(一)
永禄十年白露(現代の九月初頭頃)。関東最大の勢力である北条軍は、房総半島の支配権を手にすべく、上総へと侵攻を開始した。
第一の目的は、昨年に里見家に奪われた佐貫城の再奪取である。外海と内海の出入りぐちである、房総半島と三浦半島がもっとも接近するこの地域に建てられた佐貫城は、内海の支配権を確立するうえで、ぜひとも手中に収めておきたい城である。
そこで北条氏政は、佐貫城にほど近い三船山に砦を築かせた。誘いだされるようにして、里見義弘がこの砦に攻撃をくわえると、氏政自らが小田原を出陣。里見家側であった父大田資正と弟の梶原政景を放逐し、新たに武蔵国岩付城主となっていた大田氏資を筆頭とする、北条家従属の豪族たちと合流し三船山砦へとはいる。
さらに武蔵玉縄城の主にして、三浦水軍の総帥でもある北条綱成には、軍舟二百余艘を率いらせ里見水軍の動きを封じさせ、弟の氏照には、義弘の父義堯の居城である久留里城の牽制にむかわせた。
対する義弘は、正木憲時と共に三船山近くに陣をかまえ、北条軍迎撃の体勢を整える。
両軍が三船山で激突することになる日の前日。月も星も厚い雲に隠れた闇の帳のなか、鎌倉をぬけ三浦半島を進む一団があった。少しでも目立たぬように、ごくわずかの松明だけを灯して、静かに速やかに歩みを進める。
集団をまとめている数名の騎馬武者は、今朝早くに小田原を出立した。彼らが歩みを進めるたびに、十名程度の武装集団が進行に加わり、あと一刻も進めば対岸に房総半島が望める頃には、二百人規模の集団になっていた。しかも、全員が武具を装備した武装集団である。最後尾には物資を積んだ荷車までもが続いている。
北条の隠されたもう一つの別働隊。この部隊の存在は氏政さえ知らぬ。氏政の父氏康の裁量によって手配された部隊であった。わずかな光源を頼りにしているにも関わらず、つまずく者すら出ないのは、この軍が事前に準備されていたことを物語っている。
これが北条氏康である。本人はすでに隠居し、周辺国の警戒は氏政の動きにそそがれる。
氏康はまさにこれを利用する。
現当主である氏政が自らを総大将とし、周囲の土豪を引き連れ上総へと侵攻。さらには、一族をあらゆる形で参戦させ、打てる手はすべて打ったと敵も味方も考える。いや、氏政自身はまさにそのつもりであったろう。
ここで動くのが、ここで動けるのが氏康である。あまたの困難を乗り越え、関東進出を推し進めてきたのは伊達ではない。内海にはすでに水軍頭領の綱成がいる。里見水軍の目は、そちらに釘づけになっているだろう。そのあいだに夜陰にまぎれ、漁船で戦線を大きく避けて内海を渡らせ、佐貫城の背後をつかせる。動きを事前に察知されぬよう、兵を一度には集めず、行軍途中で徐々に加わらせるなど工夫をこらす。さらに念には念をいれ、軍勢を率いらせるのは、小田原から姿を消しても噂にならないほど地味で無名の塩沢勘兵衛という壮年の武士。
しかしながら彼は、数十年ものあいだ氏康の命を着実にこなしてきた男である。
氏康はこれらのことを事前に準備していた。現当主の氏政にさえ気づかせることなく。
あと三里ほども進めば漁船を集めさせている海岸線に出る。そんななか、集団からただ一つ離れたものがある。
白い影だ。
全員が脇目もふらず前へ前へと進み、逆方向へ向かうその白い影に、気がつく者はいない。
白い影は集団から離れると反転し、集団に気づかれぬように大きく迂回しつつ、瞬く間に彼らを追い越していく。曇天がわずかにわれ、間髪入れずに差し込んできた月光が、白い影の姿をはっきりと映しだした。
犬だ。白い毛並みの立派な体躯の犬が、懸命に大地を蹴り白光と化す。
集団から離れ四半時ほど走ったあたりで、犬がひとつ吠える。敬愛する主人の匂いを感じ取ったからだ。主人も犬の声に気づいたらしく、闇の中で手をあげる臭いがした。犬の足がさらに早まる。一目散に主人のもとへとたどりついた犬は、激しく尾を振り主人に体をぶつけるようにして飛びついた。飛びつかれた主人は、大きな犬の体を支えきれず尻餅をつく。
主人の顔が月光に照らされる。美しい青年だった。
彼の名は犬坂生野種智。約80年前に里見家の危機を救った英雄里見八犬士の子孫のひとりである。
白い犬は苦笑する主人の美しい顔をなめ回そうとしたが、生野が首をのけぞらせたので、首に巻かれた黒布と顎先を舐めるにとどまった。
「こんなにも早く八風が戻ったとなると、海岸に集められておった漁船は、軍勢をこちらから送るためのものか」
生野は、ようやく彼の前に腰を落ち着けた八風の口元に、水の入った竹筒をあてがいつつ、後ろから投げかけられた言葉にうなずく。
生野の後方にいた巨馬に跨がる男も頷きかえす。奇怪な身体の男だった。手足は細いのに、腹だけは異様にふくれている。恐らくこの男の足の細さでは、この男の均衡の悪い身体を支えて歩くことはおろか、立っていることさえ難しい。だからこその騎乗であろう。
奇怪な身体をしているのはこの男だけではなかった。
瞼を閉じたしゃれこうべのような翁、荷車に座る金属の足を持つ男など、計六人がまだ闇に隠れている軍勢をにらんでいる。
生野を含めたこの八人こそが、現在の里見八犬士。
犬坂生野。
犬山狂節。
犬川太助。
犬江安兵衛。
犬塚吉乃。
犬田小三治。
犬村家のお礼。
犬飼家のお信磨。
「それでどうする? ここで奴らを待つのか? それとも船を焼きすてるか?」
犬川太助が尋ねる。この男の四肢と腹については先程述べた。しかしながら、この男。奇怪な箇所がもうひとつある。股間だ。
股間から伸びた白の褌が馬の首元まで伸びており、下に何があるのか根元から褌の先端に向かって、細長く丸みを帯びた膨らみができている。陰茎と考えるにはあまりに長く、馬の首元に当たる先端の膨らみは、成人男性の拳をふたつあわせたほどの大きさがある。
彼の問いに、生野は立ち上がり、北条軍が進んできているであろう方角を指さした。
「おう。こちらから仕掛けるか。そうこなくてはな。萩がこやつらを集めてくれた甲斐がないというものよ」
不敵に笑い、愛馬の体を優しくさすりながら後方の闇に目を向ける。
視認することは出来ないが、たくさんの息遣いが闇の中にあった。
生野が八風を促がし、前方に歩き出す。他の五犬士があわせて動き出すが、まったく動かぬ者が二人いる。
「生野、暫し待て」
気がついた犬田小三治が、大声で呼び止める。明らかに顔の形がおかしい男だ。丸刈りの頭はともかく、鼻から下、ようするに口が異様に大きいのだ。頬の両端は肩幅近くまで達し、口も頬の両端ぎりぎりまで裂けている。
彼は動かないふたりのうち、ぼーっと空を見上げる、大木の如き両腕を持つ犬塚吉乃の後ろに回り込み、その尻をおもいきり蹴りあげた。
それでも吉乃は反応することなく、空を見あげ続けている。
「吉乃! しっかりしやがれ!」
小三治が怒鳴りつけながらもう一度蹴ると、ようやく吉乃の首が動く。
「んあ。ど、どうじた?」
間の抜けた声がその口からもれる。
「動くぞ。安兵衛の荷車を引いて生野についていくんだ」
「お、おう。わがっだ」
彼は先程までの呆けた様子とはうってかわって、きびきびとした動作で、安兵衛が乗せられた荷車に駆け寄る。
「すまんな、吉乃」
「い、いいで、いいで。がるい、がるい」
人懐っこい笑みを浮かべて荷車を引く吉乃の背中に、石臼を抱えた安兵衛は頭をさげた。視線は伸ばした自身の足に注がれる。安兵衛の両足は生身ではない。明らかに鉄。見ただけでも感じる重量感は、その足が飾りであることを主張しているかのようだ。事実、両足は伸ばされたまま動かず、安兵衛は荷車の上に座り、石臼を抱きしめるのみだ。
荷車を動き始めたのを確認した生野は、再び歩き始める。応えるように太助の愛馬である萩が短くいななく。八犬士の背後の闇がゆれた。夜の帳のなかで、ひっそりと息を潜めていた集団が動きだす。
馬の群れだ。馬具をつけていないところをみると野生馬の群れであろう。少なく見積もっても百頭近くはいる。その群れが八犬士に続く。
牙持たぬ獣の群れは、それほどゆかぬうちに今宵の獲物を視認した。
北条の軍勢が、彼らには気づかず行軍してくる。相手は武具という名の強力な牙をもつ集団。
普通に考えれば、八人と一匹と百頭程度の野生馬ごときでどうにかできる相手ではない。彼らがこの軍勢の脅威を里見家からそらすためには、ここから少し離れた海岸線に集められた、渡海用の船を焼き払うほうが、はるかに現実的。
だが彼らはそうはしない。する訳にはいかない。
彼らの望みは、間接的に里見家の勝利に貢献することではなかった。判断する者によっていくらでも価値を変えるような脆弱な手柄では足りない。
誰の目にも明らかで、異論の挟みようのない武勲が彼らはほしかった。一族を現在の苦境から救う確実な一手が。
敵を打ち滅ぼす喜びなどいらぬ。勝利による名誉などいらぬ。声などいらぬ。命もいらぬ。死して葬られる墓さえいらぬ。欲しいものはただ一つ。一族の明るい未来のみ。
生野は高々と上げた右腕を、力強く振りおろした。