(二十六)
生野は小田原城下近くの森で、ひとり刀を振るっていた。お礼とお信磨の二人はすでに小田原城下町に潜伏している。先ほどまでは生野のかたわらで稽古を見守っていた八風も、どこにいったものか姿が見えない。生野としては、八風はもともと連れてくるつもりではなかった。できれば、このまま戻らずに自由に生きてもらいたい。だが、おそらく生野が小田原に出陣するころには、戻ってきてしまうだろう。そういう犬だ。
生野は精練された動きで、迷いを断ちきるかのように剣を振り続ける。闇雲にふ振りまわしているのではない。研鑽を重ねられた真っ当な剣術。
十三年。生野が八犬家の外で、一族を救うための術を手にするために要した年月。
初代八犬士以来、初めて牡丹の痣を喉に持って産まれた生野は、六歳の時、その小さな肩に一族の将来という重荷を乗せられ、岡本隨縁斎の助力により、八犬家が押し込められた屋敷から一人脱出することとなる。
八犬家の者が受ける迫害を免れたとはいえ、決して楽な道程ではなかった。隨縁斎の伝手を頼りに京へ向かったものの、一族の財産は没収の憂き目にあい、路銀は隨縁斎から受けたわずかな援助のみ。それもすぐに尽きる。
京へたどりつくまでも、たどりついてからも、生き延びるためにはなんでもした。同情を買うための嘘は当然のこと、盗みも強奪も経験した。身を守るためではあったが、十になる前に人殺しも経験する。
京では体さえ売った。己の美貌を活かし、衆道に傾倒する身分の高い者にその身を委ね、生きる糧を手にいれる。そのような生活をしながらも、武芸や学問の習得に躍起になった。
一族を救えと言われても、なにをすればよいかなどわからない。送り出した大人たちも、具体的にどうすれば一族が救われるかなど、わかってはいなかっただろう。どんなに知恵が働いたとしても所詮は子供。当時の生野にわからなくても仕方ない。ただひたすらに、自己の成長を信じ鍛錬と勉学にはげむしかなかった。その身と心を日々削りながら。
もしもそのまま月日が過ぎていれば、生野は能力だけに優れた荒んだ若者になっていたかしれない。一族のもとには戻らず、自分の為だけに生きていたかもしれない。
だが、そうはならなかった。二人の人物に巡り会えたおかげで。
一人は行商人の男。京にいた生野が世話になっていた家に、その行商人が商品を売りつけに来たことが、出会うきっかけであった。子供でありながら大人顔負けの美貌であった生野が見ても、行商人をやらせておくにはもったいないほどの魅力にあふれた男だった。
その商人は、南蛮の商人から仕入れたという珍しい商品の数々でその家の主人に、女性を魅了する美貌で奥方にそれぞれ取り入り、しばらくの間その家に逗留することとなる。
主人と奥方の両方の夜の相手を務めていた生野は、昼間は主人に許された剣の稽古を庭で行っていた。そこに行商人が声をかけてきたのだ。
初めは稽古の邪魔だと無視していた生野だったが、全国を旅してきたという行商人の話の内容と巧みな話術に、次第に興味をひかれる。決定的だったのが、八犬士の話を行商人が始めたことだ。
生野が幼少の頃に八犬家で聞かされた初代の話は、もっぱら里見家に仕えたあとの話。里見の臣下として活躍し、主君に褒め称えられた過去の栄光を取り戻し、子孫に何としてでも良き将来を送れるようにするのだというのが、年寄りたちの定番の話だった。
だが行商人が話して聞かせてくれたのは、八犬士が里見家に仕える前の、子供の胸を躍らせる冒険譚。
行商人は生野が八犬士の話に喰いついたと見るや、現状の八犬家の状況を、外側からの視点で教えてくれた。
そこで生野は初めて八犬家の窮状を、本当の意味で知ることになる。それまでは、自分を母から引き離すような使命を課した八犬家を恨んでさえいた。自己の研鑽も、もう一度、母に会いたいがためにやっていたようなものである。
行商人は生野が八犬家縁の者であるとは知らぬであろうに、いまの八犬家を救うには、初代の神通力を復活させるしかないと熱く語る。
この日から生野は、八犬家を救うにはどうすればよいかを、本気で考え始めた。自分を磨くだけでは八犬家を救えない。行商人の言葉通り、初代の力を甦らせたとして、それをどう扱えばよいのか。生野の本当の苦悩は深まるばかり。
もう一つの出会いは、本気で悩み続ける日々を過ごしていたある日に起きた。
奥方の使いで外に出かけた時、ひとりのひ弱そうな少年が、武士の身分と見受けられる少年たちに取り囲まれ、暴力を振るわれる場面に出くわす。
生野は八犬家を救う手段を思いつかない憂さを晴らすように、圧倒的な力の差で彼らをたたきのめし、結果ひ弱な少年を助けることとなる。
助けた時には思いもよらなかった。
少年の境遇が自分に似ていることなど。
その少年が、生野の人生で唯一の友となり、共に府内へと旅立つことになるなどと。
生野は振るっていた刀をとめた。鞘には納めず耳に神経を集中させる。
八風らしき声が聞こえたのだ。ただその傍らに、人の声も聞こえた気がする。お礼やお信磨ではない。彼女たちはすでに小田原城下町に潜んでいるはずだ。
生野は木陰に身を隠し、様子を窺う。
八風に伴われて歩いてきた人物を見て、生野は驚き身をのりだした。
農民の子供姿に身をやつしてはいたが、この顔を見間違えるはずがない。この場に来れるはずのない生野とお信磨の弟だったのである。犬坂家の家督を継がせた異父弟犬坂蓮野智則。犬坂家四代目にあたる母の三番目の子である。
八犬家に支給される食料は決して多くない。いたずらに子を増やすわけにはいかず、多くても二人を産む程度であった。監禁状態にあるから婿や嫁を外から迎えることもできず、男の数の方が多かったため一人の女が複数の家の子を産むこともある。
生野の母は生野を産んだ後、他の女との間に後継ぎを得ていた犬飼家の四代目の子種をもらもらうい受け、お信磨を産む。その後、八犬家の若い娘を守るために自らを犠牲にしていた母は、望まぬながら、八犬家の監視役を務めていた足軽の子を宿してしまうことになる。それがこの蓮野だ。
生野やお信磨とは違い、外見は母に似なかったが、素直な性格で、生野自身の呪いの力を得るための手術を、生野の指示に従って手伝ったのはこの弟である。
「ああ、兄上。お会いできてよかった。八風が私を見つけてくれたのです」
八風の頭を撫でていた蓮野が、喜びの声をあげて生野に駆け寄る。
再会を喜ぶ弟に対し、生野はなぜここにいるのかを目で問うた。
「実は兄上にお伝えしなければならぬ大事なことができましたゆえ、殿のお許しを得てすぐに海を渡り、ここまで来た次第でございます」
生野は思いがけない弟の言葉に眉をひそめた。
「まず、殿は三船山での北条との戦に、見事に勝利なされました。北条の軍勢は潰走。氏政こそ撃ちもらしたものの、太田氏資らを討ち取る戦果をあげられたのです」
喜びが見えた生野に、蓮野はさらに言葉を続ける。
「喜ばれるのはここからにございます。八犬家を代表して私が隨縁斎殿とまだ陣中におられました殿に呼ばれ、お言葉を頂戴いたしました。北条の後方撹乱及び物資の奪取。わずか八人でここまでの戦果、まことに見事であったと」
少なからず生野は驚いていた。物資に関してはわかる。安兵衛が敵に討ち取られたのは物資を里見の陣に届けたあとだということだろう。しかし後方撹乱とはなんのことであろうか。別働隊の撃破を安兵衛が報告していたとしても、あれは後方撹乱と呼べる程のものではない。狂節の虫の『呪言』が一時的に北条に届いたのは安兵衛が出発した後。それも撹乱が成功したとはお世辞にもいえないし、氏政の軍勢にはなんら影響を及ぼしていない。話が大きくなっている気がした。まるで誰かが、操作した情報を義弘に与えたような感覚を行くのはいだく。
蓮野は彼が疑問を抱いていることには気づかず、興奮する様子で言葉を続ける。
「大事なのはここからです。よくお聞きくだされ。殿は今回の功を認め、我らのいまのひとところに押し込められている現状を改善してくださるとお約束してくださいました。ただし、これには一つ条件がございまして」
ここで蓮野の顔に、若干陰が差した。
「殿はこう申されました。我ら八犬家に『犬』の名を捨てよと。代わりに『賢』の字を授けると。犬坂は賢坂、犬塚は賢塚というように『犬』を『賢』に置き換え、八犬士として敵に牙を剥くのではなく、八賢士として里見家を内から支えるようにと。
殿に返答を求められましたゆえ、独断ながらこの話ありがたく承りました。我らの孫子のためとあれば、家名を変えることなどたいしたことではないと考えます。これより家に戻り、他の八犬家にこのことを伝え説得する所存にございます」
そこまで言いきると、蓮野はがばっと地面にひれ伏した。
「兄上! どうか家にお戻りください! ここに他の八犬家の姿が見ないということは、ほとんどの者が死に、最後の呪いのための準備を終えたのだとは思います。ですが、すでに我らの悲願はたっせられました。ここで命を無駄にせず、どうか我ら生まれかわる八賢家をお導き下さいますよう、伏してお願い申しあげます。八賢士として生きるためには、兄上の智が必要なのでございます」
生野は額を地に押しつける蓮野の肩に手をおく。
顔をあげた蓮野の目を正面から見据え、はっきりと首を横に振る。
「兄上!」
立ちあがれぬ蓮野をそのままに、生野は小田原城下へと向かって歩き出した。八風がそれに続く。蓮野がもう一度兄上と叫んだが、生野は振り返らない。
蓮野より伝えられた言葉は、あまりにも八犬家に都合が良すぎる。だが、蓮野が八犬家の敷地を出て、海を越えることは、隨縁斎の助力だけでは無理がある。義弘の許可を得たという話は信じるに足る。
それならば、思い残すことはない。もとより命を捨てる覚悟。家名が代わることなど何ほどのものだろう。家名が変わったあとの未来は、未来がある者が築きあげていけばよい。
彼のやるべきことは変わらない。未来ある者のための礎となるべくこの命を使うのみ。最後の八犬士となる仲間たちのうち、すでに五人がお家のための人柱となり、可愛い異父妹と愛しき恋人も、今宵命を散らそうとしている。自分もそれに殉じるのみ。
残された時間を『賢』として生きるつもりはない。残った命のすべてで最後の『犬』として牙をむく。
そもそも一族の多くを死に追いやった彼に、『賢』などという字は似合わないであろう。
生野は、最後まで供をしようと傍らを歩く八風の頭を撫でながら、歩みをはやめた。