命ある限り
それから数日、目覚めてからの自分は思うように身体を動かせない日々が続いた。原因はおそらく衰弱といったものではなく、新しい身体がまだ完全には出来上がっていなかったから、だと思う。
ぐったりと重い身体はベッドから起き上がるのと、空きっ腹に優しいものとして出された粥を食べるだけで精一杯で、立ち上がることすら出来ない数日間だった。
しかし不思議と疲労感はなく、目が覚めている昼間の間は自分を助けてくれた彼と会話をしたり、あの不死身のエルフを相手に次はどうやって立ち向かうべきかなんてベッドに横たわったまま物思いに耽ったりしていた。
そんな中で、ふと気になって自分の身体が今どうなっているのかと己に向けて【個体検査】の魔法を使った事があった。
結果は、何も起きなかった。
今まで学んできた魔法の知識から想像するに、たぶん【個体検査】の魔法に組み込まれた『検査する対象を特定する』という魔法の一部分が自分の事をひとつの生物として認識できなかったのだろうと思う。
対象を細かく指定する魔法は、この世に存在し得ないものに対応することは出来ない。生物としての定義から離れたものは、ただのモノでしかないのだ。ただそこに『在る』だけ。
気が付けば、食事は多少取っているにもかかわらず、目覚めてからずっと一切の排泄が行われていない。底なしの器にひたすら水を注ぎ続けているように、エネルギーがそっくりそのままこの身体に蓄え続けられている。
失われた空腹感と共に訪れることのない満腹感、疲労感、数値では見えずとも体内で日に日に膨れ上がっていく魔力の流れ。
イノリだった頃も、イドラ・ヴァーグへとなった後も、人の姿を取っていた時も感じたことのないような身体の違和感。これが、暗い海の中で賢者マギが語っていた『この世を創り出した原初の一』に近い存在へと変化していく感覚なのだろう。
ほとんど確信に近いものだが、自分の身体は食事という行為をもう必要としていない。ただこの世に『在る』だけで思考し、動いている。これを生きていると呼んで良いのかすらあやしい。
「……立てるか?」
「はい。頂いたこの杖があれば、なんとか」
再び自分の足で立って歩けるようになったのは、目覚めてから四日目の昼ごろだった。
少し散歩でもしないかと、面倒を見てくれている老人が松葉杖を持ってきた。
何度もベッドからおりて立ち上がろうとしていた様子を見て必要だろうと思い、マギステア兵が怪我人の為に用意していたものを借りてきてくれたのだと言う。
まだ思うように身体は動かないが、杖に頼れば立ち上がって歩けるくらいには回復していた。
「んじゃ、村の案内してやる。他の村人の事なら心配せんでええ、あんたの身体の事はちゃんと説明してある」
そう言った彼のあとに続いて、家の外へと出た。
降り注ぐ陽射しがずいぶんと久し振りに感じられて、あたりの眩しさに思わず目を細くする。
家を出て初めて気が付いた事だが、老人の家は村でも少しはずれの場所に建っていたらしい。自分の事で何か
ただ、村は本当に海のすぐそばにあったようで、風に乗って流れてきた潮の香りに思わず振り返れば、波の音と共に青い海へと続く砂浜が見えた。
砂浜にはいくつも太い木の杭が打ち込まれていて、それぞれに小さな木の舟がいくつも縄で結び付けられている。
「気になるか。あの砂浜にあんたも倒れてたんだ。……そういえやぁ、なんにも流れ着いてねえのも久々だな」
「昨日も、あそこに?」
「おう。バケモンの死骸が一つな。ま、少ねえ方だわ。ハハ、死骸見て少ねえって言えるなんて慣れも怖えなぁ」
彼の何気ない言葉に、思いがけず自分が刺されたような気持ちになる。慣れが怖いのは自分もそうだった。最初は誰かの命を奪う事に対して強い嫌悪感があったのに、この世界の旅人の常識に慣らされている内に、目的のためならば人の命を奪うことに躊躇が無くなってしまった。
思い返した時に、あの時の自分の選択は正しかったのか悩むことはある。ただ、どれだけ悩んでも過ぎてしまった事は何も変えられないのだけど。
「僕もですよ、慣れも後悔も」
「……そういやあんたも兵士だったか」
身体をならすのに少し散歩をするだけの予定だったのに、妙に辛気臭い空気が漂い始めてしまった。
こんなままでは良くないと、ぶんぶん首を降って余計な思考を振り払う。今は、無理矢理にでも笑顔を。
「いえ……! すみません、何でもありません。それより村の案内の続きをお願いします」
「そうだな、行くか」
短く言葉を交わし、再び歩き始める。
軽く土を固めて作られただけの細い道を歩き、村の中へと。
村に入るよりも前から見えてはいたが、元々建っていた家々とはまた別に兵士や避難民が使っているのだろうテントが並んでいる。
そこには、東海岸での戦闘で奇跡的に破壊を免れたらしいヘカトンケイルも、二機だけシートを被せられた状態で鎮座していた。
村とテント群の境のあたり、広場のようになっているその場所ではマギステア軍と村人たち共同で炊き出しが行われているらしく、避難民の列が出来ている。
異形そのものの自分が村に入ってきたことに奇異の視線を向けてくる者はちらほら居たが、ほとんどは目先のことしか今は考えられないと言うようにせわしなく道を往来し、奇異の視線を向けてきていたものもすぐに興味を失ったようにまた自分のしていた事へと戻っていく。
「思ったよりも、人が多いですね」
「首都のマギスタリアがやられちまったからな。マギスタリアだけじゃねえ、主要な都市のほとんどが住めなくなって人が逃げてきた。この村だけじゃねえさ」
避難民の列を見て、ふとこぼした言葉に彼が反応する。
その返事に聞き捨てならない内容があり、思わずぎょっとしたような表情を彼に向けてしまった。
「マギスタリアが……!? では、マギステアは滅んでしまうのですか!?」
「それは、まだわからん。逃げてきた奴らの話によればマギスタリアの街は人が住めんようになった言ってたが、どうにも戦いそのものは終わってねえって言うんだ」
いったいどういう事なのかと首都マギスタリアがある方向の空へと視線を飛ばすが、さすがに距離が離れすぎているせいで何も見えるようなものは無い。
ただ、ムジカを相手に戦い続けられるような者がいるとしたらと考えた時、そして彼を相手に戦う理由があるような者はいったい誰かと考えた時、答えは自ずと浮かんできた。
「……ニニィ?」
セレスが安心して生きられる世界のため、そして僕の仇討ちの為に、あの空の向こうで今も戦っている?
この予想が当たっていて欲しくない。彼のやろうとしている事を止めなければいけないと頭では理解しているのに、その役目を彼女が負う事を許せないと心が脳に語りかけてくる。
彼女は強い。その強さゆえに何かを切り捨てる時に優先順位をつける時、自分を真っ先に切り捨てる対象に選ぶ。たとえ不死の身だとして痛みが失われたわけでもないのに、心臓を貫かれておいて真っ先に僕やセレスの心配をする。
情の深い彼女だから、きっと彼女は刺し違えても同じ不死身のムジカからその不死の力を奪い取ろうと考えるはず。
「行かなきゃ…」
自分の予想の真偽を確かめるために。
周りに不幸をばらまき続けているこの戦いに終止符を打つために。
今の自分の身体のことも忘れてフラフラとマギスタリアのある方角へと歩き出そうとして……がくりと急に脚から力が抜けてその場に転んでしまう。
「おい、何しとるんだあんた!急に様子がおかしくなったと思ったら転げやがって。まだ万全でもねえんだから無理すんな」
「……あ」
倒れた松葉杖。老人に支えられながらもう一度立ち上がる。
ふとした拍子で忘れてしまっていた、今の自分では戦いどころか普通の生活すらままならないのだと。
「大丈夫か……? まずかったら、いったん帰っても――」
「あ、おーいベン爺さん!そいつが話してた松葉杖が必要だって怪我人か?」
ふらふらと覚束ない足と松葉杖とで姿勢を直していたところに、突然声がかけられた。声の主の鎧を着込んだマギスタリア兵の男は炊き出しをやっていた広場の方からやってきて、僕の身体をまじまじと眺めてくる。
「おー……話には聞いてたけど本当に。いや申し訳ないな、ジロジロ見て」
「……貴方は?」
「リディ殿! いやはや今朝は失礼しましたな」
「なに、これくらい当たり前ですよ。民の盾となるだけでなく、助けとなるのもマギスタリア兵の務めですから」
そう言って彼は握りこぶしで自身の胸をトントンと叩くと、朗らかな笑顔を見せる。続いて、呆けている僕に向けて彼は広げた手を伸ばして握手を求めてきたので、こちらも空いている方の手を差し出して握手を返した。
「今聞こえてたと思うが、俺の名前はリディだ。よろしく」
「セシルと言います。こちらこそ、杖を貸して頂いたようでありがとうございます」
「ふむ……思ってたより、普通だな。まあなんだ、折角出てきたんだから少し寄っていかないか。ベン爺さんも、今日の昼食はまだ済ませていないでしょう」
彼の誘いに老人も乗り気なようで、言われるがままに炊き出しをしていた広場の方へと連れて行かれる。
広場には避難してきてからその場で拵えたのだろう、簡単なつくりの木のベンチと長テーブルがいくつか並んでいて、炊き出しを受け取った人々はみな並んで座り食事をとっている。
自分たちを連れてきたマギステア兵はその空いている場所を探して席を取るとしばし離れ、炊き出しをしていたマギステアの一人とわずかに言葉を交わすと3人分の食事を手にして戻ってきた。
「ほらよ、一人一つだ」
そう言って席についた彼から配られる。
1人分の量としてはあまり多くはない。硬いバゲットをスライスにしたものを一切れに、刻んだ野菜くずと干し肉を使った温かいスープ。
リディはさっそく食べ始め、硬いパンをスープに浸してふやかしながら噛み千切っている。
「さて……と、あんた流れ着いて死にかけてたところを拾ってもらったんだっけな。ここに来るまでの記憶はハッキリしてるのか?」
「……覚えてます」
「じゃあ話は早いな。セシル、お前どこで戦ってた?」
唐突に投げられた質問に面食らい、身体の動きが一瞬だけ止まる。
自分の正体については、まだ誰にも話していない。だから今この場に居る中で自分の事を知っている人達は、今の自分の見た目から身体が魔物になりかけている元イヴリース兵だと勘違いしているのだ。
しかし、だからと言って真実を伝えたところで突飛過ぎて信用など得られるはずもない。イヴリース兵のふりをするにしても、本来は部外者である自分がイヴリース兵の代弁をするのはどう考えても間違っている。
何か喋ろうと開いた口は、なんの音も発せずに固まってしまった。
「あのリディ殿、さすがにこのような場所でそういった話は……」
「ベン爺さん、寧ろこんな話が出来る機会など他に無いだろう。そちらでは何か話は聞いていないのか?」
「あ、いえ俺の方じゃできるだけ聞かん用にしてたもんで」
「ふむ、そうか。ではやはり本人に聞く他あるまい」
リディの勢いにこれまで世話をしてくれていたベン爺さんも困ったように眉間にシワを寄せながらこちらに目配せをしてくる。
思えば彼もずいぶんこちらに気を遣ってくれていた。
「……東海岸。央海での戦闘に参加していました」
「お前もあの場所に……! それにしても、お互いよく生き残ったもんだ。特に激しい戦闘が行われた内の一つがあそこだった」
「……」
「どうした?」
「あ、いえ……よくあの場所から助かったものだと。私は、気を失って流されてきただけなので」
嘘を付く。
本来ならば、自分はあの場で死んでそのままだった。だが本当の事を言ったとして、到底信じてもらえるような内容でもない。姿形と同時に頭までおかしくなったのだなと思われるだけ。
「それは……俺も似たようなもんだよ。あそこにでっけえゴーレムが2つ見えるだろ。ヘカトンケイルって言うんだが、アレの片方に俺は乗ってた」
リディの指さした方向には、シートをかけられた黒鉄の巨人が鎮座している。
指さしていたのはその片方で、状態は素人目に見てもあまり良くはない。装甲にはいくつもの爪痕が残り、腕も左腕の肘あたりから取れて無くなっている。
「ジハード様がやられてからも、俺達はイヴリース軍を食い止めるためにその場に残って戦い続けた。俺だけじゃない、あの場に居た仲間たちは死ぬまで連中を食い止めるために戦い続けるのは決めてたから、必死だったさ。ただ、イヴリースの船から飛んできた光線で腕がもげて、同時に聖獣擬き共に集られたのがまずかった」
スープを一口含み、飲み込んでため息をつく。
「転倒、ぶつかられた衝撃。ベルトで縛り付けていたはずの身体が浮いて、壁にぶつかる。ヘルメット越しでも頭に強い衝撃が走った。気が付いたときには全部終わったあとで、俺の乗っていたヘカトンケイルは死に損なった聖獣擬き共に齧られてた」
それを聞いて装甲に随分と傷が目立つのにも納得した。彼が気絶している間、ヘカトンケイルはその分厚い鉄の身体でもって聖獣擬き達から彼を守り続けていたのだ。
おそらくはカジムが放ったのだろう光線を受けて腕は吹き飛んだようだが、完全には壊れなかっただけ充分だ。
「そっから聖獣擬き共を駆除して、残ったのは俺ともう一つ瓦礫に埋もれて無視されてた仲間のヘカトンケイルが一つ、あとは死体の山から生きてるやつを探して……マギスタリアに向かおうとした道中で避難民を誘導してる仲間と合流してここまで来た、ってところだ」
彼はまた一つ、大きくため息をつく。
「まあ……俺もお前も、運が良かったから生き残ったって事だ。死ぬつもりだったのにさ、死に損ねた今になって生きてて良かったって思えてくるんだ」
「それが普通ですよ。誰だって、心の底じゃ本当は戦いたくなんてない」
「お前も、そうか」
こちらを一瞥して、目を伏せる。
お前もと言われたが、少し返答に困った。今の自分の姿のせいで勝手にイヴリース兵だと思われているが、実際はどちらの側でもないからこんな会話をしているだけで罪悪感が湧いてくる。
モヤモヤと湧き上がってくる感情をかき消すようバゲットを口に押し込み、そのバゲットを更に流し込むようにスープを呷った。
それでも口内に残ったバゲットを何度も噛み締め、砕き、飲み込む。
その時、ふと此方へと真っ直ぐに視線を向けてきている者の存在に気が付いた。気を紛らわせようと、会話に集中していた意識を分散させたからだろうか。
同じように長テーブルに並んで座り、食事をしている人々の中に一人。両腕にくすんだ色の腕輪を付けた黒髪の男が、生き物を観察するような目でこちらを見ている。
こちらが彼の視線に気がついたのを彼自身もすぐに気が付いたようで、手に残っていたバゲットの欠片を口に放り込むと、彼はすぐに立ち上がり広場の外へと歩き始めた。
「どうした、あんた?」
「セシル、知り合いか?」
不思議そうな様子でベン爺さんが語りかけ、一方でリディは自分が見ていた者に気がついていたのか、先程までとは変わって緊張感を含んだ声色で呟いた。
あの男が身に付けていた腕輪。何処かで見たような記憶がある。
その既視感の正体に気が付いた瞬間、弾かれるようにして椅子から立ち上がった。一瞬足がふらついたが、咄嗟に手にした松葉杖を頼って身体を安定させる。
唐突に立ち上がった奇妙な姿の男に、周囲からは奇異の視線が注がれた。
自分の異常な様子を見てか、リディも腰からさげた剣の柄に手を掛けながら立ち上がる。
「おい……お前……」
「リディさん。剣の腕にはどれぐらい自信が?」
「……成る程な、だいたいの大型のドラゴンなら1人でやれる程度だ。お前が想定してる奴の相手が出来るかは知らないが」
「なら、充分です、多分」
ベン爺さんにはここで残ってもらうように頼み、リディと二人で広場をあとにして男の影を追う。
手の中で久し振りに練った魔力はあまりにも頼りなく、弱々しいものに感じられた。




