(三十一)
ときは、お礼がお信磨を上階に向かわせる為に暴れだしたところまで遡る。
お信磨は涙が零れそうになるのを懸命に抑え、階段を駆けのぼった。とてつもなく太っているとはいえ、呪言の力で体重を楽々と支えられるほどの筋力も得ているその足は、その体型に反して速い。
ただ階段を踏み鳴らす音は体重に比例して大きく、お礼の呪いの力で姿を消してはいても、それを無駄にするほどの大音響が城内にひびく。
居場所がばれるのは覚悟のうえだ。姉と慕う相手が開いてくれた血路。進まぬわけにはいかなかった。
彼女はお礼に言われた通り、本丸内の階段のそばの物陰で、息を潜めてお礼が騒ぎで見張りがはなれるのを待っていた。
計画通り騒ぎは起こる。ただし階段のすぐ前でだ。階段を守り固めていた二人の北条兵のうちの一人は、飛んできた風魔衆に巻き込まれ壁へと叩きつけられ、もう一人は宙に浮かぶ血塗られた拳に殴られ、血を噴きだしながら倒れる。
宙に浮かぶ『礼』と『畜』の光る二つの文字を見て、お礼が切り札の呪言を解放したことがわかった。小火を起こして騒ぎ立てるのが難しい事態が発生したのだとも理解する。
瞬間、彼女は階段へと走りだす。
涙がこぼれそうになるのを必死でおさえながら。
上階にあがったお信磨を追い、お礼も駆けあがってくる。その体は赤く染まり、すでに姿を消す『呪言』は意味を失くしていた。
その異様な姿に、警備の者たちが彼女に群がる。上の階からも人がおりてきた。お信磨は廊下の端によってそれらの人をやり過ごし、奥へと進む。
すれ違う者の何人かは、大きな音に何ごとかとお信磨の方を見てくるが、目に映る異変を前にしては、目に見えぬ異変など、意識の片隅に追いやられ、首を捻りながらもお礼の方へと向かっていく。
お信磨は警備のいなくなった最上階へと続く階段の前でいったん立ち止まり、暴れる彼女に目をむける。
もう我慢できなかった。姉と慕ってきたお礼が、己の命を削ってまで呪いの力を振るう。涙を抑えきれるわけがない。お信磨の体に塗布されたお礼の呪言が、彼女の呪言である油の涙ではじかれ、顔の一部があらわになる。
お信磨は、なんとかお礼から視線を外し、階段をのぼった。先程立ち止まってしまったためか、汗までが噴きだす。こうなると、もう姿を消す呪いは意味をなさない。だが幸いなことに最上階はすぐそこだ。警備の者もお礼に誘い出され、ここには誰もいない。
もうこそこそする必要はなかった。彼女は服を脱ぎすて、油の汗を周囲に飛び散らせながら最後の階段をのぼりきる。
階段をのぼりきったさきの広間の奥に、老年の武士が鎮座していた。ただ座っているだけだというのに、お信磨は老人に強い恐怖をおぼえる。おそらくあれが、北条氏康だろう。
彼女の姿を見とめても、氏康は動かない。代わりに小姓とおぼしき少年が、刀を抜いてお信磨の前に立ちはだかる。
お信磨はそれにはかまわず、周囲を見回す。屋根の上に出たいのだが、ここの天井には手が届かない。
手ごろなものが見つかった。外に出るのにちょうどよさげな格子窓がある。あそこからなら、屋根瓦にも手が届きそうだ。
格子窓に近づいたところで小姓が斬りかかってくるが、刀はお信磨の背中を滑り、小姓は勢い余って床を転がる。小姓には見向きもせず格子に手をかけた。頑丈に作られたそれは、彼女が体重をかけてもびくともしない。
「おのれ、化け物!」
体勢を立てなおした小姓が、再びお信磨に斬りかかろうとする。
「馬鹿者。後ろじゃ」
落ち着きを感じさせる声に、小姓とお信磨が同時に振り返る。
氏康が面倒臭そうに顎をしゃくった。
その先にはいたのはお礼。その姿は赤き鬼。
「くそっ!」
小姓が体の向きをかえ、お礼に斬りかかるが、お礼は簡単に小姓の手から刀をはたき落し、小姓の顔に平手打ちを喰らわせる。彼は他愛もなく崩れ落ちた。
「ねえさん」
お信磨の目から再び涙がこぼれる。
「ちょっと手荒にするけど、我慢しておくれ」
お礼は手のひらを上にして手を組み、お信磨の足の前に差し出した。
彼女はお礼の意図を悟り、両手の手のひらを天井にかざし、差し出された手に片足をのせた。
「……最後まで面倒かけてごめんね、ねえさん」
「あたしはさ。あんたらの世話を焼けるのが嬉しいんだよ」
お礼が笑顔で言う。
最後に彼女の顔が見られて良かった。笑顔が見られて良かったとお信磨は心から思う。
思い残すことがなくなり、彼女はしっかりと頷く。
頷き返したお礼はお信磨を天井に向かって放り投げる。
彼女は天井を突き破り屋根裏へと躍り出た。
「見事!」
氏康の笑い声を遠くに聞きながら、お信磨は今度は自力で跳ね飛び、今度は屋根瓦を突き破り、遂に屋根の上へとたどりつく。
ようやく目的の場所にたどり着いたというのに、お信磨の顔には疑問が浮かんでいた。
屋根を突き破った感触がおかしかったのだ。瓦以外にもなにかを突き破った感じがあった。しかも足下の感覚も直瓦を踏んでいる感触ではない。
「これは……布?」
そう瓦の上に布が敷いてあった。屋根の修繕でもしていたのかと、お信磨は足元に手を伸ばす。
「遅かったではないか」
ぎょっとして、伸ばしかけた手をとめ、お信磨は声のした方を見た。
人が座っていた。呆れたことに盃を傾けながらである。
「風魔衆が一人、富蔵じゃ。敵には滅多に名乗らぬゆえ、地獄で自慢するがよい」
富蔵が盃を持たぬ方の手をあげた。それを合図に、どこに隠れていたのか、風魔衆が六人姿をあらわす。その中には一階でお礼と戦っていた二人の風魔衆の姿もある。
相手は戦う気になっているようだったが、お信磨の方には、風魔衆とまともにやりあう気はない。
彼女の目的は、屋根の上を油まみれにすることだ。考えてみれば布が敷いてあるのも都合がよい。瓦だけよりもよく燃えることだろう。
「我、信へと辿る道、我が命をもって菩提とならん!」
お信磨は両乳房に埋め込まれた半珠の輝きが増すと、風魔衆がいるのとは逆方向に走り出し、勢いがついたところで屋根の上に身を投げた。腹から着地し油が飛び散る。両手で屋根をかくと、お信磨の体が滑り出した。風魔の里、小太郎屋敷の再現である。
しかし今度は風魔衆の動きが違った。座ったままの富蔵以外は、屋敷の時と同じようにお信磨を追いかけて来る。だが今回は結果が違った。お信磨が油を撒き散らしたところを踏んでも転ばない。彼らの足元をよく見れば、彼らは少しばかり浮いていた。柄を外した忍び刀を足の指ではさみ、峰に足を乗せ、油の上を刀の刃で滑りながら進んで来ているではないか。
さらに彼らは、先端に袋をつけた太い紐を頭上で振りまわす。お信磨との距離を最初に詰めた者が、それをお彼女目がけて投げつけた。袋がお信磨の体に当たり、袋の中身が彼女の体に降りかかる。
「あつっ!」
お信磨が思わず悲鳴をあげた。どうやらそれはかなり高温の湯のようであった。だが、おかしい。湯といえども水であることに変わりはないはずだ。水ならば油を流し続ける自分の体にはじかれるはずなのだ。それなのにこれははじかれることなく自分の体の表面を覆った油に溶け込んでくる。
答えはでなかったが、お信磨は気にするのをやめた。確かに熱い。しかし我慢できぬほどではない。
やりたければやればいいと、お信磨は風魔衆の動きにとらわれずに暴れまわった。
だが、やがて彼女は自分の体に異変を感じる。
呪言の力は継続中であるのに、油の出が悪くなった気がするのだ。滑り具合も微妙に悪くなっている。
「頃合いのようだな」
それまで、酒をあおりながら追いかけっこを眺めていた富蔵が立ちあがり、盃を投げ捨てた。
それを見た風魔衆が、八方手裏剣を手にして構える。
「やれい!」
富蔵の掛け声で、手裏剣がお信磨目がけて投げつけられた。
数を増やしても、取り囲むように投げても、手裏剣のような武器では、お信磨の体に当たった瞬間に表面の油に包まれ、明後日の方角へと飛んでいくはずであった。
ところが今回に限ってその現象は起きなかった。すべての八方手裏剣が、お礼の体に突き刺さったのである。
「ああ!」
予想をしていなかった痛みに、お信磨の動きがとまった。
そんな彼女の両手の上に、大跳躍を見せた富蔵が着地する。
お信磨の口からまたもや悲鳴があがった。
富蔵も他の風魔衆と同様に、足の指で刀の刃を挟み込んでいたのである。ただし、切っ先を下に向けて。その切っ先がお信磨の手の甲に突き刺さり、手と屋根を縫いつけた。
「不思議か? 武器がささったのが。儂も不思議だ」
しゃがみこみ、彼が薄笑いを浮かべる。酒臭い息がお信磨の鼻を襲う。
「先にお前にかけた物があったろう。あれは油だ」
彼女は驚きに痛みも忘れて、富蔵の顔を見上げた。
「お前の体から出とるのも油のようじゃのう。ただし、お前にかけた油は、お前のだしとる油とは種類が違うらしい。普段は蝋のように固まっておるものだそうだ。それを高熱で溶かした物が、お前にかけた物の正体だ」
「そんな馬鹿な話があるか! そんなことで、わたしの……兄上の呪言が破られてたまるか!」
お信磨の叫びに、彼は心底困ったような顔をして見せる。
「儂に言うな。儂も不思議だと言うたであろうが。まあ、理由なんぞどうでもよい。大事なのは結果よ。目的を果たすことこそが肝要。そこにいたるまでの道など、百人おれば百通りあってよい。そうであろう八犬士」
富蔵は刀を抜き逆手に持ちかえ、お信磨の頭上に掲げた。
「お主はよくやった。かの者の知恵なくば、あれが儂の最後の酒になっておったろうな。さらばだ」
自分に突き下ろされる刃を見て彼女は思う。この男の言う通りだと。
目的を果たすことこそが肝要。当初の目的である、小田原城本丸の屋根を油まみれにする作業は終えた。
お信磨は両手をななめ前へと突き出した。磨きあげられた刃が、両手を切り裂き、彼女は自由を取り戻す。首をのけぞらせ、突き下ろされた刃の被害を顎先のみに留めた。
「ぬっ! 悪あがきをするでないわ」
お信磨の知ったことではない。これが八犬士のやり方だ。自身を傷つけようとも敵に牙を突きたてる。
彼女は富蔵の両脚に抱きつく。手前に刺さっていた刀が、お信磨の胸を傷つけたが構いもしなかった。彼を押し倒し、屋根の斜面を地面へと向かって転がる。
途中、奥歯に仕込んでいた石を何度も何度も噛みあわせた。お信磨の口から火花が飛び散り、彼女の体が炎に包まれる。その火は富蔵にも燃え移り、彼が悲鳴をあげた。転がる勢いが増し、二人の体が屋根から外れ、宙へと放りだされる。
お信磨はその命を燃やし尽くそうとしている最中、確かに見た。
夜の闇が、己の炎よりも明るく照らされるのを。敬愛する兄が、天から自分を見守ってくれているのを。
死にゆく彼女の願望が見せた幻ではない。炎が作りだしたまやかしでもない。
距離的にあり得ぬことでも彼女はしかと異父兄の美しい顔をそこに見た。
彼女は最後に残された意識で願う。
(どうか悲願を達成されますよう)
お信磨は大地に醜く潰れたあとも、闇夜を照らす美しい光のひとつとなって、生野を見あげていた。