(十九)
小田原守備兵への牽制攻撃から一刻あまり(約2時間)。太助と萩に率いられた野生馬の群れは、小田原の北西にある谷あいを走っていた。
彼らは休憩を挟みながら徐々に小田原から離れていく。徒歩で追いかけてきている北条軍でも、あとを追えるようにゆっくりと。
北条軍としては、守備兵を殺害しながらも堂々と姿をさらしている太助を放っておくわけにはいかない。領民の畑を荒らし、兵を殺した男をのさばらしては、民に軽んじられる。北条家の威信をかけて懸命に太助の後を追う。先導するのは風魔衆。どんな扱いを受けようとも、彼らには北条に組していく以外に生きていく道はない。
ただ太助の連射砲の威力を恐れてだろうか。追手はかなり腰が引けていた。追いつくかと思えば、彼の射程外から様子をうかがうばかり。待ち伏せも何度かあったが、届くとは思えない遠距離から弓を射ってくるだけ。萩たちが走る方向を変えればそれっきりで、まともに戦おうとする意志を感じなかった。
結局、追ってはきても接触までにはいたらない。両者はそんな距離感を保つ。
太助にとっては願ってもない展開である。小田原から離れていっている為、この先は待ち伏せもないだろう。そもそも、いま走っているような狭い道で、連射砲を持つ太助の正面に立つ者がいるとは思えない。格好の的になるだけである。
しかし人が立ちはだからなくとも邪魔はできるようだ。
思わず太助は鼻をならす。前方が土砂やら丸太やらで、完全に塞がれているのが見えたからだ。明らかに自然のものではない。人の手によるものだ。
「無駄なことを……」
進路が読まれていたことに多少驚きはしたが、しょせんは急ごしらえ。彼の呪言をもってすれば、簡単に吹き飛ばせる代物であろう。
太助は群れを止まらせはせず、ゆったりとした速度で走らせたまま、連射砲の準備をする。腹の水分の残り具合からいっても、まだ何度かは打てる。最後には北条兵を道連れに華々しく散る腹づもりだ。萩ならばひとりでも充分に、いや彼女だけの方が楽に北条から逃げおおせる。
「俺の呪言の前ではこの程度、紙切れ同然と知れ! 我、義を貫く為、我が命をもって是となさん!」
ずしりと重い鉄枠の銃砲身の先端から繰り出される水の連弾は、狙いあやまたず、土と丸太の壁に命中し、激しい音をたてて、馬数頭なら充分に並んで通り抜けられる道を造りだす。
太助を乗せた萩は、粉々になった木片が大地に降りそそぐ光景にもひるむことなく歩みを進める。萩の後ろを走る馬群の中には、驚きいきりたってしまう馬もいたが、そのほとんどは、先頭を力強く走る萩にしっかりとついていく。
連射砲を撃ち終えた彼は、彼女が生み出す心地よい揺れに身を任せる。
だが、そんな至福の時間は長続きしなかった。
造り上げた道を通ろうとその手前まで来たとき、萩の体が大きく揺れる。彼女はその場で転倒し、太助は萩の背中から投げだされた。
受け身を取る間もなく地面に叩きつけられたが、幸いにも地面が柔らかい泥であったため、大きな怪我をせずにすむ。
彼の体を包んだ泥は、普通の茶色い泥ではない。白く濁った泥だ。しかもやたらと粘り気がある。萩はこれに足を取られ転倒したのだ。萩のすぐ後ろを走っていた馬も数頭同じように足を取られ転倒し、粘り気のある泥の中で、上手く体勢を立て直すことができずにもがいている。幸いゆっくりと走っていたので、後続は立ちどまることができ、倒れた彼らを踏み通るという最悪の事態には発展せずにすんだ。
「いま助けるぞ、萩」
もがく彼女の隣で、泥に埋まっていた太助は、細くなってしまった四肢の力で立ち上がるのを早々に諦め、銃砲身を取り付けた陰茎に力をこめた。四肢から筋肉を移植された陰茎が、泥を跳ね飛ばして持ち上がり、次の瞬間には、激しく泥を打ちつけられ、その反動で太助の体が起き上がる。
「よし。萩よ、もう少しの辛抱だ」
彼がもがいている萩の方へ向かうと、上から降ってきたなにかが泥に突きささった。
火矢だ。太助たちを捕えた泥の表面に火が走る。瞬時に泥沼が炎の沼へと姿を変え、萩や他の倒れている馬たちから悲鳴があがる。泥の表面に油が撒かれていたようだ。体に付着した泥の一部にも火が燃え移る。
目の前に火が広がったことで、泥には落ちなかった馬たちの間に混乱が沸き起こった。これまでの統率のとれていた行動が嘘のように、進んできた道をばらばらに逃げ戻っていく。
「くそっ。萩、無事か!」
太助は己が炎に焼かれることは気にもとめず、彼女の元へと歩み寄ろうとするが、泥がさっきよりも重さを増しているようで、足がほんの少ししか動いてくれない。よく見れば、あれほど激しくもがいていた馬たちも動きが弱まり、黙って火に焼かれようとしている。泥からでている部分は動いているので生きてはいるようだが、泥に埋もれてしまった箇所が動かせないようだった。
「よし。もう満足に身動きがとれんぞ。矢を放て」
道を挟む崖の上から声が聞こえる。
風魔衆だ。太助は理解した。風魔衆がこの姑息な罠を仕掛けたのだ。彼の意識を、築きあげた壁に向くように仕向け、実はその手前に用意されていたこの泥こそが本物の罠。泥を壁の手前に仕掛けたのは、土壁もろとも吹き飛ばされたり、吹き飛ばした壁で泥が埋まるのを避けたのだろう。
悔しがったり、罵ったりする暇はない。風魔たちは弓に矢をつがえている。これでは火に焼かれるまでもなく、萩が奴等に殺されてしまう。
急いで上体を大きくのけぞらし、渾身の力で銃砲身を天へと向ける。
「我、義を貫く為、我が命をもって是となさん!」
二つの半珠が太助の思いに応え、強く強く輝く。
「射よ」
大将らしき男の号令が響き、風魔衆が矢を放つ。太助は頭上から降りそそぐ矢に銃砲身を向け撃った。水の連弾は一塊となり、水竜のごとく、降り注ぐ矢を噛み砕きながら天へと昇る。
風魔衆は二射目を射るのも忘れ。龍の後ろ姿を見送る。
その龍の動きがぴたりと止まったかと思うと、龍の尾が口へと変わり、その牙を大地へとむけた。
「ひっ!」
天に打ちあがった時に勝るとも劣らない勢いで落下する水の塊に度肝を抜かれ、風魔衆が弓を取り落し、その場にへたり込む。
「萩! 歯を食いしばれ」
萩に向けてそう叫ぶと、彼は頭を両腕で抱え、体を丸めて衝撃に備えた。
水竜の口が、太助たちごと大地に食らいつき、弾け飛ぶ。
体がばらばらになるのではないかと思うほどの衝撃が太助を襲う。地面に落ちた時の衝撃など比べものにならない。鉄の塊で殴られたかのようだ。衝撃は一瞬であったのに、意識をもっていかれそうになる。しかし萩への想いが、彼の意識を現実に踏みとどまらせる。
太助はゆっくりと顔をあげた。節々が痛むが、少なくとも火は消えていた。表層に撒かれていた油は、水に弾き飛ばされて霧散したのであろう。
「萩、生きておるか」
太助の呼びかけに、萩がか細い声ながらも応える。
「おう、さすがは萩じゃ。よう耐えた。あとはこの泥から抜け出せば……」
言いながら足元をみて、太助はぎょっとした。
すでにそれは泥ではなかったのだ。土とすら呼べない。岩と呼ぶのがもっとも近い。
その岩から彼は土筆のように生え、横たわる萩は苔のように岩の表面を覆っているかのようだった。
足を岩から引き抜こうと奮戦する太助の背後で、急峻な崖をこともなげに駆け下りた風魔衆が四人、それぞれの獲物を引き抜き油断なくかまえる。
太助の連射砲の威力を目の当たりにしたためか、彼が背後を振り返ることすらできぬというのに、六間(約10m)程も距離をとっている。
「まったく、驚かせおって。飛び道具はやめだ。この我聞が直接首を掻っ切ってくれる!」
この組を率いる諸岡我聞が、小振りの曲刀を片手に大声を張り上げるが、いかんせん、距離がありすぎる。太助を、八犬士を恐れているのが火を見るよりも明らかであった。腕がたつとはいっても、虚栄心にあふれた半人前。安兵衛と太助。ふたりの呪言は我聞の心にしっかりと恐怖心を植えこんでいる。
「やれるもんならやってみな!」
太助の声にはまだゆとりがある。
「くっ! 正面にしか撃てんくせに生意気な!」
そういって距離を詰めようとした瞬間、彼と太助の目が合った。
太助が天に向けて連射砲を撃ったとき以上に体を反らしたのだ。岩と化した泥より生えし足二本と、頭の頂点の三点で身体を支えると、銃砲身が引っ張られるようにしてぐるんと向きを変え、太助のまだ辛うじて盛りあがっている腹を土台にして、風魔にその黒光りした銃口をみせつける。
「ひっ!」
彼の口から悲鳴が零れ出る。それも仕方ない連射砲のとんでもない威力を、すでに二度も見せつけられているのだ。あんなものに狙われては命がいくつあっても足りない。
「散れ! こやつの呪いは一方向にしか撃てん!」
我聞が率先して、銃口を避けるように横に飛ぶ。他の風魔衆も慌ててそれにならう。
太助の呪言は、本来身動きのとりずらい集団の中心に向けて撃つべきものである。その重さから、呪いで強化した筋肉をもってしても、相手の動きに合わせて柔軟に銃砲身を動かすような真似ができないからだ。三日前の北条の別働隊との戦闘のおり、伏せた相手にまったく照準を合わせられなかったのがその証拠。萩の力を借りてさえ、左右のどちらかに向きをかえるのがせいぜいであった。しかも、こんな無理な体勢では撃った反動でその度に銃砲身がぶれる。とてもではないが正確な射撃などできようはずもない。
「撃たねえよ。我、義を貫く為、我が命をもって是となさん!」
ここにきての呪言の重ねがけ。二つの半珠の輝きが増し、鉄の銃砲身が、連射を可能にしていた銃口の部分もろとも二つに割れ、岩と化した泥の上に乾いた音をたてて落ちる。
そして姿を現したのは、赤く輝く、太く長い一本の鍛え上げられし筋肉。その先端には眼を凝らしてようやく見える線のように細い鯉口。
「おうりゃぁぁぁぁ!」
太助が吠えると同時に、赤き筋肉が天に向かって突き上げられ、鯉口より薄く研ぎ澄まされた水が、連射砲の弾として打ち出された時よりもはるかに勢いよく噴き出す。その姿はまるで刀。陽の光を受け輝く一本の水の刀。
その刀を太助の鍛え上げられた筋肉が、地面に水平に、彼を中心に円を描くように振るった。
刃物のように薄く研ぎ澄まされ、勢いよく射出された水は、金剛石さえも斬る。
臆病さゆえか、真っ先に危険を感じた我聞は、その場に立ち止まり、腰を落して脚に力をいれると、体の横に曲刀をたてて構え、その刃で水を受けた。
甲高い音が響き、曲刀が紙のように斬れる。されど水の刃は勢いを失うことなく、我聞の体を何事もないかのように通過する。暫しの沈黙。我聞の顔に驚きの表情を浮かぶ。その表情のまま、我聞の臍から上が、下半身をその場に残し後方に倒れた。他の風魔衆も同様に、水の刃をかわせず、声をあげることもなく、体を二つにされて地面に転がる。
体勢的に上を見あげやすかった太助は、崖の上にまだ一人残っているのを見つけた。
太助は気力を振り絞り、まだ出続けている水の刃を崖に向かって振う。風魔衆が駆け下りてきた斜面に傷が走り、崖の上部がずり落ちる。
ずり落ちる地面に乗っていた人物が、あっと声をあげ、飛び退くこともできずにそのまま地面と一緒に落ちてきた。落ちた地面が、がけ下で砕け散る一瞬前、人影が飛ぶ。
だが、人影は跳んだ勢いを殺せず、動けない太助の足元まで転がってくる。
太助が上体を起こし、刀身を失った筋肉を転がって来た者に叩きつけた。
「ううっ」
聞こえたのは女の呻き声。
筋肉の脇から、顔が見えた。
呪言の力をその身に宿す前のお信磨を彷彿とさせるほどの、美しい女。
「お前も風魔か」
女は答えない。答えないことが肯定の証しであろう。そもそも無関係の女があんな所にいるはずもない。
殺す。女だろうと、どんなに美しかろうと。風魔は殺す。
彼は生き残り、萩を逃がさなければならないのだ。水は失ったが、この筋肉の力をもってすれば、こんな細い女の一人や二人、叩き潰すことなど造作もない。
(そうだ造作も……な……抱きたい)
太助は突然降ってわいた自分の思考に驚き、強く頭を振った。
なにを考えているのだろう。こんな時に。彼には萩がいる。この女は敵だ。
だが、この女はとても良い匂いがする。
そう思った瞬間、太助の筋肉が持ち上がった。女が持ち上げたのではない。この女の細腕で持ち上げられる代物ではない。かといって太助が自らの意思で持ち上げた訳でもない。
陰茎だ。太助の筋肉の中に芯のように存在している埋もれた陰茎。
これがこの女の匂いに反応した。
女が筋肉を肩で押し上げるようにして立ち上がった。
太助の筋肉が、太助の細くなった身体に密着し、顎を押し上げる。
「私を抱きたいですか」
女がささやく。太助の頭が痺れた。女の言葉が頭の中で何度も何度も繰り返される。すでに自分が人間の女と交わることができないことも忘れ、この女を抱きたいという願望だけで、頭の中が埋め尽くされる。
「抱く。抱くぞ。俺はお前を絶対に抱く!」
女が笑った。その笑みに込められた意味を考える理性を、彼はすでに失っていた。
「私にお任せくださいませ」
女が太助の筋肉に人差し指を当てた。
「さあ、貴方様の子種をそそいでくださいまし」
女が指を、筋肉の上で艶めかしく動かす。
「おほう!」
直接触れられた訳でもないのに陰茎を突き抜ける快感の波。
太助の筋肉が打ち震え、鯉口より白き刃が飛び出し、太助の顎下から頭の頂点までを刺し貫く。
一族の命を未来へと紡ぐためのものが、彼の未来を摘み取る。
女が太助から身を離した。
白き刃がどろりと形をなくし、太助の血と混ざり合い、足元を固められ、倒れることすら許されぬ太助の身体に、桜色の牡丹の花を咲かせた。
倒れたままの萩が切なそうな鳴き声をあげる。
その声を聞きつけた女は、風魔衆が落した忍刀の一本を拾い上げる。
「子も宿せぬ相手に懸想する気持ちは、まったくわかりませんが、せめて一緒に送ってあげましょう」
男を魅了する笑みを顔に貼り付けたまま、女は動けぬ彼女に向かって、ゆっくりと歩きだした。