怪談話
これは、僕が実際に体験した出来事である。
木々の緑が映え、澄んだオホーツクブルーの青空に浮かぶ灼熱の太陽は、僕たちを焦がすように眩しく照らす。
祖先たちが帰ってくるとされるお盆を前にした夏真っ盛りの北見は気温が連日30℃を超えていた。
僕は、萌ちゃんと一緒に近隣の温根湯までダットサントラックで出かけて、ソフトクリームを食べに行った。北見市から車で四十分ほどの温根湯地区には温泉街と道の駅があり、観光客に向けての美味しいソフトクリームやジェラートがたくさんある。
僕はメロン味のソフト、萌ちゃんにはカップに入ったイチゴとミルクティ味のミックスジェラートを買った。ジェラートを萌ちゃんのカップホルダーに乗せ、僕は運転しながらソフトクリームを舐めた。
「そういえば、萌ちゃん。毎日のように僕と居るけど、お父さんやお母さんは心配しないかい?」
「ママとは会えなくなったけど、寂しくなんかないぽんよ」愛嬌よく、明るく快活に返してくる。
「そっか。なら、いいんだ。ほら、ジェラートが溶けちゃうよ」
エアコンの温度を最低の18℃にしても、窓ガラスから差し込む太陽の熱は相当なもので、アイスはみるみる溶けてしまう。
ちょうど北見へ戻ろうと国道39号線を走り、留辺蘂を越えたあたりの直線で、後方から甲高いクラクションが連続で聞こえた。
僕は、いたって普通に安全運転で走行している。
「む、なんだぽん?」
萌ちゃんは驚きに振り返る。小顔効果もあるという前髪パッツンの両サイドにあるツノが大きく揺れる。
何事かとサイドミラーを覗き込めば、もの凄い勢いで迫りくる、赤いフェラーリ。
列になって走行していた何台もの車両にクラクションを鳴らしながら乱暴に追い越し、僕の後ろにつく。
やれやれ、またかよ、と思ったのも束の間、急加速して僕のダットサントラックも我が物顔で追い越した。助手席には、以前出会ったときと同じ女性が乗っていた。
トラブルや厄災は、音すら立てずに忍び寄ってくるものと思っていたけれど、面倒で厄介な人は突然大きく騒ぎ立て後ろからやってくるのかな?
数百メートル先では、この暑い最中、アスファルトの道路工事が行われていて、片側交互通行に規制されていた。 交通整理をしている人に赤い旗を振られ、あえなく止まれと指示されたフェラーリは、急ブレーキでリアを滑らせながら、ギリギリのところで停車する。
赤旗を振っていた男性は、寸でのところだった為か、身体をのけぞらせて驚いていた。
また何かしてくるかもしれない、危機管理というリスクマネージメントを最優先に考えた僕は、フェラーリと少しだけ距離を空ける。
けれど、なんだかイヤな予感がする。
なんだろなー、なんだろうなー、なぜか鳥肌が止まらない。
僕の車が停車した途端、後ろのボディをコンと叩かれた。首を振ると、今度は運転席の窓ガラスをコンコン、『徐行』と描かれた旗を丸めて、
「おう、廣嶋じゃねえか」
と、ヘルメットを上げながら滴る汗まみれで笑みを浮かべる作業員。思わず、窓を開けると熱風がどうっと車内に押し寄せてくる。
「千葉ちゃん」
僕の幼なじみで仲の良い友人だった。
この現場で働いていたのだろう。千葉ちゃんは、僕の店にもよく顔を出してくれる。
「なんだ、メイドも一緒か」
「千葉っち! お仕事ぽんか?」
隣ではしゃぐ萌ちゃんは、千葉ちゃんと面識がある。もっとも千葉ちゃんは土木作業員になる前には、網走で十五年務めていた。
「仕事じゃなかったら、こんなクソ暑いところに突っ立ってねえだろ。すまねえが、廣嶋。ここで少し待っててくれ」
そそくさと前方へ駆けていく。
なんだかイヤな予感がする。イヤだなー、怖いなー、こんなに外は暑いのに、妙な悪寒さえする。
ブレーキペダルをゆっくり緩め、千葉ちゃんの後をそろりと追ってみる。必然、アクセルを空ぶかししてイキがっているフェラーリとの距離は縮まる。
千葉ちゃんは路肩側に回り、左ハンドルのフェラーリの窓を丸めた旗で強く叩いた。
「手前ェ、コラ! ぶっ殺されてえのか」
窓を開けていた為に、千葉ちゃんの怒鳴り声が丸聞こえだ。僕はブレーキを踏み、頭は抱えたくなった。
イヤな予感的中。
「降りてこい、コノヤロウッ!」
運転手のホスト崩れのような男も難癖をつけられ、売られたケンカは買うつもりなのか、颯爽とドアを開け、外に出てきて、千葉ちゃんと対峙する。が、
驚きの表情で、腰砕けの姿勢のまま固まっている。
「な、な、なんですか、なんか文句でも?」
「あるに決まってんだろ」
千葉ちゃんは持っていた旗を広げて見せる。「手前ェの目ん玉はどこについてんだ、ア?」
「じょこう? だから、ななな、なんですか?」
「俺の言うことが聞けねえってのか、小僧。徐行なんだから20キロ以下で走れよ。女連れで調子ん乗って、ぶっ飛ばしてんじゃねえぞコラ」
千葉ちゃんの低い声の怒号と迫力ある威圧に、みるみる圧され、たじたじなのはホスト崩れだった。
そりゃあ、そうだ。千葉ちゃんには誰だって敵う訳がない。
「……う、うるせえなァ、もう」と、
顎を突き出し、一応はイキがってみせる。
「あァ? なんつったんだ、手前ェ」
千葉ちゃんは眉根をよせ、首を少し傾け顔を近づける。「葵、どけ」
ホスト崩れは、なぜか着ていたブランドの銘柄のロゴが入ったTシャツを脱ぎ、「や、やんのかよ、おっさん」と意気込む。痩せ細り、肌が女性のように白い彼の肩には、天使がハートを矢で射貫く小さなタトゥーがあった。
それを見て千葉ちゃんは、長袖の作業着を素早く脱ぎ、地面に投げ捨てる。千葉ちゃんのインナーは半袖だったが、その裾から手首近くまでは七分袖の服を着ているようだった。腕の太さと堅く鍛えあげられた筋肉は比にならない。
「上等だな、小僧」
ぎょっとする表情になったホスト崩れは、「……オ、オレが、なんかしました?」
「したに決まってんだろ、コノヤロウ」
おもむろに千葉ちゃんは、小指を立てて顔の前に差し出す。「手前ェが俺の言うことも聞かずに、徐行しねえでぶっ飛ばしてやがるから、見てみろ。指がもげちまったじゃねえか」
「……へ?」
「へ、じゃねえんだよ。どうしてくれるんだって聞いてんだ、コラ」
千葉ちゃんの小指は、第一関節から先が元々欠けている。とはいっても、先天性のものではなく、切り落とされたものではあるけれど。
道路工事をしている人々からも、『千葉、何やってんだ! やめろ!』と声がかかる。
「……オ、オレを誰だか、知って、るんすか?」
頬を歪ませビビりながらも、ホスト崩れは抵抗する。
「知るか。手前ェは俺を誰だか知っててアホみてえにおだってんのか、ア?」
身体を横にずらし舌打ちをして「葵、邪魔すんじゃねえよ」と、睨みつける。
お分かりいただけただろうか?
ハチャメチャで荒くれ者のような言動と言いがかり、七分袖にまで肌が染まった刺青、指の欠損、網走での十五年に渡るお務め。今でこそ土木作業員として働いているが、僕と仲が良い友達である千葉ちゃんは、刑務所にも入ったことがある元暴力団組員。元ヤクザなのだ。
僕は、怖いなー、怖いなーと思いながらも、どうなるのかな、どうなるのかなァ、と心のどこかでくすくすと面白がっていた。
「む! あれは、みそ汁王子だぽん」
車の中で成り行きを見ていた萌ちゃんが声をあげた。
「みそ汁王子? なんだい、それ」
「ヒロっち、知らないぽんか?」
いたずらな視線を向ける。「今、話題になってるぽん。ネット通販で『フルーティみそ汁』っていうのが爆発的に売れてるぽん」
僕は思わず、吹き出しそうになった。「フルーティみそ汁? なにそれ、あはは」
ツインテールの萌ちゃんが身を乗り出してくる。「栄養成分が沢山入ってて飲みやすくて、健康にいいって評判らしいぽん」
「胡散臭いなァ。そもそも、みそ汁が飲みやすいとか、栄養成分がたくさんとかって何なんだよ」
「東京に本社があるぽん。年商一〇〇億円だって。で、みそ汁王子は、そこの社長さんらしいぽん」
「へえ。萌ちゃん、よく知ってるね」
「萌は、なんでも知ってるぽん! にひひ」
「けど、そんな人が北見なんかに、なんで居るんだろ?」
「むむ! 千葉っち、ピンチだぽん!」
と、前方で揉めているふたりを指差した。
千葉ちゃんは、みそ汁王子に胸倉を掴まれていた。
窮鼠猫を噛む、追い込まれてやけくそになったのかみそ汁王子は殴りかかろうと拳を握り、大きく振りかぶった。 千葉ちゃんはあえて、ポケットに手を突っ込んで何をしようともしない。
お気付きだろうか?
そこは千葉ちゃん、大人で元ヤクザ。ケンカのような揉め事は、どのように対処すればいいかを把握し熟知している。こういった場合には、先に手を出せば負けなのだ。こちらに大義名分ができる訳だし、正当防衛を主張することだってできる。
いいや、そこではなく、千葉ちゃんの後ろ。
千葉ちゃんの頭をぽかぽかと叩く素振りをしたり、ふたりの間をいたずらに遮ったり、僕の方に向かっては両手でかわいらしく手を振る人が見えた。
首から上がない、顔のない、千葉ちゃんが付き合っていた彼女の葵ちゃんがいる。
そんなことにも全く動じず微動だにもしていない千葉ちゃんは、なすがままで殴られるのを待っている。と思いきや、
反射的になのか、思い切り相手の腹を蹴った。
いとも簡単に、紙きれか暖簾のよう勢いよく吹っ飛ばされたみそ汁王子は、開いていた車の運転席に転がってしまう。
「やっちゃうのかよ……」
思わず天を仰いだ僕は、声に出してツッコんだ。
ちょうどその時、反対車線の車列が途切れ、轢かれそうになった交通整理の作業員がカーレースのスタートフラッグのように白旗を振り、慌てて進めと指示を出す。
みそ汁王子は、しめたとばかりにドアを勢いよく閉め、タイヤを鳴らして、飛んでいくように逃げていった。
僕も白い旗に倣い、ゆっくり車を進めながら、萌ちゃんが乗る助手席の窓を開けた。
「千葉ちゃん、葵ちゃん、またね」
身を乗り出し、ハンドルを握りながら声をかけると、地べたから上着の作業着の埃を払いながら取り上げ、
「おう」徐行と描かれた旗を広げ、笑顔をみせてくれた。
千葉ちゃんの後ろでは葵ちゃんも、こちらにバイバイと大きく手を振ってくれる。
小さくなっていく千葉ちゃんと葵ちゃんを名残惜しんでルームミラーを覗き込むと、駆け寄ってきた上司のような人に、ヘルメット越しの頭をぽかりと叩かれていた。
世の中には、不可思議なことや奇妙な出来事がたくさん溢れている。
読んでいただき、ありがとうございます!