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墓無忍夢  作者: 地辻夜行
五章 難攻不落の城に、呪いの牙が喰らいつく
30/43

(三十)

 やはり駄目だったかと、乙霧は胸の内でため息をついていた。

 できれば八犬士の最後の策を未然に防ぎ、美男の八犬士を無傷で捕える機会を手にいれたかったが、そう上手くことは運ばない。

 最後の八犬士の呪いが姿を消すものというのは、可能性の一つとして考えていた。他者の姿も消せることも、油を撒く女を本丸の屋根へと導こうとすることも、全て可能性としてはあったのだ。

 だが考えるだけでは意味がない。

 だからうてる手はすべてうつ。それが乙霧の基本方針。剛心(ごうしん)相手に大声で推論のひとつを語ってみせたのも、八剣士が姿を消して聞いていることを期待してのことだ。

 最後の八犬士がそれを耳にするようなことがあれば、小火(ぼや)を起こすといった陽動をしにくくなる。そう考えてのことだった。上手くいけば正面から姿を現してくれるのではと期待して。

 その点に関してだけいえば、乙霧の思惑通りに事は運ぶ。

 しかしまさかその最後の八犬士が、ここまでの戦闘力を秘めていようとは、乙霧の想像の域をはるかに超えている。さらに予想のひとつにあったとはいえ、姿を消す呪いの効果は、他人にまで及ぼせるものらしく、油をまき散らす八犬士が姿を消していた。

 ふたりの風魔衆に続いて二階へと上がった乙霧は唖然とする。

 二階ではすでに赤い暴風が吹き荒れていた。斬りかかる北条兵の槍は片っ端から折られ、刀を抜いて迂闊に近づく者は例外なく叩きのめされる。すでに多くの者が床に転がっていた。人数から見て上の階層からも人が下りてきているようではあったが、焼け石に水。人の倒れる音、壁にぶつかる音。これらの音が響き、とてもではないが、姿を消している女の歩く音を聞き分けることなどできない。

 乙霧と最後の八犬士の眼が合った。乙霧の背筋が凍る。あんな力を永続的に使えるとは思えないが、少なくともあの場所から乙霧のところまで走り、乙霧を捻り殺すくらいの時間は残されているだろう。

 ところが最後の八犬士はそうはしない。さらに上の階層に行くために階段へ向かったのだ。

 まさか姿を消したままの八犬士を、最後まで守るつもりなのだろうか? 目的を果たすだけならば、ここに敵を引きつけた方が得策と思うが、最後の八犬士は、最後まで仲間である女の八犬士の進む道の露払いをしようとしているように見える。

「最上階には富蔵様がいらっしゃるのですよね?」

 乙霧の前で立ちつくす風魔衆に尋ねた。

「左様です。陰ながら、大殿の護衛につかれているはずでござる」

 乙霧が頷く。

「女の八犬士の対応の仕方は、富蔵様には伝わっております。女の八犬士には、ここで氏康様を害するつもりはないでしょう。富蔵様にはかの者が屋根に上がって来るのを待ち受けていただきたいのです。いま一番困るのは、氏康様のお側で戦闘行為が行われることでございます。武士団の方々の抵抗の仕方しだいでは、先程の者の『呪言』の力に氏康様が巻き込まれかねません。なんとか北条の方々に黙って道を譲らせることはできませぬか?」

「いや、さすがにそれは拙者らには……」

 わかっていたことだったが、乙霧は爪を噛む。どんなに優れた技量があっても、権力のなさはいかんともしがたい。

 現状では、被害を一番抑える方法は、八犬士の当初の目的である、火災を起こさせてやることだ。だが、北条の家臣団にはそれがわからない。わかっていても、ここまで入りこんだ敵を放っておくことなどできないだろう。氏康がここにいる以上、守らないことが守ることにつながるとしても、氏康からの直接の命があったとしても、彼らが北条家臣団である以上、それができるはずもない。

 彼女は自分はどうするべきかと忙しく頭を働かせる。

 もはや仲間が屋根に到達するまで、あの八犬士が暴れるのをやめることはないだろう。

 問題は目的を達した後。あの者がどうでるかだ。

 美男の八犬士がいつ現れるかにもよるだろう。小田原城の本丸に火を放ったあとならば、あの者は遠慮せずに氏康の命を狙うにちがいない。密かに暗殺という手を取りたくないというだけで、高らかに名乗りを上げたならば、戦場で討ち取るという名目を手にするからだ。

 問題はすべて時間。犬坂種智が小田原城に到達する時間。あの者の命が尽きる時間。

「わたしはこれより城をはなれます。お二人は、富蔵様に女の八犬士が上にあがったことを伝え、それを屋根にて待ち受け、討ち取るように伝えて欲しいのです。そのあとは、あの暴れている八犬士に私がここをはなれようとしていることを伝わるようにしむけてください。目的を達しさえすれば、あの者は私を追ってくると思いますので」

 下階にいた時、あの八犬士は明らかに自分を狙おうとした。この階でも、仲間を屋根に行かせることを優先してはいたが、目だけはしっかりと乙霧を捉えていた。

 いまはそれにかけるほかない。

 二人の返事を待たず、乙霧は階段を駆け下りる。

 あの八犬士に残された時間は決して長くないはず。思惑通り彼女を追って来てくれれば乙霧の思うつぼ。うまく時間さえ稼いでやれば、あとは勝手に自滅するはずだ。

 彼女が本丸を出たところで、増援の北条兵が本丸へと到着する。乙霧は頭を下げつつ脇にどける。女中の格好ではなかったが、風魔が城内に入ることは、彼らにも連絡がいきわたっていたのであろう、彼らは眉をひそめつつも、彼女をとがめることなく、通過しようとした。

 そのときである。彼らの前に、本丸内で暴れていたはずのお礼が天から降ってきたのは。

 姿を消す呪言はすでに意味がなく、身体を血と染料で赤く染めている。地面に着地した衝撃など微塵も感じさせず、自身の敵である彼らを睨みつけるその姿は、一匹の赤毛の獣の如し。

 驚きに支配されていた北条兵だったが、すぐに立ち直り、彼女に向かって槍をかまえる。

「貴様、見るからに怪しい奴! さては氏康様のお命を狙う、八犬士とか言う不届き者だな!」

 ふたりの北条兵がお礼の返事を待たず、真っ直ぐに槍を突きだす。その二本の槍を無造作に掴み、赤き獣と化した彼女はお礼ははゆらりと前に出る。

 彼女の手が塞がったのを見るや、乙霧は二の丸へと続く門へと、篝火が照らす道を走った。後方から北条兵の悲鳴が聞こえるが、立ち止まってなどいられない。だが、昨夜の恐怖にかられ逃げたときとは違う。これは目的を果たすための戦略的撤退。

 門をくぐり抜け、二の丸へと続く橋を渡っている最中、乙霧は膝の裏に重い衝撃を受け、前のめりに倒れこんだ。倒れたまま首だけを動かし状況を確認する乙霧の眼に、自分のふくらはぎの上に身動き一つしていない北条兵が一人乗っているのが映る。そして自分の脚のすぐ先に、お礼が文字の浮かぶ目を爛々と輝かせて立っていた。

 彼女は北条兵の死体を蹴りどかし、乙霧の首を片手で掴み宙づりにしてのける。

 乙霧は苦しさに顔をゆがめながら、なんとか逃れようとお礼の手を掴むが、指一本すらはがせない。すぐさま、前腕を両手でたたくが、彼女の首を締め付ける手の力はいっこうにゆるまない。

 意識が遠のきそうになり、乙霧は必死で足をばたつかせる。その足が、お礼が首から下げていたお守り袋の紐に引っかかった。紐は、耳と鼻が欠落し、髪の毛一本ない彼女の頭を抵抗なくするりと抜け、お守りはお礼の後方に飛んでいく。

 瞬間、乙霧の体が橋の上に落ちる。

 喉を押さえ、涙を滲ませながら顔をあげると、彼女が飛んでいったお守りを拾いあげようとしているところだった。あと少しでお礼の手がお守り袋に届くというところで、どこからか飛来した革袋がお礼の手に当たり、中に入っていた液体がお守り袋にかかる。お守り袋が白い煙をあげて溶け出した。

「ああっ!」

 お礼が慌てて飛び付き、溶けていく袋を破り捨て中身を取り出す。その手に先ほどと同じ革袋が当たり、中の液体はお礼の手ごとお守り袋の中身にかかる。液体は容赦なく、お礼の手の中のそれを溶かしていく。

「ああっ! ああっ!」

 お礼は必死にお守り袋の中身が溶けるのを手で止めようとするが、彼女の手はすでに液体にまみれ、溶解を押しとどめるどころか、一緒になって溶けていく。

「うむうむ。他の八犬士の毒はちゃんと効くんだな。安心したぞ」

 場違いな明るい声が昨日と同じように闇夜にひびく。

 その声を聞きながら、お礼はすでに以前の形がわからなくなってしまったお守り袋の中身を、ただれた手で口に放り込む。口の中が多少溶けたが、気にもとめず飲み込んだ。いたしかたなくの行動ではあったが、これで本当に生野とひとつになった。

 だが、その顔に喜びの表情はない。彼との誓いの証しが、あと一歩で煙となるところだったのである。

 怒りの表情を隠さないお礼の眼は、倒れている乙霧を映してはいなかった。

 彼女の赤き世界に映っていたのは、その向こうの黒い影。蟒蛇うわばみただひとり。

「殺す」

 お礼がが短く声を発し、一足飛びで乙霧を跳び越える。

「ふむ。いま飲みこんだのも呪言とやらか」

 蟒蛇は眼の前に迫るお礼に動揺することなく、興味深げに彼女を見やる。

 お礼がぐずぐずに崩れた拳を強く握りしめ、蟒蛇に叩きつけようとした直前、蟒蛇の黒衣を突き破り、無数の棒手裏剣が飛び出し、お礼の身体に突き刺さる。

「いかんなぁ。どんなに早く動いても、そんな直線的な動きでは、対処のしようがいくらでもある。鍛錬不足だな」

 驚きに見開かれたお礼の眼が、蟒蛇の破れた衣服の下に、男のモノとは明らかに違う乳房を見つける。

「……おま……え、女……か」

「いや、風魔さ」

 蟒蛇が不敵に笑う。

 だが、お礼も笑った。

 彼女が崩れた手で蟒蛇の頭を押さえる。

「おい。致死性だぞ。即効性の」

 彼女の声に初めて焦りのようなものがにじむ。

 お礼は躊躇うことなくその首を真後ろに回転させた。

 彼女が手をはなすと蟒蛇が真後ろを見たままその場に崩れ落ちる。

 とりあえずの標的を片付けたお礼は振り返り、一歩また一歩と乙霧にゆっくりと歩み寄る。

 彼女まであと数歩という所で、お礼がふらつく。そのまま橋の欄干にもたれかかった。

 乙霧が弾かれたように立ちあがり、お礼に駆け寄ると、堀に向かって彼女の身体を力一杯突き押す。すでに抵抗する力はなく、お礼は紅き眼を月夜に向けながら堀へと落ちていく。

 乙霧は彼女の最後の視線が気になり、月を見上げた。

 そこに犬坂生野種智がいた。

「……馬鹿な。いったいどんな仕組みで……」

 乙霧の空いた口が塞がらない。それもそうだろう。乙霧の頭の中に詰め込まれた古今東西の知識の中にでさえ、宙を階段を上るが如く歩む術など記されてはいなかったのだから。

 すでに生野の首からは、黒い布が取り除かれ、うなじに光が集まり、喉元から光を照射されている。

 全てを覆い隠す夜の帳の中で、彼だけが光を受け、彼だけが光を放つ。

 まさに天に選ばれたとしか言いようがない美しい男が、小田原城天守閣に向かって、慎重に足元を確かめる様なゆるりとした足取りではあったものの、着実に歩みを進めていた。

 神通力。乙霧の脳裏には忍術でも呪いでもなく、その言葉がうかぶ。

 まさに神に通ずる力であった。

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