(十二)
八風が持ち帰った安兵衛の首を埋め終えた生野は、隣で大人しく座っている彼女の頭を撫でながら、思案にふけっていた。これからどう動くべきか。
彼の心臓はいつとまるかわからない状態ではあったが、できれば切り札を小田原城で使ってもらいたかった。
少しでも義弘の心証をよくしたいと、安兵衛に物資を運ばせたのは失敗だったかもしれない。
生野は初めて義弘に目通りが叶った日の事を思いだす。
彼は主君に告げたのだ。八犬士だけで小田原城を攻略してみせると。
上総・安房を勢力圏とする里見家五代目当主里見義弘は、趣向をこらした庭の地面に頭をつけ平伏する彼を、しっかりと磨きあげられた縁側に立ち、厳しい目つきで見下ろしていた。
本来であれば目通りが叶う立場ではない。
こうして邸宅にて極秘裏に会うのでさえ、義弘の立場を悪くしかねなかった。
父親である義堯に面会が露見すれば、どれだけの不興を買うことか。
家督を譲り受けはしたが、実権は今も義堯に握られている。不興を買いすぎれば、今からでも当主の座を弟の義頼に奪われかねない。己の野望の為に、力づくで従兄弟から家督を奪った男なのだ。父親と言えど油断はならない。それが戦国の世というものだ。
それでも彼が生野と会うことになったのは、もちろん理由がある。
義弘はそばに控える、禿頭の好々爺然とした風貌の爺を見やった。
岡本隨縁斎。里見家の重臣であり、岡本城城主でもある。義堯の信頼も厚く、いざとなればその身を犠牲にしても里見家を守ってくれると、義弘も信を置いている。
その彼から、たっての願いと言われては断れない。
だが隨縁斎が、義堯ではなく自分のところにこの話を持ってきたことの意味を考えると、早まったかと思う気持ちが義弘に湧いてくる。
そんな不安を振り払うかのように声を張った。
「面をあげよ」
「犬塚種智、殿の御意である。面をあげよ」
義弘の眉間によせられていた皺が、隨縁斎の言葉で生野が顔をあげたとたんに、大きく見開かれた目に引っ張られ、消えてなくなった。
驚くほど美しい顔立ちであった。美しいだけではない。その双眸は聡明さを象徴するような輝きにあふれ、唇は意思の強さを示すようにきつく引き締められている。義弘は視線だけではなく、心さえも奪われていく感覚に寒気さえ覚えた。
脇に控えている隨縁斎をにらみつけるが、当の本人は生野に目を向け、義弘からの視線をさけている。
本来であれば、こんなにも目立つ容貌の若者が、ここまで無事に成長できるはずがない。顔を傷つけられ、手足を折られていたとしても不思議はなかった。
なぜなら彼は、かつて里見家の安房の支配確立に大きく貢献した、あの八犬士の血を引く者なのだから。おそらく一筋縄ではいかぬこの爺が、陰ながら手助けをしていたに違いない。
随縁斎は義弘の視線に気がついていないはずもないだろうに、素知らぬ顔で座っている。里見への忠誠は疑うべくもない忠臣であるが、喰えない禿頭には違いない。
「本日はお目通りをお許しいただき、恐悦至極に存じます。拙者、犬八家が一家犬坂の当主を務めさせて頂いております、犬坂生野種智と申します」
凛と響く声が、牡丹のような痣の見える喉を通り、端正な口元から流れでる。
義弘はその声を心地よく感じながらも、厄介ごとが増えそうなことを予感し、面白くなさそうにその場にどかりと腰をおろした。
「よい。だが要件があるならば早く申せ。わしはお主たち一族のことなど気にもとめぬが、父は違うぞ。八犬士の血を引くお主がここにいると知れば、お主らの一族ただでは済むまい」
義弘が目通りすることを知っただけでも、義堯の怒りが頂点に達するであろうことは、想像するに難くない。義弘に譲ったのは家督のみ。家中での義堯の影響力は、実権を持つ者のそれである。
今回の件が義堯に知れれば、家中を揺るがす大騒ぎに発展する可能性さえ考えられた。
「はい。それではお言葉に甘えさせていただき申し上げます。拙者、昨今の当家の動きから、近々北条との間に大きな戦をひかえているのではないかと思いいたりました」
「ふん。なかなか目聡いではないか。幽閉されておるはずのお主ら八犬家が、どのように当家の動きを掴んだのかは知らぬがな」
喰えない爺は、かわらず視線を犬坂生野種智に向けたままである。
時は永禄九年。第二次国府台合戦の敗北により、北条氏に対して劣勢を強いられていた里見家は、上杉謙信の関東出陣に便乗し反撃に転じる。西上総の要衝佐貫城の奪還に成功したのもつい最近のことだ。ただ、上杉が下総臼井城の攻略に失敗し越後に撤退したため、北条にこちらに目を向ける余裕が生じた。近いうちに佐貫城の奪還に動くのではないかというのが、義弘と家臣団の共通の見解である。
「氏政の奴め、懲りずに上総へ兵を進める気配があるようなのでな。こちらもそれに対して備えを進めておるところよ」
義弘は顎をひと撫でし、若者にきっぱりと申し渡す。
「先に申しておくが、お主ら八犬家の者を従軍させることなどできんぞ。父上の目がある。大事な戦を前に、家中でごたごたを起こされてはかなわぬ」
「承知しております。その戦に参加させていただく必要はございませぬ。ただその戦に際し、我ら八犬家が別働隊として、小田原に攻めいることをお許し頂きたいのです」
義弘の口が、あんぐりと開いた。
「ば、馬鹿を申すな! そのほうが無理というものであろうが! お主たちに兵を率いらせるなど!」
声を荒げる義弘とは対照的に、波ひとつ立たぬ水面の如く、若者は静かに言葉を紡ぐ。
「里見家を一度捨て、謀叛の罪を背負いし我ら八犬家に、疑念の目をお向けになるのは無理からぬこと。無論、兵を預けていただく必要はございませぬ。家族も残してゆきます。我ら八犬家各家から代表者を一名ずつ。計八名により小田原を落としてごらんにいれますゆえ、我らに小田原へ攻め入るご許可を賜りたく存じます」
生野が地面に額を擦りつけるが、義弘の開いた口は塞がらない。
「まさか氏政を暗殺すると申すのか」
ようやくその言葉がこぼれでる。
しかし顔をあげた生野は首を振る。
「いえ。それでは里見家の名に傷がつきます。あくまで、小田原城を攻め落とすのです」
「八名でか?」
「八名で」
「お主、正気か?」
義弘は真っ直ぐに生野の目を見つめた。冗談を言っているふうではない。さりとて狂っているようにも見えない。瞳は知性に輝き、表情は真剣そのもの。横目で随縁斎の表情を窺うが、かわらずのすまし顔である。
不可能だと考えている義弘のほうが狂っているかのようにすら思えてくる。
義弘は大きく息を吐いた。
落ちつけと自身に言い聞かせる。
「上杉ですら落とせなかったあの小田原だぞ。それを八人で落とすと言うか。あの父の子である儂が言えた義理ではないが、無駄に命を捨てるのは感心せんな」
生野の目が一段と輝きを増した。
「無駄にはなりませぬ。里見家のため。我ら八犬家の為でございます」
それにと、生野は言葉を続ける。
「我らには、小田原を噛み砕く牙がございます」
「牙?」
訝しむ言葉に、生野は強くうなずく。
その目と声は、鉄をも溶かすような熱を帯びた。
「我らの祖、初代八犬士を一騎当千足らしめた呪いの力。それに南蛮の知識と技術を加えし力。名を呪言と申します。我ら八名が呪言を宿し攻め入れば、いかに堅牢な小田原といえども、無傷では済ませませぬ! もしも、我らが牙が小田原を噛み砕き、氏政にいたりましたその時は! どうか、どうか残されし我が一族に、どうかお情けを」
生野が額を地面に打ちつけられる音が、義弘のもとまで届く。
八犬家が義堯に与えられし窮状は、彼ももちろん知っている。哀れとは思っていた。しかし義堯の意向に逆らってまで、なんとかしてやろうとも思わない。
「お主らが手柄をあげたとて、必ずしも罪が許されるとは限らぬ。それなりの働きをみせれば、儂は報いてやらぬではないが、父上の横やりがはいれば、どうなるかはわからぬぞ」
それだけ義堯の八犬士嫌い……いや、八犬士への恐れは根が深い。
「たとえ儚き望みであったとしても、我らの命、それにかける所存にございます」
若者の真摯な言葉を聞きながら義弘は考える。これから北条との間に大きな戦が起きることは間違いない。そうなれば多くの戦死者が出ることは覚悟せねばならなかった。死体が八人分増えたところで大差はないだろう。将来有望そうな若者が早死にするのも珍しいことではない。惜しいとは思っても、それは仕方のないことである。
彼が悩むのは、八犬家を今の囲いから出してしまっても平気かということだ。
義堯には知られさえしなければ済むが、八犬士の牙が里見に向けられはしないか、むしろそちらが心配である。
それだけ、いまの八犬家に対する里見の、義堯の行いは酷い。父のみが滅びるなら良いが、里見家が内側から食い破られるような事態になっては目もあてられぬ。
はたして、いま目の前にいる犬は飼い犬か、はたまた狂犬か?
義弘は手で顔を覆い隠し唸り声をあげた。
生野はゆっくりと目を開く。
過去へと旅立っていた彼の心が現在へともどってくる。
呪言の力は無敵ではない。それどころか欠点だらけだ。 自身で考案し実用化までこぎつけたのは生野自身。その事は誰よりもわかっている。使いどころを間違えれば、一族の未来に、文字通り命をかけてくれた彼らを、無駄死にさせてしまう。
昨日は雨が降っていた。雨では安兵衛の力を存分に発揮することはできない。彼はきっと、雨が降っているときに敵に遭遇してしまったのだろう。
八風は頭が良く、八犬士の皆に懐いている。昨夜突然姿を消したのは、安兵衛の臭いをかげつけたからなのだろう。さすがに言葉が話せるわけではないから、安兵衛の首を持っていたのが誰で、安兵衛が誰にどのようにして殺されたのかはわからない。おそらくは風魔なのだろうとは思う。里から出ていた者たちが、里に戻ろうとしていた時に運悪く遭遇した。そんなところだろうか。
「戻ったよ」
お礼が浮かない顔で歩み寄って来る。
「安兵衛、そこに埋めたのかい」
お礼が土の盛りあがった箇所を見る。
「墓にはするんじゃないよ。参る者のいない墓なんざ、あるだけ無駄だ。あたしらに墓はいらない。わかってるね」
うなずく彼の隣に並ぶ。
「狂節の爺さん、駄目だったみたいだ」
これには生野も少なからず驚く。狂節の呪言は、八犬士の中でも、まさに呪いと呼ぶにふさわしいものだ。死の病をまき散らす蚊だけでも禍々しいが、もう一つの虫は、地獄から持ち出してきたかのような呪いである。
人に限らず、動物の体には目に見えないほど小さな虫がたくさん住んでいる。生野がその虫の存在を見つけたのは偶然だった。半珠を調べているときに、その先に偶然鼠の死骸があった。その死骸の表面が、半珠のひとつを通して見ると、拡大されて見え、そこにその虫達はいた。その虫は宿にしている生き物が死ぬと一気に数を増やし、その生き物が他の生き物に喰われたりすることで、他の生き物に宿をかえる。特に害のある虫ではない。のちの世に残すために子孫を増やし、宿をかえる。その本能だけの虫。
生野は半珠の呪いでその虫に力を与えられないかと思い立ち、鼠で実験を繰り返し、ついにそれに成功した。
力を得た虫は自分たちで死骸を動かし、宿になる生き物を捕まえ乗り移り、さらにその生物を自分たちで埋め尽くすことで殺し、またそれを操り、宿を増やし仲間を増やす。
狂節の目に埋め込んだ半珠は、虫を強くするとともに、身につけている間はその虫に殺されないようにする力もある。ひとたび半珠が外れれば、狂節は動く屍となり、生き物に襲いかかるはずであった。虫が動かすので、生きているときに比べれば行動は遅いし、不自然な動きにもなるが、斬ろうが突こうが、死骸は宿にすぎないので意味はない。
目に見ない無数の虫の集合体を殺す方法はただ一つ。
「小田原の手前にさ。これみたく、掘り返した土をもとに戻したような箇所があった。周りには火を使ったあともね。穴に落として燃やして埋めたんじゃないかね。初見でずいぶんと冷静に対処したもんだよ」
生野は顎に手をあて考えこむ。敵ながら的確な判断である。人は自分の想像を超えることに遭遇すれば、冷静に行動することは困難だ。風魔衆というのは、『彼』から聞いていた以上に奇想天外な出来事に慣れているということなのか。
「それに病の方もさ、もう落ち着いているようだったよ。噂にはなっていたから、一時的に効果があったのは確かだけど」
お礼の声に普段の威勢の良さはない。いつもと様子の違う彼女に、心配そうに八風が大きな身体をすり寄せる。お礼はしゃがみこんで八風を抱きしめた。
正直なところ、病が沈静化していたことに関しては、生野に驚きはなかった。あの病は放っておけば死に至るし、対処を間違えればどこまでも拡がっていくが、風魔には『彼』が戻ってきているはずだ。一昨日の里の襲撃では『彼』の姿を見なかった。おそらく小田原で病の対応をしていたのだろう。『彼』ならばあの病に対して処置を誤ることはあるまい。
できれば『彼』を殺したくはないが、自分たちの前に立ちはだかれば、斬る覚悟はしている。いまの生野にとって、一族の将来以上に大切なものはないのだから。
生野は小刻みに震えていたお礼の肩に手を置く。彼女がはじかれたように顔をあげた。目に涙はない。彼女の身体からはすでに多くの水分が失われている。それこそ生きているのが不思議なくらいに。
だが、その落ちくぼんだ両目は、血が通った人間であることを証明するように、赤くなっていた。
お礼は立ち上がり、やつれきった顔を枯れ木のような手で挟み込むようにして叩く。
「すまない。あたしらしくもないね。二人の死を無駄にしないためにも、落ち込んでいる場合じゃない。行こう。向こうで皆があんたの指示を待ってるよ」
歩こうとしたお礼を生野が抱き寄せた。以前一度だけ抱いたことのある彼女の体は、以前の女らしい柔らかく暖かだったときの名残りはない。肌は冷たく乾いていて、力をこめれば、簡単にへし折れそうなほど痛々しいものになってしまった。自分がお礼をこんな風にしてしまったと思うと悲しいが、自分と共に歩むためにここまでしてくれたことが嬉しく、たまらなく愛おしい。
お礼の顎を軽くあげ唇を重ねる。
目を白黒させて、されるがままになっていたお礼が、急に生野を突き飛ばした。
「ば、馬鹿かお前は。こんな時に」
彼から顔を背け、大股で歩きだす。
「皆が待っていると言ったじゃないか。ぐずぐずするんじゃないよ」
元気を取り戻し、立ち去るお礼の後ろを、八風が尾をちぎれんばかりに振りつつ、ついて行く。
生野は眩しそうにその背中を見つめ、先ほどお礼がやったように顔を叩くと彼女らの後を追って歩き出した。
―――――
「すまぬな、萩。もうお前の相手もしてやれぬというのに」
大量の水をその下腹部に詰めなおした犬川太助は、小田原付近の森の中で、優しく愛馬の背を撫でる。
この体型になってしまっては、萩の背で揺られる以外に術が無くなる。
首筋を撫でてやることも、甘えさせてやることもできぬ。
この巨大な体躯を持つ牝馬と、奇跡のような出会いを果たしてから、まだひと月。まさか自分の死への旅立ちに付き合ってくれるとは思ってもみなかった。当初の予定では、太助は犬江安兵衛とともに荷台の上の人となる予定であったのだから。
太助が萩と出会った日。それは太助が生まれて初めて八犬家にあてがわれた屋敷、隔離された土地から、外へと抜け出せた記念すべき日でもある。
太助は祖父と父。そして二番目の兄が乗り越えられなかった壁を越えた。
犬川家に与えられる呪いの力を存分に活用するための処置。四肢の筋肉のほとんどを陰茎に移すという恐るべき処置。もちろんその処置を施したのは犬坂生野。
まず、命の保護もかね、臍の下、陰茎の根元のやや上辺りに、『義』の半珠を埋め込まれる。この半珠の呪いで、下腹部に大量の水を溜めておける下地をつくり、それから四肢の筋肉を丁寧に切り取る。先の三人はこの時点で死んだ。
この処置の後、表面の皮を剥ぎとった陰茎にかぶせるように継ぎ足していく。当然ながら、それだけでこの鉄製の銃砲身の外装を取りつけられるような大きさにはならないし、ただ継ぎ足しただけの筋肉を自由自在に動かすことなどできはしない。そこで今度は、睾丸と陰茎のつけ根に『是』の半珠を埋め込む。筋肉を継ぎ足した陰茎は膨張し、腕や足と変わらぬように動かせるにいたった。
三人の犠牲の果てにこの体を得た太助は、久留里城の義堯の監視の目が緩んだひと月前、初めて屋敷と敷地の外にでたのである。
萩と出会ったのは、そのとき。あのときの衝撃を、太助はいまでも忘れない。
初めて敷地の外に出ることのできた喜びは、近いうちに死ぬのだという恐怖など簡単に吹き飛ばし、太助は意味もなく走った。股間は重いし、四肢に力も入らないので、何度も転んだけれど、そんなことはまったく気にならなかった。夢中で走るうちに、太助は外海が一望できる高台の開けた場所に出た。
萩はそこにいたのである。
太助は言葉を失った。もうこれ以上感動することはないというぐらい喜びに満ちていたはずなのに、萩を見た感動は、太助が自分で想像していた感情の器など軽く壊してみせる。
里見の見張りが使用していたから、馬を初めて見たわけではない。
だが、萩はこれまで見たどの馬よりも大きく綺麗だった。燃えるような赤い毛並みは、いままさに昇ろうとしていた太陽を背負い、まるで萩自身も太陽の一部であるかのように輝く。
周りに他の馬の姿は見えない。萩はただ一頭で海を見ている。
萩が、萩に見惚れて立ちつくしていた太助に気がついた。萩は逃げるどころか、悠然と太助に歩み寄る。
萩は太助の前にまで来て、鼻づらを陰茎にこすりつけるように匂いを嗅いだ。あまりの突然のことに太助は身動きひとつできなかった。
萩がおもむろにくるりと向きをかえた。
萩のたくましい後脚を見て、太助は血の気が引いた。蹴られると思ったのだ。
だが、そうはならなかった。萩は尾を持ち上げ、後脚を軽く開く。そこで太助は萩が雌であることにようやく気がつく。
萩が尿を出した。尿は地面を激しく叩き、跳ねあがったものが太助の顔にもかかる。太助はその尿の匂いごと大きく息を吸い込み、誘われるように、自然にそそりたった陰茎を支えながら前に出た。
それから、太助と萩の逢瀬は始まった。毎日抜け出せたわけではない。日にちにすればわずか七日。それでも、太助がそこに行くと萩は必ずそこにいた。返事が返ってくる訳ではなかったが、太助は萩に自分のこと、家族のこと、八犬士のことなど、思いつく限りのことを話して聞かせる。
そして、銃砲身を陰茎に取りつける前夜。自力で動けなくなることを悟った太助は、萩に別れを告げようと高台に走る。きっと今日もいてくれているに違いないと太助は信じていた。
だが、その期待は裏切られる。萩はいなかったのだ。必死になって辺りを探したが、他の馬の影すら見つけられぬ。
悲しくなって泣きたくなったが、意地で飲み込んだ。
きっと萩との時間は、死にゆく自分を憐れんだ天が、自分に示してくれた憐みであったのだろう。そう思うことにした。
出陣の日。水を詰め込む前の太助は、他の八犬士に支えられ、それほど大きくない船に乗せられて海を渡り相模に上陸する。
そこに萩がいた。たくさんの野生馬を従えた萩がいた。見間違えるはずなどない。体のいたる所に傷を負ってはいたけれど、美しさはそのままに、貫録だけを増して、萩は太助を待っていた。
太助の涙が止まらなくなる。
萩が自分とともに、命をかけて戦ってくれようとしていることを感じ取ったからだ。
それでもやはり萩は死なせられぬ。
人と馬。子を残せる訳ではない。だが心は残せよう。
この戦に勝ったとしても、八犬家が救われるとは限らない。このまま滅びる道しかないのかもしれない。だが、八犬家とかかわりのない萩がこの戦に生き残ってくれたなら、自分が生きた証となろう。語り継がれるわけでもない、自分が死に時が経てば、萩は自分のことを忘れるかもしれない。例えそうだとしても、共に駆けた事実は消えはしないのだ。
「さて、萩。俺の四肢の腐りは、すでに俺の心の臓の間近にまできている。お主にまたがり、共に駆けるのもこれが最後になろう」
萩が短く悲しそうにいななく。
「泣くな萩よ。俺とお前の心はすでにひとつ。お前の背が軽うなっても、俺はお前の背におるぞ」
力なく首を下げていた萩が、やがて覚悟を決めたように首をあげ一際高くいななく。すると、今まで二人に遠慮していたのか、この地で萩が従えた野生馬たちが、木々の合間からぞろぞろと姿を現し集まってくる。
「よし。では日暮れまで、小田原の周りを派手に走り回ってくれ。陽が沈みかけたら、最後の『呪言』で小田原に斬りこむかからのう」
太助の言葉を合図に、野生馬達が萩を先頭にゆっくりと駆け出す。
小田原を、混沌の渦に巻き込むために。