(十五)
煎十郎が広間を出てすぐに障子が静かに開く。
そこにはふたりの女が立っていた。喜色満面の乙霧と蒼ざめた時雨。
彼女たちは小太郎の正面に座った。
何かにたえるように下唇を噛む時雨の横で、乙霧は小太郎に向かって頭を下げる。
「小太郎様。願いをお聞き届けくださり、誠にありがたく存じます」
「いたしかたあるまい。だが、少しばかり時はよこせ。あやつ独自の丸薬の調合もある。同じ技量の者が育つまでとは言わんが、奴が書を一通り書を書き終えるまで待て。それと……」
「それと?」
小太郎が不意に言葉をきったので乙霧が聞き返してきた。
「こちらが要望に応えるからには、お主も手抜きをするのはよせ。昨夜の一件だけでも、幻之丞殿がおっしゃった言葉が真であるとわかった。一から十を知り、十から百の策を練る。お主、考えの半分も語ってはいまい。八犬士の呪いに対する具体的な策もいくつか考えているのではないか」
小太郎が乙霧にちらりと目をやると、乙霧は悪戯がばれた子供のようにちろりと舌をだした。
「うふふ。本当に恐いお方。別に隠すつもりだった訳ではございません。ただ、全て確実にとは言えぬことばかり。しかしながら、八犬士の呪いに関してはわからないことが多い以上、少しでもありえると感じたことには対応策を整えておくべきかとは思います。先程、個別にお声がけしようかとも思ったのですが、静馬様以外は小太郎様から直に指示をおだしになって下さらないと、耳を貸してくれそうもなかったので」
そう言ってくすくす笑う。
「わかった。わしからも言い含めておく。それで具体的な策は?」
「いくつか用意していただきたいものがございます。昨夜のうちに、一夜と繋ぎを取りまして手配をした物もございますが、足りぬかもしれません。木製の武具に火矢。それと大量の布、暗い色であればよろしいかと。それからその布を縫い合わせる人手。もし城に使われている瓦に近い色の染料が手に入るなら、布の色は問いませんが……。
それから念のために、氏康様の警護と城内の警備にあたる方に、明るい色の染料を持たせるとよろしいかと。もしも誰もいないのに足音が聞こえたといった時には、それを周囲に振りまくようにしていただければ」
意味がわからず、小太郎は眉をひそめる
「これまで八犬士、八犬士と言ってきましたが、呪いを使ったところを確認されているのは七人。襲撃されました氏康様のご配下の最後のご報告では、確かに八人いたということでございましたね。それでは、最後の一人は呪いを使っていないのでしょうか?」
興がのってきたのか、彼女の声が次第に熱を帯びる。
「私は否と考えます。此度の戦まで、八犬士は一夜の集める噂話にすらあがりませんでした。彼らがあの呪いの力を手にいれたのはごく最近と思われます。我ら一夜や風魔のように、幼き頃から修行を積んできたというならばまだともかく、監禁生活を強いられて来た彼らには、修行のための時や場所はなかったでしょう」
乙霧が八犬士の苦難に思いをはせるように目をとじる。
「短期間で北条の軍勢を壊滅させたり、風魔の方々を蹴散らして小太郎様の屋敷を焼き払うような強大な力を、なんの代償もなしに使えるはずがございません。先程も申しあげましたが、私の考えでは八犬士は命を代償として力を行使しているのではないかと」
再び目をひらいた彼女の口端が持ち上がった。
「おそらく彼らの命は残りわずか。だとすれば力の出し惜しみをしている余裕はないはず。ならば最後の一人は呪いを使っていないのではなく、使っていることがわからないのではないでしょうか。例えば姿を消す。暗殺にはもってこいかもしれません。もちろん、これはあくまで予測のひとつ。他の力であることも否定はできませぬ」
小太郎は腕を組んでうなる。
「姿を消すか。死んだまま動くよりは信じられるわ。わかった。用意させよう。他にも入り用なものができたならばすぐに申せ。無駄になったとて文句は言わん」
乙霧は黙って頭をさげた。
「皆がいる時に申せば、伝える手間が省けたものを。やはり手を抜いていたではないか」
また舌をちろりと出した乙霧に、小太郎は苦笑するほかない。
一通り小太郎との話が終わると、乙霧と時雨は再び連れだって広間を出たが。
「申し訳ございません。少し気分が悪くなりました。私は少し休ませて頂きます」
「まあ、それはたいへん。もちろん結構にございます。小太郎様から殿方は私に近づかぬようにとの指示が出ておりますから、それほど心配はいらぬでしょう」
乙霧は、目を伏せたまま一礼し去っていく彼女の背中にぽそっと呟く。
「貴女様のことは嫌いではありませぬが、良き殿方の種を求めるは一夜の女の業。お許しくださいませ」
彼女に見送られた時雨は、肩を落しながら風魔屋敷の庭に出る。そこには先客がいた。
「時雨ではないか。どうした浮かない顔をして」
「静馬兄様。お役目にはいかれないのですか」
「俺は城下の警邏の一組だからな。慌てる必要はあるまい。奴らが城下になにか仕掛けてくるとすれば夜。それまでは、やるとしてもせいぜいが陽動だろう。こちらの眼を少しでも欺くためにな」
彼女は下を向いて、陽気に答える静馬から視線を逸らした。幼い頃から実の兄のように優しく接してくれた静馬。いま彼と正面から向き合ったら、泣いて甘えてしまいそうだ。
「重症だな。小太郎様から、煎十郎が乙霧殿の婿になる話でも聞かされたか?」
時雨の肩がびくっと震える。
「図星か。だが、まだ諦めるのは早いのではないか?」
彼女が顔をあげ、キッと彼を睨む。
「父上の決めたことは、絶対です!」
「まあな。だが今回の一件に関していえば、覆せる者がいるだろう?」
静馬の言葉に彼女は怪訝そうな顔をゆがめる。
「時雨」
「は、はい」
急に真剣な表情を見せる彼に、時雨は思わず姿勢を正す。
「近づけさせることはできないにしても、できるだけ多くの男をあの娘に引き合わせよ」
「は?」
「あの娘は身体の……いや一夜の呪いと言ったらいいかな。それに縛られているにすぎん」
静馬は、言葉の意味が理解できずに首を傾げている彼女の肩を、ポンと優しく叩いた。