再誕、再生
◆◆◆◆
暗い。
冷たい。
どれぐらいの間、眠っていたのだろう。
ぼやけた意識の中で最初に感じたのが、それだった。
自分が先程まで何をしていたのかすら思い出せず、どこまでも続く暗闇をぼんやりと眺めながら、深い深い深淵へと沈んでゆく。
『あれ……僕、こんな格好してたっけ』
ふと、意識がはっきりしてきたところで気が付いた。
手がある。足もある。
どちらもドラゴンではなく、人間のもの。
ただ、それらはこの暗闇の中にあって青白くぼんやりと光り、クラゲのように透き通っていた。
『そうか。死んだのか、僕は』
そこでやっと思い出した。
自分が今まで何をしていたのか。
自分は妹のイリスを取り返すため、マギステアとイヴリースの戦いに乱入、そこで洗脳されていたイリスと戦闘になり……カジムの放った攻撃から無防備になったイリスをかばって、あっけなく死んだ。
『なんだ、そこにいるじゃないか。僕が』
自分が死んだという事実に気が付いたとたん、今まで見えていなかったものが見えるようになった。
目の前を半透明になった自分と共に沈んでいく、一頭のドラゴンの死骸。流す血ももう残っていないのか、水に溶ける血煙も見えない。
首を失ったその死骸は、ただ力なく、暗い海の底へと沈んでいっていた。
『何でとっくに死んだのにこんなものまで見せられてるんだろう。自分なりに頑張ってはみたんだけどなあ……全部無駄にしたのも、自分だけど』
絶対に勝てるなんて甘いことは考えていないつもりだった。相手の手札もろくに知らず、どれだけ強いかもわからない状態、負けるのも覚悟の内だった。
だけど、心の何処かでそんな考えに対する甘えがあったのかもしれない。
並々ならぬ力を手にした。
ほんの数ヶ月前までろくに喧嘩すらしたことのなかった人間が。
言い訳をすれば、そんな力にちっぽけな一人の人間が振り回されないわけが無い。与えられた力は、正しい行いの為に。そう考えていても、どこかで必ず独り善がりな自分が顔を覗かせる。必死になり過ぎて、最善ではない選択を取ることもある。
ただ――
譲れないものも確かにあった。
この世界で得た新しい家族。守りたい大切な人達。
慕ってくれる人々、力を貸してくれた人々への感謝。
間に合わず、喪った悔しさ。
感情は、捨てられない。
『みんな……ごめん……』
沈みゆく自分の死骸を眺めながら、呟いた。
自分が死んだせいでランド達はウィニアさんに押し付けるような形になってしまったし、結局ニニィ達とはオラクルで離れ離れになってしまってから会えずじまい。イリスもおそらくはカジムの傀儡にされたまま。
ああする他には無かった。
ただ、力が足りていなかった。
勝てなかった、自分が悪い。
暗い気分押されるように、がくりと肩を落として俯く。
その時、
『貴方は、死にたいのですか?』
唐突に真横から誰かに声をかけられた。
頭がおかしくなって遂に幻聴でも聞こえるようになったのかと思いつつ、声をした方へと視線を向けると、居る。
顔を十字架の刺繍が施された布で覆い隠した半透明の男が、脚を組んで座っているような姿勢で自分と同じように深海へと沈んでいっている。
『…………え』
『死にたいなら、私が後始末を引き受けましょう。ただしそうなると私が視た未来とは変わってしまうので、結末がどう転ぶか判断は出来かねますが……まだ終わってはいませんよ?』
もう一度、男をよく見る。
見たことのある姿だった。
間違っていないのなら、彼は父さんの記憶で視た賢者マギ。記憶通りならあの布の下は瞳も口も鼻もないのっぺらぼうだ。
しかし、何故ここに? やはり自分の頭がおかしくなって、妙な形で希望を見せようとでもしているのかと思い、眉間にシワを寄せながら頭をさする。
だが、幻覚かと思った彼は消えること無く、首を失った龍の死骸を眺めながら言葉を続けた。
『あれから長い月日が流れました。人々の心から、この世界を焼き尽くしたあの戦いの記憶が失われるほどに。それでもなお、彼の憎悪は潰えず、私達の魂は呪いと共にこの大地に縛り付けられたままだった』
『……貴方がここに居るのも、そういう理由で?』
単純な疑問だった。
深い考えもなく、なんとなくただ聞いた。
だが、安易な疑問を投げかけただけのこちらに対して、彼は何やらおかしそうな様子でふふふなんて笑いながらこちらに顔を向ける。
『これでも私はマシな方なんですよ。こうして龍脈の流れの中で人らしく意識を保っていられる。下をご覧なさい、闇の中、今まで見えなかった彼等が見えるはずです』
『彼等?』
何のことやら見当もつかないが、言われた通りに下へと視線を向ける。
変わらない、どこまでも続く深い暗がりだ。そう思っていたのに、目を凝らしてよく見ていると暗がりの中で何かが、いやおびただしい数の何か達が蠢いている。
それらの正体に気が付いた瞬間、思わず顔をあげて海面へと逃げようと不様にも少し手足をばたつかせてしまった。
すぐに頭を振って心を落ち着かせ、暗がりの中で蠢いていた彼等へと再び視線を戻したところでまた彼が声をかけてくる。
『皆、先の戦い、そして現代のこの戦いで命を落とした者です。ここに居るものはみな、少なからず龍脈の魔力にあてられてしまった』
『それは、どういう事です?』
『こうなるようにカジムが願ったのですよ。その手で殺した後も、魂を大いなる輪廻の輪へと還させずにこの地に縛り付け、永劫に死の苦しみを味わい続けるように。だから、貴方も私も、ここに居る』
会話を続ける内に、今まで見えていなかったものが続々と見えるようになってゆく。
上を見上げれば、自分よりも後に死んだのだろうマギステアやイヴリースの兵、巻き添えでも食らったのだろう魔物までもが微動だにしない人形のようになって沈んできているのが見えた。
『なら……終わってないって、どういう事です。僕も同じように魂を縛り付けられてこうなっているのなら、確かに死んだはず。死んだら、生き物はそこで終わり、二度とは――』
『普通なら、ですがね。カジムの強い憎しみが、かえって私達に希望を与える結果となった。死と共に失われるはずだった魂は龍脈の呪いによってこの地に残り、勇者の力が宿った肉体もまた、古い肉体を脱ぎ去り眠りから醒めようとしている』
『サナギ?』
はっとして、もう一度自分の死骸へと目を向けた。
いつの間にか、首を失ったドラゴンの死骸にサメやウツボのような姿をした魔物が集り始め、ウロコを剥ぎ、肉を食いちぎっている。
ただ、それは食べる為と言うよりも、内側に閉じ込められた何かを取り出そうと殻を剥いているようでもあり――
――ドラゴンの胸のあたりから、何かが現れようとしていた。
『……紅い』
一瞬、心臓かとも思ったが、違う。
ルビーのように紅い色をした、楕円形の繭。
あれが自分の身体の中に入っていた?
『勇者セシルの息子、私の依代となるはずだった魂よ。あれこそ、新しい貴方。進化の果てに辿り着いた終着点であり、この世を創り出した原初の一に最も近い存在たる器』
繭が蠢く。
あの内側で確かに生きている何かが、腕を、羽を、脚を、動かして外へと出てこようとしている。
つい先程までドラゴンの死骸に集り、肉を食いちぎっていた魔物たちは、神に祈りを捧げる敬虔な信徒のように死骸を囲んで成り行きを静かに見守っている。
『選ぶのです、新しき勇者セシル。私に全てを託してこのままこの暗がりで永遠に揺蕩い続けるか、神たる龍として己の手で決着を付けにゆくか』
『良いんですか、僕が』
もう一度、チャンスを貰っても。
紅色の繭が破け、内側から鱗のついた人の腕のようなものと、玉虫色に波打って光る翼膜のある翼腕が現れた。
更に繭は内側から破られ、黒い髪が溢れ出して水に靡く。
やがて繭から姿を表したそれは、森人族のベースに鱗や背中から生えた翼腕、頭のねじれ角とドラゴンの要素を混ぜ合わせたような奇妙な姿をしていた。
眠るように目を閉じる彼の首元には、ニニィから貰ったペンダントで吊るされたブローチが光り輝いている。
姿形は変われども、間違いなく自分の姿。
隣で彼が静かに頷く。
『だったら……!』
目を閉じていた彼が、ゆっくりと瞼を開ける。
縦長に伸びた瞳孔を持つその瞳と、視線が重なった。
意識が浮上する。
はじめに目に入ってきたのは、見覚えのない板張りの天井。
どこかのベッドに寝かされているようで、身体の上には年季の入った薄手の布団がかけられていた。
「……夢?」
先程まで自分が見ていたものと今の状況の噛み合わなさに、天井に手を伸ばしながらぼやけた意識の中でふと呟いた。
だが、その時に気が付いた。
自分の手の様子がおかしい。前腕部の中ほどから肌は黒みがかった玉虫色の鱗に覆われ、五指の先にはそれぞれ鋭い鉤爪がついている。
ドラゴンのそれと同じように。
「む、目ぇ覚めたんか」
ふと声がかけられた。
暗い声色が聞こえてきた方へと顔を向ければ、手作業で修理していたらしき兜を作業机に置いた老人がこちらへと歩み寄ってくる。
「何日も寝たきりだったもんで、このまま死ぬんじゃねえかと思っとったわ」
いまいち力の入らない身体をなんとか起こそうとしたところを、彼に背中を支えられてどうにか起き上がった。
そこで他人に触れられたことでまた違和感に気がつく。背中に羽が生えている。
「……相変わらず妙な身体だな。これも例の人間が魔物になるっつう奴の影響かね」
「あの…ここは…?」
「意識ははっきりしてるようで何よりだ、イヴリースのお方。ここはゼカールの村だ。大陸の南端にある漁村だよ。まあ……ここんところは海も物騒になって漁にも出られん日が続いとるがな。おかげで逃げてきた避難民も船が使えんから国外にも出られん」
ドラゴンのような鱗やら翼はともかく、自分の事をエルフによく似た外見からイヴリース兵と勘違いしているらしい彼は、修理途中の兜へと振り返って視線を向けながら言葉を続けた。
「……戦争が始まってから暫くして、近くの海辺に死体が流れ着くようになった。基人族も洞人族も獣人族も森人族も、魔物同士を継ぎ接ぎにしたみたいなわけのわからん死骸まで流れ着いた。放っとくわけにもいかんし、おかげでここ最近は村の衆で流れ着いたあいつらを埋葬する日々が続いとったわ」
そこまで言うと、彼は再びこちらへと視線を戻して口を開いた。
「生きとったのは、あんたが初めてだ」
これまでに何があったのか、彼はそれから簡潔に話していった。
いつものように村の仲間と共に流れ着いた死体を運んでいた時に、まだ息のあった自分を見つけて少し騒ぎになったこと。
異形の自分の姿を見た村人の中からはこのまま死体と共に埋めて殺すべきだという意見も出たようだが、彼含めた年長の連中でひとまず様子を見ると押し通して連れて帰ってきたこと。
そして、連れて帰ってきてから一週間と4日間、自分は一切目覚めること無く眠り続けていたということ。
「身体の方はともかく、正気みたいで良かったよ。ここに他から流れてきてる連中の話じゃ、魔物になった亜人は人間らしい思考が出来なくなるっつうからな」
そう言ってガハハと笑う老人の顔をぼんやりとした感情で眺めていて、ふと妙な事に気が付いた。
「なんで、僕を助けたんですか。亜人だってわかってたのに」
マギステアは基人族の国。
龍脈の持つ呪いを隠すため、創造神マギという神話をでっち上げて亜人を排斥し続けていた国だったはず。
彼もマギステアの民ならば、亜人に対してあまり良い感情は持っていなかったはずだろう。なのに、どうして亜人の姿そのものの自分を助けたりなんてしたのか。
そんな疑問に彼は一瞬驚いたように目を少し見開いて、それから困ったような表情を浮かべつつも口を開いた。
「まあ……なんだ。正直に言えば未だにあんたら亜人への印象は変わっとらんし、戦争なんぞ起こされてむしろ恨んどる節すらある。ただ、『教え』は『教え』だ。絶対のルールじゃない。それに、眼の前の救える命を見捨てたくないと思っちまうのも、自分自身の考えだろ? 板挟みになってる中で切羽詰まって、最後に自分自身を信じることにしたって話だ」
彼の言葉に、少し驚いた。
一度植え付けられた常識、考え方は人間そう簡単に変えられるものじゃない。個人の感情を天秤にかけられるほど、人間の集団社会も柔軟じゃない。
それでも、助ける方を選んだ。
「……貴方は凄い人だ」
「何だ急に。俺はただのジジイだよ……そうだ、寝たきりでハラへってるだろ。何か作ってやるからちょいと待ってな」
立ち上がり、別の部屋へと去っていく彼の後ろ姿を眺めながら、ふと自分を庇って死んでいった一人のマギステアの騎士のことを思い出す。
戦う理由が、また一つ増えた気がした。




