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墓無忍夢  作者: 地辻夜行
四章 戦いは激しさをまし、屍だけが積み重なる
24/43

(二十四)

 風魔衆の顔に怒気がみなぎる。

頭領の指示で破顔丸が組頭と指名されたからには、たとえ意味のない作業だと感じても黙って指示に従う。だが彼が、小太郎の指示に逆らうとなれば話は別だ。

 彼らの殺気に気がついていないのか、破顔丸は身動きの取れぬ乙霧の前に立ち、胸いっぱいに息を吸い込む。

「おお、良い香りだ。抱くぞ、女。壊れるまで抱いてやる。感謝いたせ」

 男を狂わせる女の匂いで胸を満たした彼の狂気が、さらに深くなる。

 破顔丸は両手で乙霧の着物を掴む。着物が力任せに引き裂かれ、彼女がその場にへたり込む。

 そのまま襲いかかってくると思った破顔丸が、急に背中の金棒に手を伸ばした。闇夜に響く金属音。彼は振り返りながら、金棒を回転させ、目前に迫っていた手裏剣をいとも簡単にはたき落す。

「貴様ら、儂からこの女を奪う気だな。いいだろう。まずはきさまら全員血祭りにあげてからゆるりと楽しむとしよう」

 破顔丸が自信に満ちた足取りで、ゆったりと遠ざかっていくと、乙霧は気力を振り絞って立ちあがり、ふらつく足取りで道を外れ、森の中へと逃げこむ。

「小太郎に逆らった罪。その命をもってあがなうがいい!」

 彼女は狂気に満ちた声に背中を押され、森の奥へ奥へと分け入っていく。

 裸のまま、涙で濡れたその顔は恐怖でゆがんでいた。一心不乱に駆けるその姿は、太助を妖艶な術で死に追いやった女とは思えないほど、惨めな姿だった。

 それも仕方のないことかもしれない。彼女はまだ男を知らなかった。

 一夜の忍びは幼少より鍛錬を受けるのはもちろん、一定の年齢に達すると、異性を虜にするための術を叩きこまれる。

 房中術や話術を習得するだけではない。一夜衆では薬草などを用いて体質を変えることにも取り組んでいた。他者、特に異性を惹きつけるほぼ無臭の香りを自分の意志で体内から発生させる忍術。

 本来目立たずに行われる事が理想である諜報活動において、不適応ともいえる美しすぎる容姿。しかしながら、この他者を惹きつける香りと地域密着という二つの事柄を組み合わせることで、情報が自ら飛び込んでくる環境を作りあげることができる。これを全国だけにとどまらず海を渡った大陸にまで展開していることが、特に後ろ楯を持たぬ一夜衆が今日まで生き残っている理由の一つ。

 乙霧は容姿と技術においては、一夜の忍びとしてまったく問題はない。それどころか、知恵が人一倍働く者であるから、将来を期待されていた一人であった。

 そんな彼女が他の土地に送られることもなく、落ちこぼれとして里に留め置かれることになってしまったのは、ひとえに異性を惹きつける香りを発する才能がありすぎたからに他ならない。

 薬を用いて香りをだす訓練を始めて数日。教官であった男が狂ったように彼女を求めた。その者を取り押さえに来た者も、次から次へと乙霧を求めて互いに争い合う。一夜衆が異性の香りに対し、耐性があるにも関わらずである。

 彼女本人はその香りをとめることができず、狂わせの香りは放出され続け、さらには、本来広がりづらいはずの香りの効果範囲まで広がり、強靭な精神を持つ頭領の幻之丞さえ、一時、乙霧の虜になりかけた。くノ一が総出でなんとか事態を収拾するまで、里は大混乱に陥る。五日ほど一夜の里の機能が停止したほどだ。

 彼女は、その後隔離される形で修行を続けたが、香りの制御はほとんど成長しなかった。香りを抑える薬が、乙霧一人のために作られ、その薬の服用と香草を焚き染めた衣服を着こむことで、香りが影響を及ぼす範囲を五歩程度のなかに収めることはできるようになった。だが、威力の方は相変わらずで、そばに寄った異性は正気を失い、ただひたすらに乙霧を追い求める。

 これでは他の土地に安心して送り込むことなどできず、乙霧は里の隅で残りの人生を過ごすことを運命づけられることになる。唯一救いだったのは、子供たちには香りの影響がなかったことだろう。里の隅の小さな小屋で、子供たちの教育係を務めることができたことは、乙霧にとって心の救いだった。

 森に入ってどれくらいの時がたっただろうか。破顔丸からだいぶ離れたはずではあるが、頭から彼への恐怖を拭い去ることができない。未熟者でも一夜の女。純潔を失うことなど、男に抱かれることなど恐れてはいない。

 乙霧が恐れているのは子供ができること。望まない相手との間にできることだ。半人前の乙霧ではあったが、一夜の最大の術の継承に問題があるわけではない。夫になった相手が狂ったように彼女を求めても、それはなんの問題もない。

 ただ魅力を伴った美貌が子供に継承される相手は、本人にしかわからない。男は睾丸に、女は子宮に聞けと一夜衆では言われている。相応しい相手が現れればそこが疼く。その相手との間には必ず美貌と魅力を兼ね備えた優秀な子供が産まれる。これぞまさに一夜衆最大の忍術。

 だがその逆に、望まぬ相手との子供は、ある程度の外見を保ってはいても、人間的魅力に欠けた者が産まれる。一夜衆の男も女もそれをひどく嫌う。

 仕事として権力者のもとに入りこんだ者は、止むを得ず子宮が疼かぬ権力者の子供を産むこともあるが、その子供はその家にろくな影響を及ぼさない。家が断絶する理由になった者も数多くいると彼女は伝え聞いている。

 これまで乙霧は、術が成功する相手に対して子宮が疼くなど迷信だろうと思っていた。里の中で自分とひけをとらない容姿の男たちを見ても、一度もそんなことがなかったのだから仕方ない。

 だが迷信ではなかった。とりたてて期待して来たわけではなかった風魔の里で見つけた運命の相手。

 煎十郎を初めて見た時の感覚を、乙霧は生涯忘れないだろう。下腹部の奥が熱を帯び、声なき声で叫んだ。この男の子種が欲しい。この殿方の子を産みたいと。

 あと二日もあれば、八犬士との争いは終わると乙霧はふんでいた。この戦いにおいて、無事に彼女が役に立ったと小太郎に思わせれば、煎十郎は乙霧の夫になる。

 だがこんなところであんな狂人に襲われたら、すべてが台無しだ。

 彼女には破顔丸に抵抗するような力はない。彼に捕まったら最期、それこそ乙霧が壊れるまで犯しつくされるだろう。あまつさえ、それで子を宿してしまうことにでもなったら、自分は本当に一夜にとって不用の存在となる。

 言い知れぬ恐怖が、乙霧の心を埋めつくす。

 少しばかり開けた場所に出た乙霧は、疲れきった体を近くの大木に預けた。

 荒れた呼吸を整えながら、自身の絹のような白い肌を見る。いたる所に小さな傷がついていた。我を忘れ、とにかく破顔丸から離れようと深い藪を突っきってしまったためだろう。

 どこかで服を調達したい。ただ下手に人里に行って男に遭遇しようものなら、また騒ぎが起きてしまう。香りの件が無かったとしても、乙霧は男を惹きつけずにはおかない美女である。裸で行動するのはまずすぎる。

 それでも彼に見つかるよりはましかと、顔をあげた彼女が固まる。

 目の前に破顔丸がいた。

 顔を狂気の色に、衣服を血に染め、獰猛な笑みで乙霧を見つめていたのである。

「遅くなって済まなかったな。弱いくせに手こずらせおってな。一人逃したが、ほとんどはこの金棒で叩き潰してやったわ」

 大声で笑う彼に、彼女はなんとか時間を稼ごうと、乾いた口をひらく。

「どうして、ここがわかったのですか?」

 たずねながら、乙霧は自分でその理由に思いいたる。

「決まっておろう。儂らはすでに一心同体。離れていても心は一つじゃ。お主の居場所はすぐにわかる」

 そんなわけがない。匂いだ。彼女は自身の女の匂いを抑える薬を一日三回服用しているが、最後に呑んだのは昼。効果が弱まっている。香草の香りで焚き染めた衣服も破顔丸に引き裂かれ、乙霧の女の香りはいまや広範囲に広がっていた。

 ほぼ無臭のその香りを、風魔での厳しい鍛錬で人並み以上の感覚を身につけたこの狂人は、犬のように嗅ぎつけて追ってきたのだ。

 もう問答は無用とばかりに、彼が金棒を捨て乙霧にせまる。まったく時間を稼げなかったが、なんとか破顔丸の腕をなんとかかいくぐり、そのまま彼の背後へと走る。

 乙霧を抱きしめそこなった破顔丸は、彼女が背にしていた大木を抱きしめた。

「ぬう! きさまも儂を邪魔するか!」

 彼の正気を逸脱した言葉に、振りかえった彼女はぎょっとする。

 破顔丸の腕が大木に食い込んでいくのもそうだが、それよりも、破顔丸の背中にいくつかの八方手裏剣と刀が一本突き刺さっていたからである。

 破顔丸の衣服の血は、てっきり風魔衆の返り血だとばかり思っていたが、本人の血もかなり染み込んでいるのかもしれない。

 あれでどうして動くことができるのか。どうしてこんなにも早く乙霧を追ってこれたのか。あれではまるで、八犬士の一人であったあの老人の呪言のようではないか。身体がまともに動くだけ、こちらの方が厄介だ。

 あれに捕まってはいけないと乙霧は心を奮いたたせる。本人は犯すつもりでも、結果として殺されかねない。あんな男の子を産みたくもないし、殺されたくもなかった。

 彼女は悲鳴をあげている両足を叩き叱咤激励すると、懸命に走りだす。少しして、乙霧の耳に大木の倒れる音が届く。それから間もなくして、逃げる彼女の手が掴まれ、そのまま力任せに投げ飛ばされ木に打ちつけられる。

「あうっ!」

 息がつまり、地面に伏しながらも、乙霧は彼女を投げ飛ばした相手を見あげた。

 やはり破顔丸。本当に早すぎる。木の倒れる音がしたのはつい今しがたなのに、もう追いついてきた。疲れた素振りもなく、顔にはかわらず笑みをうかべている。軽傷とは呼べぬ傷も負っているというのに。

 彼が起きあがることのできない乙霧に覆いかぶさってきた。両腕を突っpり押し退けようとするが、彼女の細腕では、大木さえもへし折ってみせる破顔丸の膂力に抵抗できるはずもない。

 顎を押さえられ、唇に吸い付かれ、無理矢理に口の中を蹂躙される。

「おお! おお! 甘露じゃ。まさしく甘露じゃ」

 破顔丸は乙霧から顔を離し、続けざまに両膝を掴み、乙霧の抵抗をまったく意に介せず力づくで股を開かせる。

 露わになった乙霧の女陰を見つめ満足そうに頷いた。

「さすがじゃ。顔も美しければ、ここも美しい」

 満を持して彼女の女陰へと伸ばされた手は、そこに届く前にとまる。

 乙霧は目の前でなにが起きているのか、すぐには理解できなかった。

 どうなっているかは見ればわかる。だが、どうしてそうなっているのかがわからない。

 破顔丸の首に、大きな白い犬が、鋭い牙を突き立てていたのである。

 彼が彼女の女陰を見つめたまま、何度も瞬きをしている。彼もまた状況を把握できていないのだろう。犬が自分に噛みついていることではなく、自分の体が前に進まぬことが、手が乙霧の女陰に届かぬことが理解できぬ。そのように見えた。

 犬が大きく首を振り、破顔丸の喉笛を喰いちぎる。

 彼の喉から赤き血がとめどなく大地に流れ落ちた。破顔丸はなにかを言わんと口をパクパクと開けたが、音になることなく血が零れるのみ。

 乙霧は膝を押さえる破顔丸の力が弱まったことに気づき、思いきり彼の胸を足で蹴り押した。

破顔丸は抵抗することなく後方に倒れる。

 彼が倒れると、大きな白い犬は、荒く息をつく乙霧の体に鼻をこすりつけるようにして匂いを嗅ぐ。そして急に、飼い主に出会ったかのように、乙霧に体をこすりつけて甘えだした。

 息の整った彼女は、その様子を不思議に思っていたが、やがてハッとして、命と貞操の恩人の首に、しっかりとしがみついた。

「ありがとう!」

 涙を流して感謝する乙霧の顔を、犬はねぎらうように舐める。

 犬にされるがままの乙霧の耳が、大地に敷き詰められた葉を踏みしめる音を聞きつけ、犬を抱きしめたまま顔をあげる。

 男がこちらに向かって歩いて来ていた。闇の中に浮き出るような色白の肌をした美しい男。首に巻かれた黒い布の下から、薄い光が漏れている。顔を確認できたのはそのためであろう。

 美しい男など里で見飽きているはずの乙霧が、男から目が離せなくなった。

 犬が乙霧の腕からするりと抜け、男の元へと走っていく。男の足にひとしきりじゃれつくと、男の隣に並び、再び彼女へと歩み寄ってくる。

 乙霧の前まで来ると、男は着ていた羽織を脱ぎ、裸の乙霧にかけてやろうとした。

 その手が乙霧の直前でとまる。その目は大きく見開かれ、彼女を凝視していた。掴んでいた羽織が手をはなれ、乙霧の下半身にふわりとかかる。

 手が彼女への伸びたが、あと少しでその白き肌に触れんとしたとき、犬が鋭く鳴吠えた。

 男は突然夢から覚めたかのように、左手で顔を、右手で股間を抑えつけあとずさる。

 乙霧から離れた男は、悪夢を振り払うように強く頭をふった。得体の知れぬものを見つけたような目で彼女を一瞥すると、(きびす)を返し歩きだす。犬は名残惜しそうに、何度も振りかえりながらも、男のあとに続く。

 その場には、己を守るように両腕で自身を抱きしめる乙霧だけが残された。

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