(二十)
闇の帳がおりた頃、小田原城の濠を挟んで裏手にあたる山林を、犬田小三治は犬塚吉乃を引き連れ、辺りに気をくばりつつ、道なき道を突き進んでいた。
胃の上のあたりに埋め込まれた『心』の半珠を押さえた彼の口から、うめき声がもれる。
少し前から、胃の痛みがずっと続いていた。
どうやら自分はそう長くはもたないようだと、小三治は悟る。
せめて明日までもってくれと彼は祈らずにいられない。
小三治の呪言を使った役目は今日で終わる。それでも、いやだからこそ明日までは生き残り、皆が目的を果たせるように囮役を務めてやりたいのだ。
「吉乃、もうすぐ城の北西にでる。ちゃんとついてこいよ」
痛みをこらえ吉乃に声をかけるが、返事が返ってこない。不思議に思って振り返ると、ついてきているはずの彼がいなかった。
「あの馬鹿!」
慌てて踏み分けてきた来た道なき道を引き返す。
そう離れてはいない場所に吉乃はいた。月明かりに照らされる小田原城の天守閣を、ぼんやりと眺めている。
大きくため息をつき歩み寄った小三治は、彼の腕を引く。
「こら吉乃。仕事を終える前に敵に見つかると面倒だろうがよ。そんな見晴らしのいいところで立ちどまるな」
力を入れて引っぱるが、吉乃はまったく動かない。顔は大きいが体は小さい小三治では、巨漢の彼を力ずくで動かすのは難しい。
腕を引っ張るのをやめ、吉乃の尻を蹴りはじめた。
「もう少しなんだからよ。頼むからしっかりしてくれ。約束したじゃねえか。生まれてくる子供の為に、一緒に自由を手にいれてやろうってよ」
小三治はぼろぼろと涙を流し訴える。彼の姉はいま子供を身籠っている。吉乃の兄の子供だ。
犬田家の男子は小三治ひとりだけだったが、姉が子供をふたり産んでくれれば、ひとりが犬田家を継いでくれる。そう考え小三治はこの命を捨てる戦に参加した。吉乃も未来を兄とその子供にたくす。
二人で誓ったのだ。一緒に産まれてくる子供の未来を勝ち取ろうと。
「呪いになんか負けんじゃねえ。頼むからよぉ」
泣きながら蹴り続けていた彼の頭に、大きな手が乗せられた。
「ずまん。待だぜだ」
吉乃が笑顔でそういうと、小三治もつられて笑った。
「まったくだ。馬鹿野郎」
彼は、今度は吉乃の手をしっかりと引いて歩き出す。
暗い山林の中、慎重に歩みを進めていたふたりは、探し求めていたモノをみつけた。
一本の木。幹に『犬』と掘られた大木。
「あった。これだ。お礼姐さんが言ってた木だ。吉乃、ちょっとそこで大人しく待ってろよ」
小三治は吉乃の手を離し、目印のついた木の根元にむきあう。
「我、悌をつらぬくを、我が命を懸けて心に誓わん!」
口を大きく開き、『悌』の半珠が照らすその口の奥深くに、彼はためらいなく手を突っこむ。指先がちくりと痛み、口の中に嫌な臭いが充満する。吐き気がわき起こると同時に小三治は口から手を引き抜く。
「うげえ」
木の根元に胃液が滝のように流れ落ちた。小三治の胃液を受け止めた地面が煙をだして溶けだし、拳ほどの大きさの穴ができる。
小三治は穴の前に四つん這いになり、できた穴の中に直接胃液を流し込んでいく。見る間に穴が深くなる。
穴がそれなりの深さになると、彼はその場に仰向けにひっくりかえった。
「だ、だいじょうぶが?」
吉乃が寄ってきて、心配そうに小三治の顔を覗き込む。
「ああ。ちょっと疲れただけだ。心配ねえよ。俺の胃袋は特別製だ。
吉乃、俺のことより穴を見てろ。穴の中の煙が薄まっていたらもうだいじょうぶだからな。そうしたら残りの石棒を中に差し込め」
「わがっだ」
彼は地面に這いつくばって穴を覗きこむ。早く煙を薄くしようというのか、穴にふうふうと息を吹き込んでいた。意味のない行動ではあったが、小三治は苦笑まじりでその様子を見守る。
「おおう。穴の中真っ暗だ。白いの消えだぞ」
「よし。赤い方を上にして棒を差し込め」
吉乃は彼に言われた通りに、『孝』の半珠が中央で輝く石棒を、己の右腕から取り外し、赤色を上にして穴に差し込む。
「珠も土んなが入っぢまっだげど、いいのが?」
「ああ。かまわねえ。でも全部埋めちゃ駄目だぞ。さきっぽをだして、動かないように周りを土で固めて、固定するだけにしとけ。生野がそう言ってた。まあ、実際には書いてたんだけどな」
「そうが。いぐのにぃやが言っだならそうなんだな。いぐのにぃやは、あだま良いがら」
彼が嬉しそうにそう言い、突き出た石棒の周りに土を集め、その土を大きな手でたたいているのを見て、小三治は悲しくなった。
「お前だって、賢かったじゃねえか」
呪言の力で強化された胃液が体の内側を溶かし削っていく痛みよりも、かつては聡明だった吉乃が、そうではなくなってしまった今の姿を見る方がずっと痛い。
整った顔立ちの子供たちを見張りの里見兵の欲望から守った、泥を使った偽装は彼の発想だった。
一年半程前に八犬家が自由を得るための方策を手にいれた生野が、八犬家の屋敷へと戻る。
生野は八犬家に呪言の力を授けた。吉乃の犬塚家に託されたのは、中央で赤と青に色がわかれる鉄を引き寄せる不思議な二本の石棒。その二本の棒に『孝』と『提』の半珠をそれぞれはめ込むことにより、二本の棒は強力な磁場を生み出す呪いを生みだした。
しかし呪いの力は強力であるがゆえに、その使用者への負担も甚大であった。二本の棒が作りだす磁界の中に、四六時中いることになる使用者の精神が壊れる。
吉乃の祖父も父も発狂した。二人とも一命こそ取り留めたが、ずっと寝たきりの状態が続いている。食をとることも満足に適わなくなっているので、そう遠くないうちに彼らも命を落とすだろう。
だが吉乃は耐えた。聡明さこそ失われたが、指示をこなせるぐらいの知性はのこる。
それでもやはり小三治は悲しい。家族として、かつての彼が失われたことがとても辛いのだ。
もっとも生野を責める気持ちはない。共に生活した時間は短くとも彼もまた家族。十年以上も里の外にいて、苦しいだけの生活の場に彼は帰ってきたのだ。自分ならば帰ってこないと小三治は思う。心根の優しい男だ。呪言の力を八犬家にもたらすことを悩んだであろうし、いまもなお苦しんでいる。
「ごさんじ」
吉乃の声で彼は思考をとめる。
「どうした?」
「みんなのとこにがえろ」
「ああ、そうだな。帰ろう。家族の所に」
彼の助けを借りて立ちあがった小三治は目元をしっかりとぬぐった。