(二十一)
小三治は吉乃の手をひき、帰路を急ぐ。一度城下町へとくだり、そこから東に小田原を抜けるつもりだ。山を越えることも考えたが、暗闇のなか不慣れな山道を無事に越えられるとは思えない。風魔に見つかる危険はあるが、自然と人であれば人の方が与しやすいだろう。
夜の間にふたりは小田原をでて生野と合流する予定だ。そのあとは命が尽きるまで仲間を守るつもりだが、吉乃は生きて八犬家に返してやりたいと小三治は思っている。生野やお礼からは吉乃とお信磨は生かしてやりたいと聞いている。彼も賛成だ。吉乃も信磨も、呪いの力で体に異常をきたしてはいるが、呪いの力から遠ざかれば、この先も生き残れる可能性はある。呪いの質から考えるとお礼もそうなのだが、生野が死ぬ道を選んでいるからには、絶対に退かないだろう。彼女は情の深すぎる人だから。
考えごとをしていた小三治の手を吉乃が突然引いた。吉乃の力が強かったため、彼は吉乃の胸に飛び込む。
「おい。どうした? まさか、また呆けているんじゃないだろうな」
「危ない。周り、ひどでいっばい」
周囲が囲まれているということかと、小三治は息をのんで闇に眼を凝らす。
「ほう、気がついたか。さすがあの小僧の仲間だな。一筋縄ではいかん」
くぐもった声と同時に、前方の闇から四人の風魔衆が姿を現す。
「なんだ。怖気づいたのか蟒蛇。ならば引っ込んでいてもかまわんぞ。八犬士のうち二匹の首を取れば、般若の戦場での手柄次第ではあろうが、次の小太郎も夢ではなかろう」
小三治たちを挟み込むように、背後からも風魔衆が五人現れた。
「龍膳か。わしは小太郎の名に興味はないからのう。譲ってやっても良いのだが、間違いが起こってもつまらん。とどめはお主にくれてやるから、先手はわしにまかせよ。お主はとりあえず逃げられんように後ろを塞いでおれ」
眼の位置だけを開けた黒装束で身体を包み込んだ蟒蛇が軽い調子で返答すると、腕と足が剥きだしの衣服を着こんだ龍膳が笑う。
「ふん。貴様らしいな。よかろう。ならば即死するような毒は使うなよ。俺が顔を潰す時くらいまでは息が続くものにしろ」
彼が手甲をはめた右拳を左の掌に打ちつけ舌なめずりをする。
蟒蛇の瞳孔が蛇のようにすうっと細まる。
「うむ。承知した」
ふたりの話しがまとまり、部下たちが小三治と吉乃を取り囲む。
「くそ。吉乃、お前は隙をみて逃げろ。お前にはもう呪言の力はねえんだからな」
そう言って小三治は吉乃の腕を見る。吉乃の両腕から『孝』と『提』の半珠をはめ込んでいた二本の磁力棒が無くなっている。かつてそこには石棒がはめ込まれていたのだとわかるくぼみが残るのみ。
『孝』の半珠がはまった磁力棒は、先ほど二人で小田原城の北西に埋めた。そして『提』の半珠がはまった磁力棒はお礼に小三治の胃液の詰まった特殊な革袋と一緒に渡してある。お礼の『呪言』が相手の視覚から消せるのは本人だけではない。今頃はその棒を小三治たちが埋めた場所から小田原城を挟んで反対側、つまりは小田原城の南東に悠悠と埋められているはずだ。
二本の磁力棒を、小田原城を中心とした対角線上に埋める。これは小田原城を落城させるうえで、はずせない行為であるらしい。その代わり吉乃に戦う力がなくなる。だからこそ、吉乃を生かして返そうという話がでたのだ。
だが、こうして風魔衆に取り囲まれてしまっては、彼に呪言の力が無いのは致命的でしかない。
蟒蛇が両腕を広げた。両腕には干し柿のように、棒手裏剣が無数にぶら下がっていた。
「これには全て毒が塗っておる。だが安心せい。致死性ではあるが遅効性じゃ。かすりでもすれば、死への歩みをしっかりと感じ取ることができるぞ」
まったく安心できないことを陽気な声で言う。表情が見えないせいもあって、なにを考えているのかわかりづらい。
どうすべきか。小三治の呪いの力は、彼の胃液や唾液を消化力の高い酸へと変化させるものだ。たとえ手裏剣であろうとも溶かす力はある。だが、投げられた手裏剣につばを飛ばして、上手く当てることができるだろうか。できたとしてもあの数だ。そのほとんどは二人に突き刺さることになるだろう。
「ござんじ。うごぐな」
半ば諦めかけた小三治の頭に、吉乃の声が落ちてくる。
「あ? おい馬鹿、なにするつもりだ!」
彼の問いには答えず、両腕を天に向かって高く掲げる。
「わ、我、孝を貫く為、わ、我が命、天より提げん!」」
すでに吉乃の腕に輝きを増す半珠はない。声だけが、虚しく闇に溶けた。それでもなお、吉乃は石の大きさの窪みができた太き両腕を掲げ続ける。
「おおおおお!」
吉乃が吠えたことが合図になった。蟒蛇が両腕を前方に交差させるように振るったかと思うと、腕の下にぶら下がっていた全ての棒手裏剣が、小三治と吉乃に向かって飛ぶ。
奇跡が起きた。
二人の身体のいたるところに向かって飛んだ棒手裏剣が、すべて吉乃の腕へと引き寄せられ、しっかりとその両腕に突き刺さる。呪いの力を手放したはずの、その両腕に。
磁力の影響下に置かれた金属が、その影響から離れた後も、しばらくの間ならば、磁気を纏っていられるように、呪いの影響を一番受け続けていた吉乃の両腕もまた、磁力棒と化したとしか考えられなかった。
「小三治、俺たちの活躍どころは、ここだぞ」
小三治は驚いて彼の顔を見あげた。
これは呪言の力を授かる前、一か月前までの吉乃の喋り方。
「あの指揮をとっている二人を殺すだけでも生野兄さんの助けにはなるはずだ。やるぞ。命を捨てて」
毒の影響だろうか。棒手裏剣に塗られた毒が、毒を以て毒を制すように吉乃の呪いによる副作用を一時的に抑えたとしか思えなかった。
またもや奇跡。命も呪言も捨て、からっぽになった彼の身に起きた、まさしく奇跡。
小三治が目に涙を滲ませて笑う。
「お前、できるんだろうな。さっきまで寝てたようなもんなのに!」
「ぬかせ!」
吉乃が笑い返す。
最後に真剣な眼差しを交し合い、二人は走った。小三治は龍膳。吉乃は蟒蛇。
吉乃は両腕に刺さった手裏剣を全てむしり取り、それをまとめて蟒蛇の顔めがけて投げつけた。蟒蛇はそれを難なくかわす。
「とどめは任せると約束した手前、俺の方にこられては困るんだがな。そんなに長くはもたんのだぞ」
蟒蛇の言葉など吉乃には届いていない。
ただ眼の前の者を、仲間の為、一族の為、未来の為に倒すのみ。
正面から一気に距離を詰める。蟒蛇は微動だにしない。
蟒蛇の組の者が間に入る間もなく吉乃は蟒蛇の腰にしがみつく。
蟒蛇が心底迷惑そうに呟く。
「まったく。そう愚直に真っ直ぐ来られては、これを使うしかなくなるだろう。これに塗っているのは即効性だ」
青紫色の刃が吉乃の背中から突き出ていた。
蟒蛇がいつの間にか手にしていた忍刀が、吉乃を刺し貫いたのである。
「おい。そろそろ放してくれんか? 龍膳には俺から謝っといてやるから」
それでも彼は離さない。離れようとする魂を意志の力で強引に押さえつけ、蟒蛇の背中になにかを突き立てた。
棒手裏剣だった。全ての棒手裏剣を投げつけたと見せ、実は一本だけ隠し持っていたのである。
「おいおい。本当か。これは油断したな」
蟒蛇の目元が笑ったかと思うと首ががくりと傾いた。
それを見届けた吉乃は、口から血を吐き出し、蟒蛇を巻きこんで地面にどうと倒れた。