(三)
勘兵衛が大声で軍団に指示をだすなか、先程まで樽のような腹をしていた犬川太助は、伸びきった皮だけをそのままに、嘘のように痩せ細り、愛馬萩の身体の上で仰向けに倒れこむ。
すでに小便連射砲はとまり、二つの半珠の光もすでに弱まっていた。
「安兵衛。穴はあいたぞーっ。後は任せた」
「ああ。太助兄ちゃんはゆっくり休んでな」
萩の上からの力のない太助の声に、荷車の上で力強く答えた安兵衛は、抱えていた石臼を勢いよく回し始める。
奇妙な石臼だった。
吉乃の両腕に埋め込まれていた石棒と色が同じ石が使われている。
上半分が赤、下半分が青。間に薄い布らしき物が挟まれていて二つの石を隔てている。
石臼上部の表面の中心には鉄棒が刺さり、石臼の下部まで突き抜けていて、その鉄棒には銅線が巻かれていた。銅線は鉄棒が突き出た箇所から、安兵衛の鉄脚と肉体の繋ぎ目へと伸びている。その繋ぎ目にあるのは半珠。
「我、仁を貫くは、我が命を全うするが如く!」
半珠の輝きと共に浮かび上がる文字
右足の半珠に『仁』、左足の半珠に『如』。
安兵衛が石臼を回す速度をさらにあげた。
半珠の輝きが増し、安兵衛の鉄脚に稲光が走る。
鉄脚と安兵衛の肉体の付け根、荷車と接していた面から突起物が出て、安兵衛の身体を起こす。
遂には、動かぬ筈のその鉄脚で、荷車の上にしっかりと立ってみせたのだ。
さらに鉄脚の足の裏には車輪が飛び出し、側面からは、はめ込まれていた剥き出しの刀がキリキリと音をたてて倒れ始める。それは足首のあたりで地面と水平になって止まり、その刃は正面を向く。
安兵衛は石臼から手を離し、半珠を軽く叩いた。
瞬間、轟音が轟いたかと思うと、荷台の上から安兵衛の姿が消える。
北条軍は、塩沢勘兵衛が必死に声を張りあげたおかげか、小便連射砲の犠牲者は二十には届かなかった。
そして、幸いにもこの馬鹿げた威力の兵器は、再度の使用がない。兵器の持ち主が馬上で倒れこんでいることから、それは明らかである。
なのに勘兵衛の悪夢は終わらない。
八犬士の元から轟音がしたかと思えば、兵達から悲鳴があがった。
小便連射砲を避けるために地面に伏した兵の上を、重量感たっぷりの鉄脚を持つ安兵衛が駆け抜けて行く。背中や後頭部といった体の背面に車輪の痕を深く刻みつけられ、伏した兵は呻き声をもらす。
さらに、安兵衛が通り抜けた横では、伏せるまでもなく小便連射砲の難を逃れていた前衛の兵たちが、甲高い悲鳴をあげながら地面に転がる。
倒れた体には脛から下がなかった。彼らの脛から下はいまもなお地面に立っている。
為す術がない。勘兵衛の指示で倒れ伏した者はもちろんだが、そうでなかった者も足もとからの攻撃に備える訓練など受けていないし、予測すらしていない。そんな攻撃が人知を超えた速度で行われているのだ、足を止めてしまった彼らなど的以外のなにものでもない。
唯一の救いは、この男の牙も短い時間しか突き立てられなかったことであろう。
去っていく安兵衛の背中を見ながら、ようやく勘兵衛は己の判断の過ちと、いま一番にしなければいけないことに思いいたる。
ここを離れることだ。後方に逃げるのではない。上総に渡るための船が用意されている海岸まで急ぎ進軍し、渡海するのだ。自分の役割は別働隊を里見の領内へと連れていくこと。
兵の損失は多く見積もっても全体の五分の一程度。若干ではあるが、まだ合流予定の兵も残っている。これだけの数が渡海に成功し佐貫城にせまることになれば、そもそもの氏康の指示である里見家の後方撹乱の役目はまっとうできるはずだ。
立ち止まるべきではなかったと勘兵衛は後悔する。考えてみれば、たった七人でこの人数の突進を抑えきれる訳がない。多少の犠牲には目をつむり、進軍すべきだったのだ。
進軍を止めたからこそ野生馬との衝突を回避できたことなど、彼の頭にはない。目の前にいる得体の知れぬ技を行使する八犬士の恐怖から逃れるたいという無意識の思いが、その事実を勘兵衛の頭の中から追いやっていた。
軍の大将である彼でこれである。兵たちの恐怖心の大きさは推して知るべし。ただいまの勘兵衛に兵の心情を思いやる余裕はない。とにかく大声で進軍の指示をだそうと大きく息を吸いこむ。
その瞬間、誰かの手によって口が塞がれたのを彼は感じとる。驚き大きく目を見開くが口元には誰の手も見えぬ。開かない自身の口があるだけ。
それでも勘兵衛は感じている。
自分の鼻の下から顎先までを、しっかりと押さえつける何者かの手を。
その見えざる手が、勘兵衛の顔を上に引きあげた。あらわになった喉元に真一文字に冷たき熱が走る。
雲が再び月を隠そうとする様子を見ながら、彼は敵が八犬士と名乗りながら、七人しかいなかったことを思い出していた。
異様な光景がひろがる。
軍勢を率いていた塩沢勘兵衛の首と、その首を照らす松明が、馬上でゆらゆらと揺れていた。
なにが起きているのか、北条勢は誰も理解できない。ただ、その光景に呑まれるのみ。
「敵将、討ち取ったりーっ!」
八犬士の犬田小三治の大口から、雷鳴のような声が轟く。
恐るべき目の前の光景とその声に、事態を把握していなかった兵達も、この決して歴史には残らぬであろう戦の勝利者が誰であるかを理解した。
末端の兵の一人が悲鳴をあげながら、通り抜けてきた暗闇の中へと逃げこんでいく。目の前の得体の知れぬ恐怖が、闇の中に飛び込む恐怖を遥かにうわまわり、たえきれなくなったのだろう。
これをきっかけに、統率がとれなくなった軍団は脆くも崩れていく。隠密性を重視した部隊だけに、全員が精兵というわけにはいかなかった。何人か残っている騎馬武者が、なんとか兵を戦場に踏みとどまらせようと声を張りあげていたが、堰をきった水のように逃げ出す兵たちを押しとどめることはかなわない。
残ったのは騎馬武者も含めてわずかに十五名。しかしながら、最後まで戦意を失わぬ精鋭十五名。
彼らは一団となり、おそらく勘兵衛が最後に命じようとしていた突撃の指示を敢行せんと、首だけ宙に浮く勘兵衛の横を通り抜け、八犬士へと疾駆する。
この精鋭達の気迫に恐れをなしたのか、八犬士は一人を残して、後ろへと下がり、そのまま後ろを向く。
その場に残りしは、月よりも美しき若者犬坂生野ただひとり。
指で宙になにかを書くような仕草をした生野の首の後ろが、光を放っていた。いや違う。光は集まっていた。月光、星明かり、松明の灯り、生物の瞳の光。この闇夜に存在する僅かな明かりの全てが、生野のうなじに現れた『智』の文字が浮かぶ半珠に引き寄せられる。
まるで生野の美しさを讃えるように後光が差し込まれたかのようだ。
ただ平時であれば生野の神がかった美しさに、北条勢も足を止めたであろうが、いまや北条の一振りの刀と化した十五名の足は、勘兵衛の仇である八犬士に、その刃を振り下ろすまで止まることはない。
その視線は、最初に血祭りにあげる美しき青年をしっかりと捉える。
生野の口角がほんの少し持ち上がった。
男たちの視線を釘づけにしたことに満足する魔性の笑み。
騎馬武者が真っ先に迫る中、生野は喉元を覆い隠す黒布に手をかけると、勢いよく布を引きはがした。
瞬間、世界が白に染まる。
熱をともなう焼けつく光。
人馬ともに同時に目を焼かれ、大地に倒れ転げまわる。
後続の足軽たちも目を押さえその場にうずくまり、一歩も動けなくなった。
戦闘力を奪われた北条勢は宙に浮く刃や、小三治、犬塚吉乃によって次々ととどめを刺され、最後に残された騎馬武者三名が、乗馬もろとも捕えられる。
首に黒布を巻き直しながらその様子を見守っていた生野だったが、しっかりと巻き終えると、後ろを振り返る。
萩の上から降ろされた犬川太助が地面に寝かされ、犬飼家の信磨に杓子で水を飲ませてもらっている。
お信磨は醜い女だった。顔も体も全てが太くたるんでおり、肌は脂ぎっていて疣がいたるところに見える。
布を巻き終えた生野が、信磨と交代し太助の口に水を運ぶ。
彼は別人のような姿になっていた。あれほどでっぷりと膨れていた腹がへこみ、いまや四肢と同じように痩せ細っていた。
生野が不安げな視線を太助に向ける。
「そんな顔をするな。心配しなくても、まだくたばりはせん。俺のことを心配するよりも、まずお前が水を飲んでおけ。熱くてたまらんだろうに、涼しい顔をしおって……。この強情者が」
太助が力なく笑い、彼も微笑でそれに応える。
太助に言われた通り、自身も杓子を使って水を飲む。すると喉の奥から、熱せられた鉄板に水をかけたようなジュゥという音が漏れ、寒くもないのに口から白い息がこぼれだす。
少しずつ、ゆっくりと水を流し込むうちに、次第に白い息は薄くなり、やがて見えなくなった。
捕えられた三名の騎馬武者が縄で縛られ、彼の前に引っ立てられてくる。
彼らを引っ立ててきたのは、髪の毛さえない骨と皮だけの枯れ枝のような女、犬村家のお礼。彼女は武者たちの膝裏を順に蹴りつけ、彼らをひざまづかせる。
「文替わりは三人もいれば充分だろ、長老?」
「うむ。三人もおれば、一人は生きて帰るじゃろうて。ご苦労じゃったな、お礼」
お礼の声に応え、縛りあげられた彼らの前に、両瞼をしっかりと閉ざした老人犬山狂節が、杖をつきつつ進み出た。
彼らが怯えた目で狂節を見る。普段であれば、薄汚い死にぞこない程度にしか映らなかったであろうが、部隊を壊滅させられたいまとなっては、その姿はまるで死神。
「さて、皆は少し離れておれよ。大丈夫じゃとは思うが、念のためじゃ」
「そうだね。それじゃあ、こいつらは長老に任せて、あたしらはもうひと働きといこう。物資を捨ててってくれたみたいだし、死んだ連中の武具なんかも使えるのが結構ある。それらなんかも集めとこうか。小三治、お信磨。あんたらはあたしと一緒にあいつらの残した物資の回収。吉乃、あんたは生野たちをまとめて荷車に乗せて、長老から離れたところで休んでな。いいね」
お礼は慣れた感じで他の八犬士にきびきびと指示をだしてゆく。
生野がちらりとお礼を見るが、彼女が頷くのを見ると、ほんのりと笑い、大人しく荷車の上で横になる。
お礼たちが立ち去り、吉乃が他の三人を乗せた荷車を引いて離れ、その場には狂節と騎馬武者三名が残された。
狂節は、若き八犬士たちの気配が遠ざかると、杖で数度地面をつき、武者たちに語りかけた。
「さて、お主たちは小田原より出立した者たちで間違いないな」
三人は狂節の雰囲気にのまれ、狂節の目が見えぬのに黙ったまま頷いてしまう。彼は返事を期待していた様子もなく言葉を続ける。
「お主らはこれより小田原に戻り、氏康に伝えるのじゃ。小田原とお主の白髪首、我ら里見八犬士がいただくぞと」
そこまでいうと狂節は三人に顔をずいと近づけた。
「我、貫く忠は、我が命より発す」
狂節の言葉に応えるように、閉じられた瞼の隙間から光が漏れだす。
「我が目を見よ」
狂節が右目の瞼を持ち上げる。そこに目玉はなかった。替わりに『発』の文字が浮かぶ光る半珠がはまっており、三人の視線が光る半珠に釘づけとなる。眼窩から半珠がはずれ、狂節の足元にぽとりと落ちた。
三人の視線はそのまま動かず、眼窩にぽっかりと空いた闇に吸い込まれる。闇から耳障りな羽音をたてて数匹の蚊が飛び出す。蚊は三人の体に取りつき血を貪るが、三人は追い払う仕草さえ見せず、眼窩の空洞に見いり、されるがまま。
狂節が光の弱まった『発』の半珠を拾い上げ、眼窩の前で振ると、食事を終えた蚊たちが巣穴へと戻っていく。彼は最後の一匹が戻るのを羽音で確認し、半珠を元に戻す。
それから間もなくして、お礼が三頭の馬を連れて戻ってきた。
「終わったみたいだね」
「うむ。そちらはどうじゃった」
「ああ、兵糧も含めて荷車四台分てところかな。いま向こうでお信磨と小三治がまとめてくれてるよ。安兵衛ならそれくらいひけるだろうさ」
言いつつ、呆然と座り込んでいる三人の武者の後ろに立つと、刃についた血が乾きはじめている小刀で、彼らを拘束していた縄を、彼らの体に触れぬように慎重に切る。
「ほら、馬も返してやるよ。あたしらもすぐに小田原に向かうからね。ぐずぐずしていると、あんたらがたどり着く前に北条が滅んじまうよ。急ぎな!」
三人は彼女に言われるまま馬に跨り、すぐさま馬を駆り立てた。小田原に早く危機を伝えねばならぬという使命感からではなかろう。この得体の知れぬ者たちから、少しでも早く離れたかったからに違いない。
彼らが馬で駆け去ってのち、八犬士はゆっくりと時間をかけて、北条軍が運んできた物資や、逃げた者が落して行った物、死者の身につけていた物で使えそうな武具等を荷車に乗せ、落ちないように縄でしっかりと固定する作業に従事した。
その作業ももう間もなく終わる。
荷物を積んだ荷車を縦一列に並べて縄で繋ぎ、先頭の荷車の引手には安兵衛が縄でしっかりとくくりつけられていた。
「本命の手柄じゃないんだ。いざという時は置いて逃げるんだよ」
お礼が血を拭いた小刀を、安兵衛の腰に結ばれた紐の間に差し込む。
「心配ねえよ、姉御。おいらが全力をだしゃあ、ついてこられる奴なんざいやしねえよ」
彼女が彼の額を軽く小突いた。
「馬鹿だねえ。それであんたの心の臓が止まっちまったらどうすんだい」
「死ぬのなんて怖くねえ」
唇をとがらし、安兵衛が反駁する。
「そうじゃない。ここにいる全員死ぬのは覚悟のうえさ。でも命を使い果たすのは小田原を落とす為にだ。あんたの弟の将来はあんたの手でつかむんだよ」
彼はお礼の言葉にうつむいて思案するが、すぐに顔をあげた。
「……うん。そうだった。ごめんよ、姉御。あいつのためにも、おいら必ず戻るよ」
聞きたい言葉を聞き、彼女は安兵衛の頭を愛しそうに撫でてからそばを離れる。
「よし、それじゃあ、ひとっ走り行ってくるよ。生野の兄貴、おいらが戻る前に、小田原を落としちまわないでくれよ」
生野が笑ってうなずくのを見ると、彼は表情を引き締めた。
「我、仁を貫くは、我が命を全うするが如く!」
安兵衛が胸に抱いた石臼を回し始め、両足の半珠の光が強まり始めると、鉄の足に再び命の息吹が通う。
彼が荷車ごとゆっくりと前進する。安兵衛が徐々に腕の動きを速めると、それにともない前進する速度も速まっていく。物資を満載にした荷車を、四台も引いているとは思えない速度で七人から遠ざかっていった。
「よし。我らも行くとするかのう。生野よ」
安兵衛が完全に見えなくなるまで見送ると、狂節の言葉を合図に、残った八犬士も歩き始める。
北条の居城小田原城に向かって。一族の未来に向かって。