(二十九)
やはり風魔の里の襲撃は余計であったと、お礼は思わずにはいられない。小田原に向かう際に、動きを察知した氏康の別働隊への襲撃はいたしかたないとしても、風魔の里の襲撃は、敵にただで情報をくれてやったようなものだ。
恥ずかしいので口が裂けても言わないが、|生野のことは愛しているし、その智謀を信頼もしている。ただ風魔衆のことに限って言えば、生野は恐れすぎのように感じる。まるで怪談話を聞かされ続けた子供が、成長しても目に見えない幽霊を必要以上に恐れているかのようだ。
もしかしたら本当に誰かに話を聞かされていたのかもしれないと彼女は思う。そう考えると腑に落ちる点が多かった。彼が北条家の隠密部隊ともいえる、風魔衆の里のだいたいの場所を知っていたのはおかしい。八犬家の外にいた時に偶然見つけたとも考えられるが、見た目は普通の村となんら変わりない。偶然あそこにたどり着いても、そこが乱波の里とは気づけないだろうし、気づかれるへまを、他の八犬士をことごとく葬った風魔衆がするとも思われない。だが誰かに風魔の里の位置や脅威も含めて聞かされていたのであれば話はべつだ。
そこまで考えて、お礼は首を振る。
仮に彼女の考えがあたっていたとしても、いまお礼のやるべきことはかわらない。
考え事をしながらも、彼女は騒ぎを起こすのに最適な場所を見つける。階段からそう離れてはいないが、階段の見張りが状況を確認するためには廊下の角を曲がらねばいけない場所である。
いざ、油を撒こうとした時、廊下の向こうから人がやって来る気配がして、お礼は人が通らないであろう廊下の隅で小さくなって息をひそめた。
姿を見せたのは、侍とは異なる格好をした屈強な雰囲気を持つ男三人と、その三人からは距離をあけて歩く、女中とは思えない美しい女が一人。
「くそっ。なぜ拙者が城下ではなく城内の警護なのだ。おそらく静馬の仕業であろう。彼奴のことだ、あのよく回る舌で頭領になにかを言い含めたに違いないわ」
「いや剛心殿。いくら静馬殿が切れ者とはいえ、そのようなことはなされぬでしょう」
「左様。それに八犬士とやらが、頭領の言われた通り、小田原城を攻めることに固執しておるのなら、城内の警備であっても、奴らを仕留める機会はありましょう」
「ふん。ありえん。我ら風魔とて、城の警備を潜り抜けて忍び込むのは至難の業。八犬士だか発狂死だかしらんが、里見如きの飼い犬が、ここまで入りこめるはずもない」
つまらなさそうに言う剛心を、今度ははなれて歩いていた女が大きな声でたしなめる。
「尾延様。油断をなされませぬよう。残った三人の八犬士の内の一人は、すでに城内に忍び込んでいるやもしれませぬ」
お礼は注意の矛先を、男たちから女へと移した。いまあの女は、残り三人と言った。生野は昨日行動を起こしていないから、三人というのは生野、お礼、お信磨の三人のことだろう。つまり太助、小三治、吉乃の三人は死んだのだ。
お礼は両の拳を強く握りしめる。悲しいし悔しい。それでも一つだけ確信していることは、三人とも使命を果たしたうえで死んだのだということだ。根拠はないがわかる。だから自分はこの作戦を続行するのだと彼女は自身の心に言い聞かせる。
それにしても何者であろうかと、女の頭のてっぺんからつま先までを注意深く観察する。風魔の女ではなさそうだ。少なくとも里では見かけていない。
剛心が女を振り返る。
「乙霧殿。ご忠告ありがたく存ずる。さすがは八犬士のうちの二人を仕留めるのに貢献されたお方だ。実に用心深い。だがこの小田原城は我らだけで守っているわけではござらんよ。北条様の麾下の方々も詰めておられる。虫一匹入る隙間もござらん」
乙霧と呼ばれた女が笑う。心底、人を馬鹿にした笑いだった。
「虫は小さくとも眼に映ります。例え熊のような体躯をしていたとしても、眼に映らなければ忍び込みようはいくらでもありましょう」
乙霧はそう言って、なにも無い虚空に目を向ける。
お礼はどきりとした。彼女の呪言はまだ敵には知られていないはず。見えないことがお礼の呪言であるのだから、それは当然である。なのにこの女はまるで、それを見てきたかのように言ってのけた。
あらぬ方向を見ていることから、実際にはお礼の姿が見えていないようだが油断ならない。
対して、お礼が潜んでいるなどとは露ほどにも思っていない剛心は、訳がわからないと大げさに首を振る。
「いやはや。静馬といい、あなたといい、下手に知恵が働くと、常人には理解しかねることを語りだしますな。姿を消すなどとたわけたことが可能ならば、いまごろ大殿の首は胴から離れておりましょう」
そんなこともわからんのかと、己の首に手を当てながら、剛心は侮蔑の笑みをみせる。
彼女はその笑みに、見る者が凍りつくような視線を返す。
「風魔の精鋭は、頭の中まで肉が詰まっているのでしょうか?」
そう言って、先程の剛心以上の侮蔑の思いを込めて、にたりと笑う。
お礼は不快な思いで彼女を見る。またあの笑みだ。心底人を馬鹿にしているあの笑み。
「八犬士の目的は小太郎様よりお聞きのはず。周囲に認知されない手段では、一族を救う手柄にはなりませぬ。彼らは落ちぶれてはいても武士。手柄をたてるのにこだわりを持つは必定。その手柄をもって一族の将来という褒美を得ようとしているのです。私どもと彼らとでは根本が違う。忍びは名誉ではなく、目的を達することにこだわりを持ちます。もっとも風魔の中にはなにを勘違いしたのか、小さな権力欲しさに手柄をたてるのに躍起になられている忍びもおるようですが……。ああ、申し訳ございません、風魔衆は忍びではなく乱波でございましたね」
剛心は顔を真っ赤にし、その手を腰に差していた鎌にかける。
「拙者がそうだと申すのか! 他所からの援軍だからといって、無礼な物言いは許さぬぞ!」
「さて、とくに尾延様がそうだとは申しませぬが、少なくとも尾延様が使命を果たす以外に余計なことを考えられたのは間違いないのでは?」
「ふざけたことを!」
剛心が一歩前に踏み出したが、乙霧は構わず言葉を紡ぐ。
「考えていないと言うのならば、なぜお仲間が虚偽の報告をするのを黙って見守られたのですか? 自分までひとりにいいようにしてやられたと小太郎様がお知りになれば、御自分の立場が悪くなるとでも? それとも、他の風魔衆の方に知れれば面目が潰れるとでも? ふふ、なんとも浅ましいことでございますな」
剛心に連れられていた二人の風魔衆は、何のことかと顔を見合わせている。
「ば、馬鹿なことを言うな。なにを根拠にそのようなことを……」
剛心の声に先ほどの勢いはなくなっていた。
「嘘をつくならば、敵の首を取るよりも死体を片付けるべきでございましたね。一夜にその習慣はございませんが、他の忍び衆では、素性を知られぬようにお仲間の死体を隠すのは基本中の基本。乱波とはいえ似たような仕事をされているのですから、風魔でも見習われたらいかがですか」
彼の顔が見る間に青くなっていく。
「それに断わっておきますが、小太郎様へはすでに静馬様から詳細が伝えられておりますよ。もっとも、大事の前の小事と、お咎めはなされぬようでございますけれど」
乙霧の表情が冷酷さをたたえる。
「報告は正確にしてもらわねば、集団を率いる者が困ります。そこから得られる情報が千金に値することとてあるのです。死体は言葉を語らずとも雄弁。他の八犬士の死体にも、多くの情報がございました。殺してそれで終わりなどとはくれぐれも思われぬように」
彼の小刻みに震える手が鎌からはなれる。無言のまま正面にむきなおると派手な音をたてて歩きだす。
「お待ちください」
彼女の呼び声に、剛心は足こそとめたが振り返らない。
「すでに日は落ち、空には良い月が出ております。そろそろ、城内で騒ぎが起きることになりましょう。騒ぎを起こすのは、おそらく、いまだ姿を見せぬ最後の八犬士。騒ぎが起きれば北条様のご配下は、騒ぎの元の確認と騒ぎの収束のために動かれることでしょう。ですが、皆さまは騒ぎの元に駆けつけてはなりませぬ」
「どういうことでござろうか?」
剛心に従う風魔衆の一人が尋ねる。
「皆さまは、上階へと続く階段から、目を離してはなりませぬ。最後の一人はきっと囮役。その者の目的は、風魔の里で小太郎様の屋敷を走り回ったという女を屋根へと行かせること。女が屋根の上を走り回り、最後に小太郎様の屋敷に火を放った美しい男が、ここでも火を放ちに参りましょう。屋根に火をかける手段はまだ明確に掴んではおりませぬが、皆様にもわかるような目立つ手法を用いてくることは間違いございませぬ。事後対策はなんとか間に合いましたが、狙い通りにさせぬのが第一。女を城で走らせさえしなければ、男は火を放つことはできぬと見ました。本丸が燃えれば、衆目の目を引きます。敵に堂々と城を燃やされては、将兵の心に立ち直れぬ打撃を与えることとなりましょう。それだけは防がねばなりませぬ」
乙霧の言葉に二人の風魔衆は驚き、剛心の肩もぴくりと動いたが、それでも剛心は振り返らず、上階に続く階段へと歩みを再開する。
風魔衆の三人に続いて、乙霧が角を曲がると、お礼は立ち上がりお信磨の油が詰まった皮袋を捨てる。
代わりにもう一つの皮袋の口を開く。そこには、赤い液体がなみなみと入っていた。
それは血。半年前、八犬士の力の源となった八つの珠の力を取り戻すために、その命をささげてくれたという八風の母、八海の血だ。生野が八海の腸で作りし皮袋に納められたそれは、固まることなく一年前の姿を留めている。
お礼は皮袋の中に手を入れた。抜きだされたお礼の手は血に染まり、相手から見えなくなる呪言の効果を打ち消し、その形を露わにする。
お礼の血に濡れた手の中には、中身をくり抜かれ、薄い半球状の水晶板となった二つの半珠。それらは、八海の血によって赤く染まり、妖しい光を周囲に放っている。
彼女はそのふた「つの半珠をためらうことなく両目にはめ込む。半珠を通してみる世界が赤く染まる。
「我、礼をつくすに、我が命畜生に落とすことも厭わん!」
両目にはめ込んだ半珠が赤く輝き、お礼の痩せ細った体がびくんと跳ねた。
この枯れ枝のような体のどこに眠っていたのかと、自身でも驚くほどの力が体中にみなぎる。
色が人に及ぼす影響は思いのほか大きい。遠近感などの視覚的要素から、安らぎや興奮を覚える精神的要素まで、その効果も幅広い。
いま彼女の目の前に広がる深き赤は、お礼の心を圧倒的な破壊の衝動で埋め尽くさんとする。それこそここに来た目的を忘れさせ、ただここで暴れるだけの獣へとお礼を変じさせようとしているかのようだ。
「生野!」
首から下げたお守り袋を握りしめる。八犬家を出立するときに彼がくれた、地獄で夫婦になろうという証しの入ったお守り袋。
お礼はこれをずっと身につけていた。呪いの水は塗布する箇所が多ければ、使用量も当然増える。お礼は少しでも効率よく使うため、体の余計な部分をことごとく捨て去った。耳を落し、鼻を削ぎ、骨と皮だけの体。こんな体にまでして節約をしようとした水なのに、このお守り袋を身につけるのをやめられなかった。
そのお守り袋が、最後の切り札である『呪言』から、お礼の心を守る。
家族を想い、愛する者を想い、そのためだけに行動しようとするお礼の心を。
彼女が床を蹴る。床が大きな音をたてて砕けたが、もはや関係ない。
一歩で曲がり角に到達し、二歩目で前を歩く乙霧の背中に肉薄する。
音に気がついた乙霧は、振り返りながら横に跳ぶ。前を歩く二人の風魔も異変を感じ身体を横に逃がす。
宙を滑空する血塗られた手が、三人と顔を合わすまいと、前だけを見て歩いていた剛心の後頭部を右手で掴み、剛心の顔を力任せに、床に釘のように打ち抜いてはまた引き上げる。剛心は声さえあげられず、血まみれになった顔をさらすのみ。
彼女はそんな剛心の顔をそんな両手で挟みこみ力強くひねった。ありえぬ方向に首が曲がった剛心の身体を、何事かとこちらに顔を向けた、階段を警備する二人の北条兵に投げつける。さらに投げられた剛心の体と同じ速度で手が宙を疾駆する。
守備兵の一人が剛心の体に跳ね飛ばされ、一人がお礼に殴り飛ばされた。
お礼は二つの文字が浮かぶ瞳で、なにもない廊下の隅を一度だけ見たかと思うと、すぐに乙霧たちの方に向き直る。
とたんに床の軋む大きな音だけが階段に向かう。音はさらに階段も駆け上って行く。
乙霧がなにかを叫びかけたが、宙に浮かぶ赤い眼と両手が凄まじい勢いで迫るのをみると、口を噤んで身がまえる。
お礼は思う。この女は殺さなければならないと。本来ならば、殺す前にこちらの計画に対して、どんな事後対策をしたのか聞きだすべきなのだろうが、この呪言を発動させたいまとなっては、この細身の女を殺さないように力加減する自信はない。
彼女は先程の彼女らの会話で、放火による陽動が上手くいかない可能性が高いと判断した。
陽動の効き目が薄いならばと、お礼が選択したのは、己でもって、お信磨のために血路を切り開く方法。この命続く限りだ。
この切り札として残しておいた呪言、いわば色の麻薬と表現できるものだが、これは八海の血によって薄く加工した半珠を赤く染め上げ、それを両目にはめ込むことで、異常な興奮状態を作りだし、生物に生まれながらに備わっている自己防衛機能を麻痺させる効果を持つ。
そうすることで、体のすべての力を余すところなく発揮することができる。だが、それは諸刃の剣。自身を省みることなく発揮される力は最終的に己を滅ぼす。まさに最後の手段。
接触しようとしていたお礼と乙霧の間に、二人の風魔衆が割り込む。二人は体を張ってお礼の突進を止めると同時に、なにかをお礼にぶつけた。お礼の透明だった体が、赤い輪郭となって現れる。
お礼は憎らしいほど美しい顔立ちをした乙霧を、文字の浮かぶ両目でにらみつけた。
この赤い染料は、目の前のこの女が用意させたものだと一瞬で悟ったのだ。なぜかはわからないが、この女は自分の呪いの力がどういうものかを見破り、対応策を用意させていた。
お礼は呪言で増幅されている殺意を強靭な意思で抑え込み、乙霧を強引には襲わず、二人の風魔衆を両足で同時に蹴飛ばして、その反動で階段の前まで跳ぶ。そして遠ざかる階段の軋む音を追って、階段を駆け上った。
すでに身体の一部を晒していたお礼には、この染料はたいして意味を持たないが、問題はお信磨である。この染料はもしかしたら北条兵にも持たされているかもしれない。万が一にもお信磨にぶつけられでもしたら彼女の身が危険にさらされる。音だけが聞こえるのと、実際に眼でも確認できるのとでは、危険度が明確に違う。
「逃がしてはいけません! 追ってください! もう一人の八犬士も上の階に上がったはずです」
背中越しに乙霧の言葉受け、お礼は舌打ちした。
やはり生野に負けぬぐらい賢い。たぶん、狂節の死後の『呪言』を防いだのはあの女だ。それに死んだと思われる三人のうちの誰かの死にも関わっている。
生野との違いは、あの女がおそらく傍観者であるということだ。
風魔衆と行動してはいたが、会話の内容から考えて風魔の女ではない。どこか他所の忍び衆からの助っ人と思われる節がある。
能力は身につけるよりも、発揮することの方がよっぽど難しい。発揮する時の方が個人の精神に左右される部分が大きいからだ。
生野の知恵は、決してあの女に劣るものではない。
ただ、あの女は第三者として、他人事として、今回の戦を客観的に見ている。生野よりも冷静に知恵を働かせることができているのだ。あの生野といえども裏をかかれてしまう恐れがある。
あくまで、お信磨のために血路を開くのが最優先だが、できることなら、生野のためにあの女を殺してもおきたい。
彼女は後ろ髪引かれる思いで、先に進んだであろうお信磨を追った。