(二十七)
小田原の風魔屋敷の縁側に腰をおろし、暇になってしまった煎十郎は大きく伸びをする。
小太郎より命じられた知識の編纂を、予定よりもはるかに早く終えてしまったのだ。昨日の朝から、今日の夕暮れをむかえるまで、一睡もすることなく書き続けた結果である。疲労感は多少感じるが、眠気はいまだおとずれず、仕事を成しとげた高揚感が身体を支配していた。
八犬士との戦いはどうなったのか周囲を見まわす。屋敷にいる人が少ないということは、まだ決着がついていないのだろう。乙霧は昨日部屋に訪れたきり姿を見せていない。時雨もなんだか忙しそうで、食事を部屋まで運んでくれたものの、思いつめた表情でひと言もかわすことなく部屋を出て行ってしまった。一夜に行くまでどれくらいの時が煎十郎に与えられるのかは知らないが、幼馴染の彼女といまの状態のまま離れてしまうのはあまりに寂しいと思う。
「それにしても、まさか伝説の八犬士の子孫と風魔が争うことになるなるなんてな」
三年前に府内で別れた友人を思いだす。彼は八犬士の武勇伝に強い関心をいだいていた。
なぜか思い浮かべた友人の顔と、将来の妻になるらしい乙霧の顔が重なる。
どちらも人と思えぬほど美しい。どことなく似ている気もする。
「煎十郎殿、少しはお休みになられましたか」
聞きなれた、それでいてなぜかなつかしく感じてしまう声を聞き、煎十郎は振り返る。
時雨がいつの間に来たのか、白湯を乗せた盆を持って、心配げに彼を見つめていた。
やはり落ち着く。
戻った当初は美しく成長した時雨に、まともに接することなどできないのではと不安を感じていた煎十郎だったが、その心配はまったくの杞憂に終わり、すぐに幼き頃と同じように、一緒にいるのが当たり前になっていた。
「ああ、いえ。お勤めは無事に終えたのですが、まだ眠くならなくて」
彼女の眼が大きく見開かれる。
「もう、書き終えてしまわれたのですか」
「ええ。わずかに残すのみだったので」
時雨は煎十郎の隣に座り、震える手で白湯を煎十郎のかたわらにおく。
「普段なら、往診や薬づくりが終わったあとにしたためていたのですが、今回はこれだけに集中しておりましたので、自分でも驚くほど早く終わりました」
煎十郎はそう言って、愛おしげに白湯をすすった。
「……さようでございますか」
時雨は膝の上に乗せた小さな手をぎゅっと握りしめる。
彼女の恋敵である乙霧は、八犬士との闘いに決着をつけるため、さきほど蟒蛇を連れ風魔屋敷を出て行った。
昨日のことがあるので、自分も一緒に行くと言ったが、乙霧にやんわりと断られる。そのときの彼女の言葉が時雨の耳から離れない。
『早ければ今夜にも八犬士との闘いには決着がつくでしょう。すでに一夜には連絡をすまし、煎十郎様をお連れする仕度を整えさせております。旦那様の風魔での最後のお務めが済み次第、一夜へとお連れする所存です。幼馴染なのでございましょう。いまの内にお別れを済ませておくのがよろしいかと」
彼女は自問自答する。
自分はどうすればいいのだろうかと。このまま黙って煎十郎が一夜に連れて行かれるのを、指を咥えて見ているしかないのだろうか。
時雨は否と胸の内で否定する。彼女はそんな大人しい女ではない。普段は風魔の里の警護を担当してはいるが、時雨は乱波。奪うがわである。奪われるがわでは断じてない。
彼女はしっかりと顔をあげる。
「煎十郎殿は、このまま一夜に行ってしまわれるおつもりか? 煎十郎殿が身につけてこられた知識や技術がようやく認められ始めたというのに、全て置き去りにして行ってしまわれて、本当によろしいのですか!」
突然の時雨の剣幕に、驚いた彼は白湯の入った湯呑を取り落す。
「あちっ!」
「あっ、申し訳ございません!」
彼女はすぐさま袂から布を取り出し、煎十郎のぬれた太腿を拭く。
幸い火傷をした様子もなく、一通り拭き終わると、時雨は布を握りしめ押し黙る。
そんな時雨に、煎十郎は鼻のあたまをかきながら、少し寂しげに言葉を返す。
「風魔にやり残したことがないかと問われれば嘘になりますが、それがしは乱波にはなれずとも風魔です。小太郎様のお決めになられたことに従うだけです」
その言葉に時雨は項垂れる。彼女自身も乱波である前に風魔。父親の、四代目小太郎の命令は絶対である。風魔である限り。そう風魔であればだ。
時雨の瞳に情念の炎が宿る。
「煎十郎様の知識と技術があれば、どこでだって生きていけます! 風魔でなくとも、一夜でなくとも! お願いでございます。私と共に風魔から出てくださいませ。幼き頃に仰っていた、力なき人たちを救うために、そのお力を存分に発揮してくださいませ! 風魔からも一夜からも、私がお守りいたします! 他の些事は全て私がやります。私が煎十郎様のお世話をいたします。昼も夜も!」
自分の胸に飛び込み、潤んだ瞳で見あげてくる時雨を、煎十郎は突き離すことはできなかった。
それどころか、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。
「ひ、昼も夜も」
「は、はい! 昼も夜も!」
お互いに赤面しながら固まってしまった若い二人の様子を、庭に植えられた木の上から下りるに下りれなくなってしまった静馬が、苦笑しつつ見下ろしていた。
幼いころから可愛がっていたふたり。できることなら何とかしてやりたい。
(国だの風魔だの一夜だの八犬士だの、この世にはしがらみが多すぎる)
辛そうに顔をゆがめ空を見あげた。
「もっと自由に生きたいものだ。……そうは思わんか、八犬士」
静馬の本音に満ちた独り言は、誰の耳に届くこともなく、逢魔が時に溶けていく。