(三十四)
「風魔の負けだな」
静馬は兵之助の死体を検分しながらこの戦に決着がついたことを悟った。
勝ったのは八犬士でも北条でも、ましてや風魔でもない。勝ったのは一夜。
遠目に光をまとった八犬士が、悠悠と見えない階段をのぼって小田原城に向かうのを見て、薄々と感じていたことではあったが、こうして真っ二つに割れた兵之助の顔を見ると実感せざるをえない。
やむにやまれぬ事情で、配置につくのが遅れた静馬は、小太郎の采配で兵之助との配置を交換させられていた。兵之助が城下町内の警備、静馬が外回りの巡回に。
小太郎としては、残った者の中で一番腕の立つ静馬を重要度の高い城下町の警備につけたかったが、所定の時刻に静馬が現れなかったため、やむなく先に待機していた兵之助に城下町の警備を命じる。お蔭で彼は小太郎からたっぷりとお小言をもらってから、小田原の裏手にある山林方面への巡回に出立することになった。
道すがら聞いた連絡役の話によれば、兵之助が先の光の八犬士を発見し交戦にいたったのは、静馬がここから離れた場所を巡回しているとき。まるでこちらの動きを監視していたかのように、連携できない時を見計らって動かれた。
これはますます苦しくなったなと、かわいい弟妹分のことを考えながら思わずにはいられない。あの光の八犬士の小田原城攻略はおそらく失敗に終わる。乙霧とて、まさか八犬士が宙を歩いて城に向かうとは考えもつかなかったろう。なにせ自分が小太郎から巡回を強化するように言われたのは小田原城を見下ろせる山側。もちろん乙霧の助言によるもので、彼女はそちら側から火付けを担当する八犬士が何らかの方法で『呪言』の力を届かせるのではと考えていた節がある。
結果は違った。だが、あの八犬士も乙霧の考えた炎に対する善後策に考えが及ぶとは思われない。あの女以外の誰が、火を消すのではなく、火を移動させることを考えるというのか。
かわいい二人を不憫とは思いつつも、自分よりも遥かに荒唐無稽なことを思いつく者たちがいる世間の広さに、静馬は口元が緩むのを抑えきれない。
静馬は風魔の生き方が嫌いだ。
これまでの風魔の生き方も。四代目小太郎の目指す、これからの風魔の生き方も。
どちらの生き方も自由がない。
静馬はもっと自由に生きたかった。
個人がしたい生き方ができればいい。夫婦になりたいと思った者たちが自由に夫婦になれればいいと、静馬は思う。子供の頃から風魔の為だけにと言われて育った反動か、気がつけばこういう物の考え方をするようになっていた。もっとも、そんな静馬も、誰もが自由に生きることができる時代が、実際にくるなどとは微塵も思ってはいない。
静馬は配下の風魔衆に、二人の死体の片づけを指示すると思案にふける。
一夜の勝利はすでにゆるがない。これでは煎十郎が一夜に連れていかれてしまう。煎十郎から聞いた乙霧の体質が本当のことだとすれば、乙霧が役目を果たしたことを自身で認識し、煎十郎に近付いた時点で、時雨の敗北は決定的。それでも彼女が想いをとげるとすれば、時雨自身にも伝えたが、乙霧に煎十郎より相性の良い相手を見つけさせることであった。だが、もう風魔衆以外の男を乙霧に引きあわせている時間はない。なにせ煎十郎がすでに小太郎から命じられた最後のお役目を終えてしまっている。まさか煎十郎の勤勉さがこのようなところで二人の首を絞めることになろうとは、さすがの静馬も考えてもみなかった。
これでふたりを風魔のしがらみから解きはなてる方法はひとつしかない。
「殺してやるほかないか」
だが問題は時と場所。まかり間違えば風魔が一夜を敵に回すことになりかねない。おそらくいまの風魔では戦わずして一夜に敗れさる。一夜はそういう術に長けている。よほどうまく立ち回らなければ難しい。
静馬は風魔の生き方や慣習は嫌いだが、小太郎自身も含めて、風魔の人々が嫌いなわけではない。風魔がなくなるのはかまわぬが、風魔の人が滅ぶのは避けたい。
「生き残って逃げてくれると都合がいいのだがな」
呟きながら足を使って、赤い石を周りの土で覆い隠す。
「どうかされましたか、静馬殿?」
兵之助と共に八犬士を襲い生き残った風魔衆の一人が、静馬の呟きを聞きつけ声をかけてくる。
「いや、なんでもない。それより犬はどうした?」
「は?」
「犬だ。八犬士と一緒にいたという大きくて白い犬だ。お前たちがここに戻った時にはいたのか?」
静馬が遠目に八犬士のそばには、そんな犬はいなかった。宙を歩いていたのは八犬士ひとりのみ。
「ああ。いえ、おりませんでしたが、所詮は犬でございましょう? 主がいなくなって野にでも帰ったのでは?」
「破顔丸を始末してみせた奴がか?」
気にする必要はないのかもしれない。だが気になる。
あの八犬士自身は小田原攻略が成功しようとしまいと死ぬ覚悟であろうが、犬がその主人の覚悟とは別に行動を起こさないと誰が言えよう。相手はあの八犬士の犬なのだ。
とはいえ、いまは犬よりも八犬士。
もしも彼が生きのびて逃げるとすれば安房。裏をかくような余裕があるとは思われないから、いったん別の方面に逃げて隠れるということはないだろう。
安房に逃げるとすれば、陸路と海路があるが、海路は可能性からすてる。氏政が敗れたといっても、海軍はほぼ無傷で戻って来るのだ。隠れることのできない海路はさけるだろう。
となれば武蔵の国の滝山城方面に逃げるのが無難になる。少し道を外れるだけで深い森が広がっているからだ。
「そちらに逃げてくれれば、望みがでてくるか」
静馬は厳しい眼つきで、また少し遠くなった光を見つめた。
「逃げるのを確認してからでは見失うな」
だがいますぐに八犬士が生き残った際の網を張るよう小太郎に進言すれば、間違いなく小田原城下に網を張るよう指示がくだる。それでは彼が賭けにでられない。
あの八犬士が襲撃失敗後、仮に生き残ることができたとしても、十中八九、五体満足ではないはずだ。いまは姿の見えぬ八犬士の犬が奇跡を起こしてくれるのを当てにする訳にもいかない。
逃げた八犬士捕縛の網を相模と武蔵の国境まで下げるだけなら、実際に八犬士が逃げてからのんびりと小太郎に報告すれば良いのだが、これだと姿の見えぬ犬の存在が不気味すぎる。もし八犬士が連れていた犬というのが、八犬士の首を回収していった犬であるならば、人ひとり背負って走ることくらいは難なくできそうだ。
いい案が浮かばぬまま、小田原城へと足を向けたとき、くたびれた印象の壮年の風魔衆が声をかけてくる。
「静馬。お主もいまから城の応援か」
名は逆鉾。今回の八犬士に対する組分けで、連絡組頭を任せられた男だ。かつては小太郎と四代目を競ったほどの手練れの乱波。
ただ、いまも壮健な小太郎と比べると、老いに身体も心も蝕まれ、若かりし頃の面影は残っていない。今回組頭に任命されたのも、いまの実力というよりは年齢と経験を考慮してのものだ。組頭になってからも実際に連絡組の者達に指示をだしていたのは別の者で、逆鉾は相談役をしている。ここにきて風魔衆の手が足りなくなってきたために、自分自身も連絡役として走りだしたのだろうが、いかんせん若い者たちにはまったくと言っていいほどついていけていないのだ。
「もということは、逆鉾様もでございますか?」
「いや、わしは最後の人集めじゃ。使うにしろ使わぬにしろ、本丸に掛けた布は最終的に糸を引いて回収せねばならんからな。もう足りてはおるが、人が多い方が片付けが早くおわろう。いまのわしではこんな仕事を任せられるのが関の山よ」
「なにを言われる。かつて迅雷の逆鉾とまで呼ばれたお方が」
「昔の話じゃ。所詮は頭領になり損ねた男よ」
なかば吐き捨てるように言う逆鉾を見て、静馬は顎を撫でる。
だいぶ覇気を失ってはいるが、現状への不満といまの小太郎への嫉妬までは失っていないようだ。
「……まだ諦めるのは早いのではござらぬか?」
「なにを言いだすのだ。お主」
逆鉾は驚きながらも声をひそめる。
「考えてもごらんなされ。おそらくあの八犬士の襲撃は失敗するでしょうが、その対応策を示したのは一夜衆の乙霧殿でござる。頭領はなにもなされてはおらぬ」
「その一夜の協力をとりつけてきたのは頭領ではないか」
「自ら何の対策も講じなかったことが、多くの乱波衆を失う結果に繋がってござる。これは充分に糾弾されるべきこと。次代の小太郎候補と呼ばれていた者も、ほとんどが手柄をあげてはござらん。しかも死人まででている始末。逆鉾様はすでにお聞き及びと存ずるが、氏政様は里見との戦に敗れた。つまり氏政様の元に残った般若もまったく手柄がない。ここで逆鉾殿が一番の手柄を立てれば、頭領をいまの立場から追いやり、風魔を正しき道に戻すことも不可能ではござらん」
「た、正しき道?」
くたびれた風魔は戸惑いながらも、静馬の言葉に耳をふさぐことができない。
「頭領が推し進めている里の為に戦えぬ者を優遇する道ではなく、命を懸けて戦っている乱波衆が正しく評価される風魔の道でござる」
静馬はまったく思ってもいないことを真剣な顔つきで熱く語る。
その身も凍るような熱は、すでに終わったかと思われた男の野心に火を点ける
「おお。……いや待て、静馬。いまのこの状態で一番手柄とは?」
「むろん、八犬士の大将の首。いま城に向かって宙を歩いておる男こそ、間違いなく八犬士の大将」
「どうやって宙にいる男を討つ? 弓や鉄砲を用意しておる間はあるか?」
「いや、それはおそらく用意しても無駄でしょう。ご覧あれ」
静馬は袖から棒手裏剣をだしたかと思うと、光の八犬士が歩いたと思われる箇所に向かって投げつける。
なんと棒手裏剣が宙で止まった。
「な、なんと!」
「八犬士の呪言の一つでございますな。この力をもちいて城に向かった以上、もう勝敗は決しているのです。先程も言いましたが、乙霧殿の勝ちです」
「八犬士でなくか?」
「はい。逆鉾殿が懸命に人集めをなされたお蔭でございます。八犬士が燃やせるのは瓦をおおった布のみとなりましょう。布につけられた糸を引くは風魔なれど、策を講じたのは乙霧殿。いまの我らにできるのは、八犬士が生きて小田原を脱出し、体勢を立て直してくれるのを祈るのみ。そしてそうなったらしめたもの。その八犬士を逆鉾様が討たれればよいのです」
「ここで八犬士が死んだら?」
「その時は、唯一自力で八犬士の首を取った拙者が、他の乱波衆を味方に引き入れたうえで、逆鉾様を頭領に推します。般若も次期頭領を確約してやりさえすれば味方につくでしょう」
逆鉾は唾を飲み込むと、耐え切れんとばかりに乾いた声をだす。
「なぜお前がそこまでする?」
静馬はにやりと笑う。性格の悪さを強調するような笑みだ。
「よくぞ聞いてくださった。もし上手く逆鉾様が頭領になられましたら、拙者を風魔からだして欲しいのです。無論、風魔をやめれるとは思ってはござらん。諸国巡業の任を拙者に命じてくださればよい」
彼との距離をつめ耳元でささやく。
「逆鉾様はご存知でございましょう? 私が常々自由に生きたいと願っておることを。いまの頭領の下ではそれは叶いませぬ。拙者は自由を手に入れる。逆鉾様は小太郎を手に入れる。悪い条件ではございますまい」
「うむ。確かにお主にそういった願望があることは感じておった。確かに頭領なら、耐え忍び風魔におれというに決まっておる。よしわかった。お主の願い聞き届けようではないか」
逆鉾が自身を納得させるように何度もうなずく。
「おお! よくぞ決心してくだされた。それではお耳を。策をお伝えいたします」
静馬は噴きだしそうになるのを必死に堪えながら、今後の計画を逆鉾に耳打ちした。