二の丸方面から現れ、驚くべき速さで、ふたりの横を駆け抜けてふたりいく。
「煎十郎殿! あの犬、怪我人を背負っていたようでございます!」
犬が消えた闇を指さしながら時雨が叫ぶが、彼からの返事が返ってこない。
「煎十郎殿?」
彼女の声が届いていないのか、煎十郎は犬が飛び込んでいった闇を呆然と見つめていた。
再び時雨が声をかけようとしたのを遮ったは、背後から聞こえた数人の足音である。
「お前たち! 犬を、犬を見なかったか!」
先頭を走っていたのは小太郎だった。ふたりの風魔衆を引き連れ、鬼のような形相で駆けてくる。
「白い犬だ! 人を背負っていたであろう。どちらへ行った」
「お、大手門の方に。父上、いったい何が?」
「説明している暇はない! お前たちは早く本丸へ行け!」
怒鳴りつけるようにそう言うと、小太郎達も闇の中へと消えて行く。
「いったい何ごとでございましょうか?」
「……八海」
彼が突如走り出した。本丸にではない。犬の消えた先にむかってだ。
「煎十郎殿!」
時雨も慌ててあとを追う。
ふたりが大手門へとたどり着いたときには、大手門の見張りがざわついていた。
聞き耳をたてれば、あんな大きな犬は初めて見ただの、最近風魔がでかい面をしているだのそんな言葉が聞こえてくる。どうやら人を背負った犬も、小太郎たちもすでに大手門を抜けたようである。
大きく肩で息をしながら、悲壮な顔つきで大手門を見つめる彼に、彼女はたまらず声をかける。
「煎十郎殿、いったいどうなされたのですか? 先ほどの犬に心当りでもおありになるのですか?」
煎十郎は答えずに歩きだす。そのまま、番兵に頭を下げ大手門を抜ける。
「……似ていたのです」
降り出した雨がうっすらと彼らを濡らし始めたころ、煎十郎は思い出したかのように時雨の問いに答える。
「あの犬が、私のよく知る犬に」
あの犬は、日本でよく見かけられる犬とは明らかに違う。体躯は日本の犬よりはるかに大きく、耳がどこにあるのかわからぬくらい、豊かできれいな白い毛におおわれていた。
煎十郎はその犬によく似た犬を見たことがある。それどころか、共に生活をしていた。
さらに顔こそ見えなかったが、先程の犬が背負っていた者の体格は、煎十郎がよく知る人物に似ていたように感じる。
煎十郎を言葉にできぬ不安が襲う。怪我人のことも、これからのことさえも頭からすっぽりと抜け落ち、あの白い犬を追いかけたい衝動に駆られる。だが、それはできるはずもない。煎十郎は本丸に仕事がある。なかったとしても、彼には犬はもちろん小太郎たちにも追いつける脚力を持っていない。
「おう。ふたりともここにいたか。丁度良かった。屋敷に迎えに行く手間がはぶけたな」
当てもなく雨に打たれながら歩いていた二人に陽気な声がかかる。
「静馬さん?」
「兄様?」
ふたりが揃って顔をむけた先には、馬を二頭ひいて歩く静馬の姿があった。
「迎えにとは? いったいどうなされたのですか?」
彼女の問いに、静馬は一頭の首筋をたたきながら答える。
「うむ。実は最後の八犬士にまんまと逃げられてのう。相手は犬に乗っておってな。頭領たちが馬鹿正直に追っておるが、じきに見失うであろうから、探すのをお前たちにも手伝ってもらおうと思ったのだ。人手は大いに越したことはない。蟒蛇にも頼んだのだが、あやつ首を強く捻られて痛めたとかで、しばらく大人しくしているそうだ」
唐突な静馬の依頼に時雨は困惑する。
「いえ兄様。私達はこれから本丸に戻り―――」
「行きます! 手伝わせてください! 拙者もあの犬を見つけたいのです!」
もしかしたら、そこに親友がいるかもしれないのだ。煎十郎が初めて小太郎の指示以外のことを優先させようとしている。珍しい彼の剣幕に、静馬は目を丸くし、時雨はすぐさま手のひらを返す。
「行きます。兄様、一頭は私達が使わせて頂いてよろしいのですよね?」
「お、おう。時雨はともかく、煎十郎が乗り気になってくれるとは思わなかったな。助かる。頼むぞ」
若干引きつった笑みを浮かべ、一頭の手綱を時雨に渡そうとする。
「お待ちください。八犬士の追跡、是非私もお連れくださいませ」
乙霧である。少しばかりかわった形状の傘を差し、悠然と建物の陰から進み出て来る。
「乙霧殿。貴殿はもう充分に役目を果たされたと思うが。もしかして、貴殿も最後の八犬士に興味があるか?」
静馬の問いに、静馬にはさして効果がないのはわかっているだろうに、乙霧は妖艶に微笑む。
「ええ、静馬殿と同じでございます。呪言を生みだし、ここまでの計画を立てた相手。是非ともきちんとご挨拶したく」
「そうか。まぁ、拙者としては助かるな。これでかの犬を見失うことはなかろう」
静馬の言葉に乙霧は不思議そうな顔をする。
「あら? 私はあの犬の行方など存じませんよ?」
静馬が声をあげて笑った。
「なにを言われる。貴殿には、一夜の眼があるではないか」
そう言ってあらためて時雨に手綱を渡し、乙霧を後ろに乗せるよう指示すると、自身は煎十郎を後ろに乗せ、ゆっくりと馬を走らせた。