(二十二)
「我、悌をつらぬくを、我が命を懸けて心に誓わん!」
日車龍膳に向って走る小三治の胸中にはすでに吉乃を心配する気持ちはなかった。いま小三治の胸に去来するは、他の八犬士の為に、この命を使い尽くすという想いのみ。
走りながら口をすぼめ、たてつづけに唾を飛ばす。
無手と思われた龍膳が、懐より一枚の布を取り出した。その布を強く振るう。強靭な手首によって振るわれた布は一枚の固い板となり、強力な酸が布に染み込む前に、飛んでくる唾を全て地面に叩き落す。
八犬士の呪言の内容は、可能性という形ではあったが、龍膳たちに伝えられている。あの乙霧と言う娘はその可能性を、限られた情報の中から導き出した。
唾が落ちた地面から煙があがるのを視界にいれながら、そら恐ろしいと彼は思う。聞いただけの話もあるだろうに、ほんのわずかな手がかりをきっかけに正解を導き出す。静馬同様、敵には回したくない相手である。
とはいえ、龍膳もさすがは次期小太郎候補。相手の唾が危険であると聞いていたとはいえ、布一枚で対応してみせる技術は並大抵のものではない。さらに彼は、すり足で後方にさがりながらこれをやっていた。小三治は一目散に龍膳に向かってきているから、こんなことをしても二人の距離は縮まる。だが、この行為によって生まれるわずかな時間。この時間が、彼の部下が小三治の背に追いつく間を与える。
小三治がつばを吐き飛ばす間隙をつき、龍膳は布を小三治の顔に向かって投げつける。布は小気味よい音をたてて、小三治の顔に張りついた。小三治の足が一瞬とまる。その一瞬で四人の風魔が小三治の背後に殺到した。
小三治が前のめりに体を倒し、四つん這いになる。顔から布が剥がれ落ちる。その顔には布の代わりに笑みが張りついていた。
小三治の突き出された尻が、大きな音をたてる。途端に四人の風魔が顔を押さえのたうちまわった。
小三治の呪いの副産物。
生野が犬田家に施した呪いの目的は、体内の消化液の強化。並びにそれを生み出す内臓の拡張及び壁の強化である。生野の狙い通り胃液はすさまじい消化力をもつ酸となったが、その酸は生野が想像していなかった副産物も生みだした。
それは刺激性の強い気体。胃酸とともに胃に溜まったそれを、小三治は尻から屁としてひねりだす。この屁はただ臭いだけでなく、相当に痛い。相手によっては意識を奪うことさえある。
四人の風魔衆は涙を流し、鼻水を垂らしながら、顔を襲う痛みにのたうちまわる。
劉善にも屁の音は聞こえたが、その屁が四人の苦しむ理由とはわからない。
それでも彼は、驚きはしても、立ちつくすなどという愚かなことはしなかった。技術だけでなく、その胆力も並ではない。小三治の体勢を好機ととらえ、彼に襲いかかる。龍膳の武器はその拳。先程、布一枚で小三治のつばに対応できたのも、その拳を支える、強靭な手首があればこそ。
小三治もただ待ってなどいない。四肢を踏ん張り獣の如く、駆けてくる龍膳に向かって跳んだ。
人としては不利なその体勢にも関わらず、死を目前にして、遂に本来の八犬士の血が目覚めたのか、小三治の四足での跳躍は、龍膳の頭の高さにまで到達する。
だがその高さは不幸にも、彼の拳が捉えやすい位置であった。
龍膳の突き出された拳は、小三治の下顎を正確に打ち砕く。
彼の口内は、舌に埋め込まれた『悌』の半珠の呪いの力で、丈夫に強化されている。だがそれ以上に強化された唾液が、常に分泌され、さらには胃液の通り道にもなってしまった影響で、顎の骨を常人よりはるかに脆くしてしまっていた。
小三治の口は、彼の跳躍の勢いと龍膳の突きだした拳の力とで大きく裂ける。
吉乃の大きな拳さえ簡単にくわえこめそうな小三治の大口はさらに大きくなり、驚くべきことに、龍膳の頭をてっぺんからすっぽりくわえこんだ。
ふたりはもつれあって地面に転がる。
龍膳は両手で彼の口から頭を引き抜こうとするが、小三治はそうはさせじと龍膳の両脇を抱え込み、逆に喉の奥へと彼の頭をいざなう。
小三治の口と龍膳の頭の結合部分から煙がもれだす。龍膳の頭が溶けているのだ。唾液ばかりではない。逆流する胃液にも晒され、いままさに彼の頭は溶けている。
龍膳は小三治にくわえられたまま、狂ったように彼の身体を殴りつけるが、すでに眼から光が失われている小三治は龍膳を咥えこんだまま離さない。やがて彼の身体は、二三度痙攣を起こすとそのまま動かなくなった。
蟒蛇を巻きこんで地面に倒れこんだ吉乃があの世に旅立っていたころ、ふたりもまた、あの世へと旅立つ。
「遅かったか」
「あっ、静馬殿!」
蟒蛇の部下のひとりから知らせを受け、静馬が駆けつけてきたが手遅れだった。すでに戦闘は終了し、八犬士が二人と風魔衆が六人地面に転がっている。
「ひとりは兵之助に、ふたりの八犬士と龍膳が死んだことを伝えにいけ。警備をより強めておけとな。そこの四人は風魔屋敷に連れて行け。煎十郎を叩き起こして治療にあたらせろ。それから死体の始末をさせる者たちも必要だと頭領に伝えよ」
自分が引き連れてきた風魔衆と、無傷の蟒蛇の配下に矢継ぎ早に指示を与え、静馬はつかつかと吉乃に抱きかかえられるようにして倒れていた蟒蛇に歩み寄り、体を蹴飛ばした。
「いつまで死んだ振りをしている。なにが起きたか説明しろ」
「む。なぜばれたのだ。我ながら見事な死んだ振りであったはずだが」
蟒蛇が吉乃の腕の拘束を逃れ、のそりと立ちあがった。
静馬は呆れたように息を吐く。
「背中に刺さっているのは、貴様の棒手裏剣であろう。お前がお前の毒で死ぬようなたまか」
吐き捨てる様な静馬の言葉に、蟒蛇が心外とばかりに眉間にシワを寄せる。
「それでも背中に手裏剣が刺さっているのだぞ。もう少し心配してくれてもよいではないか、冷たい男じゃのう」
「そういうことは、血を流してから言え」
そう言われると、蟒蛇は首をほぼ真後ろにむけ、自身の背中をのぞきこむ。
「おお。これは失敗。次からはそういう仕掛けも用意しておこう」
静馬はほとほと呆れるが、この者に真面目に対応しても疲れるだけだとは知っている。視線を蟒蛇から小三治に咥えられている龍膳に移す。
「しかし、お前たちや破顔丸ならば相手の対応策さえわかっていれば、遅れはとらんと思っていたんだがな」
蟒蛇の眉間から皺がとれ、目元が笑う。
「それは間違いだぞ、静馬。こやつ等の真に恐ろしいのはその技ではない。恐るべきはその執念。それに見ろ、こやつ等なにか途方もないことを企んでいる気がするぞ」
蟒蛇は足で吉乃の死体を仰向けに転がし彼の腕を指さす。
そこには大きな窪みがあった。
「逃がされた北条兵の話では、確か巨漢の腕には石のような物がついていたはずであろう?」
楽しそうな蟒蛇の声に、静馬の顔が嫌そうにゆがんだ。