また会う日まで
◆◆◆◆
龍神の咆哮が遠く響く。
鏡面のようだった水面は途端にざわめき、激しく波立ったかと思えば、水面にはぶわりと大きな穴が開き、そこから深くに沈んで虫のように蠢くだけだった人や魔物が一斉に吐き出され始めた。
吐き出されたそれらは、セシルが創り出した新たな萌葱色の光の流れへと次々に吸い込まれて、遥か空高くへと流されてゆく。
「「せき止められていた流れが戻ってゆく。正しき形、新たな世界の理に導かれ」」
獣人族や洞人族、森人族に基人族、魔物も全てが等しく、優しい萌葱色の光に包まれて天へと昇っていく。
カジムの呪いにより永劫の死の苦しみを与えられていた彼等も、今やその苦しみから解放されて誰もが晴れやかな顔になっていた。
萌葱色の道を見上げる双頭の龍は、そんな中に見覚えのある姿を見つけた。
顔の無い男。顔が有るはずの場所を布で隠している、法衣を纏った若い男。
賢者マギだ。
「「お前は、ここまで見えていたのだな」」
返事は無い。
ただ、顔を持たない彼がふと微笑んだように、双頭の龍には見えた。
彼の魂もまた、萌葱色の光に導かれて青空へと飛んでゆく。
セシルが導く萌葱色の流れは更に大きく速くなり、穴から溢れ出した魂達の先端は遥か天上を流れる萌葱色の螺旋へと到達しようとしていた。
元からあった螺旋と新たな流れが絡み合い、一瞬だけ大きく捻れたかと思えば二つの流れは二重螺旋構造となって1つの大きな流れへと変化する。
あとは、全ての魂があの流れへと到達すれば新たな世界の理は完全なものとなる。
そうすれば、この生と死の狭間の世界に囚われ続けていた己もまたこの世界の大いなる流れへと還るのだろう。結局もとの世界には戻れなかったが、いつかの未来で平和な世界になったこの世に新しく生を受けられるなら、それも良いだろうと双頭の龍は静かに想う。
「壊された魂の輪廻は修復した。以前よりも強固だ。今後、カジムのような者がまた現れたとしても壊されることは無いだろうと、思う」
「「ああ……だが、その様子はまだやる事が残っていそうだな」」
「囚われていた魂の中に、彼女の姿だけが見えなかった。きっとこの空間のどこかに残っている」
彼女とはニニィ・エレオノーラの事かと双頭の龍は考えた。賢者マギの心臓の片割れを手にして不死の呪いをかけられた女。
確かに、魂の気配をさきほどから感じている。カジムとの戦いの最中、不死の呪いの終わりが来たのかと女の不幸を憐れむ。
しかし、奇妙な事が1つあった。
「「不思議だ。あと二つ……かすかな魂の気配を感じる」」
そう言うと、理を宿す龍は瞳を閉じて静かに空を見上げた。
その頭上に輝く幾何学的な模様を描く光輪がこの空間に虹色の光の波を何度にも渡って放ち、理を宿す龍はその光によって何者かの存在を知覚しているようだった。
「1つは輪廻へと還るべき魂から……もう1つは現世から。現世から彼女を引き留めている気配には、覚えがある。だがもう1つは……彼女を押し返そうとしている?」
「「……強情な魂も居たものだ、想いの力だけで大いなる流れへと還らずにいたとは。ニニィ・エレオノーラを迎えにゆこうか、もう1つの魂は私が共に連れてゆく」」
狭間の世界を2頭の龍は飛んでゆく。
どこまでも、あるのは切れ目の見えない鏡のような水面と青空ばかりだ。
当然、目印になるようなものも無い。
しかし、理を宿す龍はそこに道が存在しているかのように迷いなく飛び、やがてそれに辿り着いた。
ニニィの魂は、もはや人の姿をとっていなかった。
言うなれば、光球。
白く優しい光を放ち続ける球体が、何もない場所にぽつりと浮かんでいる。
「彼女は、まだ選んでいるんだ」
その光球に近付いた理を宿す龍は、ぽつりと呟いた。
選ぶ、死者として大いなる流れへと還るのか、現世からの魂に導かれて戻るのか。
「「お前は、ニニィ・エレオノーラに生きて欲しいのだろう」」
「……待とうと思う」
「「神らしく、多少傲慢であっても良いものを」」
その場に座り込んだ理を宿す龍を見て、双頭の龍もまた座り込む。
ニニィ・エレオノーラが己の進むべき道を決めるまで、自分は手を出さずに待つと言うらしい。
双頭の龍はそんな彼の姿にもどかしさを覚えたが、しかし同時にそんな人間臭い仕草に好ましさも覚えていた。
「「(世界の理は、己を手にしても歪むことのない強い魂を自ら選んだのだな)」」
理を宿す龍の青い瞳の中で、光球は静かに揺らめいていた。
◆◆◆◆◆◆◆
木漏れ日の中、ただ石に両手をついてそこに刻まれた文字を見つめていた。
溢れ出る涙は止まることもなく、ぽたぽたと落ちて石の表面にまだらの模様を描く。
泣いているのに、こんなにも胸が苦しいのに、不思議と喉の奥からは何の音も漏れては来ない。
静かに涙だけが溢れてくる。
黄金色の毛を持つ子狐はまだ離れていかないようで、すぐそばからずっと気配を感じている。
「私は結局、何もできなかった」
遠い日の記憶。
カスティリオラ伯爵家の屋敷は、貴族が政治を行う体制に不満を抱いていた人々によって襲撃を受け、抵抗も虚しく焼け落ちた。
ニーベルング家も含めたカスティリオラ伯爵家の兵が負けるという異常事態。あの頃の自分は気づきもしていなかったが、間違いなく伯爵家を襲った民の背後には権力を持つ何者かの影があったのだろう。
やけに質の良い武具を纏った彼等を相手に、自分もまた伯爵家を守る騎士の1人として戦っていた。
しかし、多勢に無勢。いくら精鋭揃いとはいえ数に限りのある伯爵家の兵に対して、民はいくら倒そうとも次から次へと現れては獣のごとく襲いかかってくる。
いよいよ前線が持ち堪えられそうに無いと言う時になって、自分は父から1つの命令を受けた。
お前はエレオノーラお嬢様だけでもこの屋敷から助け出して逃げろと。
己だけここから逃げ出せと言うのかと抵抗する気持ちもあったが、エレオノーラを守れと言われれば迷いは消えた。
彼女を助けるために1人、静まり返った屋敷を駆けた。
――だが、既に手遅れだったのだ。
彼女の部屋に到着し、その扉を開いて絶句した。
壁に追い詰められた彼女の胸に、剣を突き立てている男の姿が月明かりに照らされていた。
正面から攻め込んできている民は囮に過ぎず、混乱の中で本命として精鋭を裏から忍び込ませて伯爵家の者を確実に殺す。そういう作戦だったらしい。
自分の姿をみとめて襲いかかってきた男の首をその場ではね、急いでエレオノーラのもとに駆け寄った。
素人の目から見ても、もう手の施しようがない致命傷だったと記憶している。ただ、微かにまだ息は残っていた。
「ニ……ニィ……」
暗がりの中、ぽつりと呟やかれた名を聞いて、彼女がもう助からない事など理解しているのに、即座に彼女を背負って屋敷から逃げ出した。
貴族は狙われている。
医者へ行きたくとも、街へ走ることなど出来ない。
暗闇においても、逃げる姿を目ざとく見つけてくる者も居る。
刺客に追われながらも、自然と足は屋敷の裏の森へと向かっていた。
刺客による追撃をかわす。
反撃の刃で上半身と下半身を泣き別れにしてやった。
暗がりから魔法による狙撃を受ける。
剣でそれを防ぎ、覚えたての光魔法で脳天を撃ち抜いた。
どれぐらいだろうか。逃げると殺すの繰り返しを続ける内に、やがて静寂が訪れる。
ふと森が開けて月明かりが木々の間から差し込んでいたそこで、背負っていた彼女をやっと降ろした。
「エレオノーラ、もう大丈夫だ。大丈夫だから、あとは私がなんとか治療を――」
彼女は、とうに息絶えていた。
光の失われた瞳が、ぼうっと虚空をみつめている。
なぜ最初から彼女を連れて逃げる選択が出来なかったのだ。正式な戦いの訓練も受けていないと、民を侮っていたから?
己もまた伯爵家を守るための戦いに参加すべきだと考えたから?
逃げるという判断が、あと少しでも早く取れていたのなら。
悔やんでも、悔やみきれなかった。
やがて夜が明ける。
息を潜めつつ戻ってきた伯爵家の屋敷は、襲撃をしてきた民に破壊しつくされ、その周りにはいくつもの死体を結びつけた棒が立てられていた。
カスティリオラ伯爵の死体、自分の父の死体に、兄弟達の死体。
自分よりも歳上とはいえ、まだ子供と言えるような年齢の兄弟も居たのに、その死体は完全に息絶えた後も恨みを込めて痛めつけられていたのか、どれも人の形を保てていなかった。
なぜ同じ人に対してこのような仕打ちが出来るのかという怒りと、結局誰も守ることが出来なかった無力感。
どうにか彼等も手厚く埋葬してやりたかったが、まだ辺りには警戒している人間の影が見えたので屋敷に近付くことも出来なかった。
結局、エレオノーラの遺体だけを森に埋葬し、その場で簡単な墓を作り、自分はその国から逃げ出していく事になる。
それからは、冒険者となって路銀を稼ぎつつ、目的もなくさまざまな国を転々とした。
女一人とはいえ、幸いなことに父からしっかりと叩き込まれた剣術と魔法の才はあったから、多少危うい目にあっても切り抜けて来られた。
自分が逃げ出してきたあの国が、結局周辺の国に滅ぼされる末路を辿ったと聞いたのはほんの数年後だ。
ちょうどその頃だ、風の噂に死者を蘇らせるという宝が、マギステアのどこかに眠っているという話を聞いた。
暗闇に差した一筋の光に思えた。
その宝さえあれば、エレオノーラを生き返らせられる。
それが、私が賢者の石を求めた理由。
「結局、無為に生きるだけの時間が長くなっただけだったねぇ……」
泣いているのに、悲しいのに、口からは自嘲的な笑いがこぼれた。
胸に揺れる紅い宝石は、己の愚かさの象徴。
エレオノーラを救えなかった自分へ、己の犯した間違いを忘れぬ為に、彼女の記憶が消えないように、いつからか彼女に呼ばれていた愛称と彼女の名をあわせ『ニニィ・エレオノーラ』を名乗るようになった。
孤独は嫌いだ。
上っ面では強がっている癖に、1人で夜空を眺めていると胸が苦しくなることもあった。
その癖、また誰かを失う事が怖くて人を遠ざけた。
また大切な人を作る資格も無いと、1人で居続けることを選んだ。
「……セシル」
ここではない何処かから来た、終わりの景色の彼。
彼と初めて会話をした時、少し嬉しかったのだ。
人でない姿をした彼は、心に作った壁の隙間をするりと抜けてきたように思えた。
小さい身体でも一生懸命に生きようとして、子供のように必死に知識を求めて、その姿を可愛らしくも感じていた。
彼が間に挟まることで、他人と関わる事への抵抗もいくらか薄れたような気がした。だから、人を助けるだなんて、らしくもない事を久しぶりにやろうと思ったのだ。
『ニニィ、帰りたい?』
唐突に、背後から声がした。
鈴の鳴るような声。
はっとして立ち上がり、後ろを振り返る。
少しだけ目線が高くなったような気がする。
振り返った先に、彼女は立っていた。
エレオノーラ・カスティリオラ。
生前の、清く美しいままの姿で。
「エレオノーラ……」
『うふふ、酷い顔。でも……やっぱり綺麗だわ』
なぜそう言って微笑みかけて来るのか、理解できない。
彼女の信頼を裏切ったのは、自分なのに。
「すまない、私は貴女を……どうか許さないでくれ……」
『許さないって、恨んでなんていないわよ、もう。最後までずっと、私を助けようとしてくれてた』
「で、でも私は……! あと少し、早く辿り着けていれば……!」
膝からふっと力が抜けてその場に崩れ落ちてしまう。喉の奥から漏れる声は落ち着きなく震えている。
消えることのない後悔は、ずっと胸の奥で燻っていた。
どれだけ謝ったところで全ては済んでしまった話。時間は巻き戻ったりなんてしない。
それに――
「私は、酷い奴なんだ。……そんな資格もないのに、彼等と出会って、安心してしまっていた。長い夢から覚めたように感じていた」
『……』
「時折、貴女を忘れそうになった……違う、苦しい想い出から逃げたがっていた。だから、いつか来る終わりの彼との出会いをずっと望んでいたのに……気が付けば、そんな終わりを望まなくなっていた」
自らの死を願い続けていたのに、ほんの少しの間に生きたいという気持ちが勝るようになってしまった。
1人で過ごしている内に、心が脆くなっていたのだろうか。誰かと共に過ごす温もりを思い出してから、未来のことを想うようになっていた。
ふと、頭が優しいぬくもりに包まれる。
彼女に抱きしめられていると気が付いたのは、数秒過ぎてから。
『大きくなったのに、まるで子供みたい』
「……」
『時間が止まっているのね……あの日からずっと』
彼女の細い指が頭に触れて、髪を撫でる。
母は自分が物心つく前にこの世を去っていた。
だから、母のぬくもりと言うものがどんなものなのか、自分にはわからない。
けれど今感じているこの温かさこそ、そう呼ぶべきものに近いのだろうと、ふと思った。
涙はあふれたまま、止まらない。
ただ優しく撫でられるたびに、胸の奥にある苦しさが抜けていくような感覚があった。
『ずっと伝えたかった。貴女が苦しむ必要なんて何も無いって。怖くて、訳が分からなくて、本当は泣き喚きたいくらいで……それでも、最期の時を貴女の背中で過ごせた事は幸せだった。薄らいでいく意識の中でも、伝わってくる貴女の温かさが安らぎを与えてくれた』
「…………幸せ?」
『そう、幸せ』
――本当に?
感情の波間に漂う思考は定まらず、疑問符のみがふと浮かぶ。
自分が選択を間違えた結果の死ではなかったのか。彼女は苦しかっただろうに、なぜ幸せだったなどと言うのか。
自分に都合の良い妄想を観ているのかと己を疑うが、今ここにいる彼女が妄想だとするならば尚更理解の出来ない事を話してくる彼女は異質であった。
既にこの身は終わりを迎えている。
死後の世界などというものは信じていなかったがしかし、並べられた事実はこの白昼夢の如き体験が現実であると示していた。
「エレオノーラ……」
『なぁに? ニニィ』
「ずっと、私を待っていてくれたのか?」
小さく、笑う声。
『他に何があるの?』
「……は、はは……私は何を聞いているんだろうな」
思わず恥ずかしさから顔が熱くなる。
彼女の柔らかな感触が離れていくと同時に、自分も涙をぬぐって立ち上がった。
視界の真ん中に彼女が立っている。
困ったような表情で、こちらを見あげている。
『でもね、一緒に次に行くために待ってたわけじゃないの』
「……違うのか?」
『ちゃんと生きてもらわないと。ね』
ふと足元に何かが触る感触があり、気が付いて視線をやると子狐が足にまとわりついていた。
それもまたこちらを見あげ、じっと視線を合わせてくる。
「……セレス?」
ふと、その子狐を見ていて浮かんできた名前をぽつりと呟く。
復讐に呑まれたあの男とは似ても似つかない、純粋な心を持つ少女。
何となく雰囲気が似ているように感じてその名前を口にしただけなのだが、それを聞いてなのか子狐は嬉しそうに目を大きくして尻尾を揺らしていた。
『ね、今度はちゃんと……守れてる』
ふとそう言った彼女へと子狐は振り返り、その足元まで歩いていくとそのまま彼女に抱きかかえられる。
彼女は子狐の柔らかな毛並みに頬を寄せ、瞼を閉じる。子狐もまた彼女の身体に寄り添って、互いの存在を確かめ合っているかのようだった。
『優しい子……心配で迎えに来ていたのね』
「私は、本当に戻って良いのだろうか」
『あら。今度は自分で手放すおつもり?』
「なっ……!違っ……そういう、つもりでは」
そう言うとまた彼女はくすくすと笑う。
どうしてそんな意地悪な事を言うのかと困りつつも、気が付けば涙は止まっていた。
彼女の腕から子狐はぴょんと跳び下りて、目の前までまた歩いてきてちょこんと座り込んだ。
『……なんてね。もう心は決まっているのでしょう?』
「…………ああ」
生きていて良いのなら、それを選びたい。
後ろめたさも有ったが、同時に彼女に背中を押されているようにも感じた。
紅い宝石を指先でなぞる。
自分は生き返ることが出来る、が……未だにこいつが居ると言う事はまともな命にはならないのだろう。しかし、悪いようにはならない確信が心のどこかにあった。
「エレオノーラは、どこへ行くんだ?」
『次へ』
「また会えるだろうか?」
『どうかしら。きっとその頃には貴女の事は忘れてしまっているだろうけれど』
そう言われると寂しい。
エレオノーラ・カスティリオラとはこれが本当に、永遠の別れとなる。
ただ、彼女の顔には暗い影など少しもなく、自分の心も今は穏やかだ。
「……わかった。なら、さようならエレオノーラ」
『ええ、また巡り会う日まで。私にも迎えが来たみたい』
彼女の姿が薄くなり光へと溶け始める。
ふと、その瞬間に大きな龍の影が過ぎてゆくのが見えた。今のが彼女の言う『迎え』なのだろう。
足元に居る子狐を見やれば、その頭の上にいつの間に現れたのか小さなイノリが乗っかってこちらを見あげていた。
「セレス、セシル。道案内を頼むよ」
歩き出した子狐を追って自分もまた何処かへと歩き始める。
歩き進めるうち、いつしか視界は眩い光に包まれてゆき、やがて意識と共に全てが白一色に塗り潰された。




