離縁された古本好きな妻は、聖女様と共にスローライフを目指す!
初めて異世界転移の話を書いてみました。
シリアスで、ザマァは少なめです。
(登場人物が、ほとんど上流の平民という設定の話です)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
マーサはその日突然職場で解雇を言い渡された。そしてそれと同時に離婚まで。
解雇の方はまだわかる。近頃この国では行政改革真っ只中。城中も役所でもいたる所でリストラが敢行されていたので、明日は我が身とみんなビクビクしていたのだから。
マーサが勤務している文書書籍課は、役所の中で一番地味と思われている課で、城壁の中の建物の一番奥、図書館内にある。
仕事は本や資料の整理と公文書の作成と保管。重要だが地味で手間がかかり、いくら頑張っても成果が見えにくく、出世には一番縁遠い職場だ。ここに配属されるとみんな一様にがっかりする。
しかし課長は目端が利く男だった。行政改革の方向性が決定されると、いち早くその先頭に立って人々に働きかけ、組織改革の旗振り役として改革を推し進めていった。
この事で彼は出世する事を目論んでいた。いや、目論んでいただろうに一体どうしたんだと、その場にいた部下達は思った。
誰も自分がリストラ要員になるのは当然嫌だった。だが、それと同時にマーサがリストラされるのも嫌だった。みんな、自分とマーサ以外の者にリストラ要員となって欲しかった。自分勝手で大変心苦しいけれど。
何故なら、マーサはこの課で一番仕事が出来るのだ。彼女が居なくなると、三人リストラされたのと同じようものだ。ただでさえ忙しい。その上間もなく年度末を迎えるのだ。彼女無しで仕事が終わるとは到底思えなかった。
実際のところ、仕事が期日までに終わらなくて一番困るのは課長だろう。上から叱責を受けるのはヒラ職員ではないのだから。それなのに何故?
その疑問の答えを知りたくて、彼らは耳を欹てた。そしてその理由を知って愕然とした。自分達の上司の頭があまりにもお花畑過ぎて。
「解雇の方はまだ分かります。でも何故離婚なんですか? 今まで別れ話など一度もなかったし、あなたは今朝、普段と変わらずに出勤して行きましたよね? なのにどうして、よりにもよって職場で突然こんな話を言い出したんですか?」
マーサが尋ねた。
確かに夫婦円満とまではいかなくても、それなりに平穏無事に暮らしていたと彼女は思っていた。主に彼女の努力により。何せ共働きをしながら義母ともに家事や義祖母の介護までしていたのだから。
それに比べて夫は仕事を理由に一切家事をしなかった。正直言うと、夫より自分の方が仕事をしているとは内心思ってはいたが。
すると夫はなんとこう言った。
「ここで離婚届けを書けば、すぐに提出できる。戸籍課は隣だ。合理的だろう? だから、今すぐに署名しろ!
別れた女房と一緒に仕事をするなんてごめんだ。だからクビにするんだ」
その場にいた者達全員が唖然とした。
「ですから、そもそもの離婚理由はなんですか? 離婚しろと突然言われてただ素直に応じる人がどこにいるんですか?」
ーまったくだー
「家でも職場でもおまえはああだ、こうだと口煩い!」
ー女房なんてどこもみんなそうだー
「たまの休みにもあれしろ、これしろと言って、少しも休ませてくれない!」
ー共働きなのになんで夫だけ休んで当たり前だと思うんだ。しかも、女房の方が家でも職場でも仕事してるだろ! そんな事みんな知ってるぞー
「女の癖に職場でもお茶の一杯も淹れやしない!」
ー彼女がお茶を淹れるより、あんたが自分でお茶淹れる方が効率的だ! しかもお茶汲みしかしない女の子がいるのに、何故彼女がお茶を淹れる必要があるんだよー
「化粧も髪の手入れもおしゃれもせず、お前女捨ててるだろう? 夫のために身だしなみのきちんと出来ないような妻は離婚されて当然だろう?」
ー誰のせいでおしゃれする暇がないと思ってんだー
「それに仕方ないだろう? 俺の子供が出来たんだから」
は? マーサは夫の言っている意味が分からなかった。子供なんて私、できていないわよ、と。
すると給湯室から少女が出てきて、夫の側に立ち、彼の腕に手をそえた。それを目にしてマーサはようやく夫の発した言葉の意味を理解した。
マーサの夫であるモーリス=カークランドの側に立つ少女の名は、ブレンダ=オーランドと言った。幅広く商売をしている男爵家の娘で、社会勉強という名目で役所で働いている。まぁ、働くといってもお茶汲みしかしていないが。文書関係はともかく書籍整理くらいしても良さそうなのに。
淡いクリーム色の髪に青い瞳の本当に愛らしい少女で、見かけだけなら庇護欲が湧いてきてつい守ってあげたくなりそうな子だ。もっとも遊び好き男好きで、男漁りに役所に入ったという事は有名で、良識ある男ならば相手にしないだろうが。
「あなたはその子と浮気していたって事ですか?」
「・・・・・」
ーえーっー
「本当にあなたの子なんですか?」
「失礼な事を言うな! 俺の子じゃなきゃ誰の子だっていうんだ。自分に子供が出来なかったからって、人を疑うとはなんて卑しい人間なんだ! そんな女だからお前と離婚するんだ」
モーリスは離婚届けをマーサの前に突き出した。
突然離婚話をしたかと思えば、その場で離婚届けを出せとは、いくらなんでも無茶な話だ。しかもその理由が浮気相手に子供ができたからだなんて。マーサのみならず、その場にいた全員が呆気にとられた。
「お義母様とお祖母様が湯治からお戻りしてからでないと、相談が出来ません」
マーサがそう言うと、モーリスはだからこそ、今日中にサインしろと言った。モーリスの母親と祖母はマーサを実の娘のように可愛がっていて、離婚すると言ったら大反対されるのは目に見えている。
「そんな事を言われてもすぐに離婚届けなんて書ける訳がないでしょ」
「何故だ?」
「何故って、慰謝料や財産分与も決めていないのに書く訳ないでしょ」
「何故慰謝料を俺が払う必要があるんだ? 原因はさっき俺が言っただろう? お前が離婚の原因を作ったんだら、慰謝料を支払うわけないだろう!」
モーリスは信じられないという顔をした後、不機嫌そうにこう言ったが、マーサは鬼のような顔でこう怒鳴った。
「ふざけた事言ってるんじゃないわよ。さっきのが離婚の理由? そんなのがまかり通るなら、この世の男達はみんな簡単に離婚してるわよ!
浮気してよそに子供作って慰謝料払わない男が何処にいるのよ! 裁判所に訴えたら百パーセントあんたの負けよ!」
モーリスが周りを見渡すと、そこにいる全員がマーサの台詞に頷いているのがわかった。
「分かった。慰謝料は払う。ただし、一括という訳にはいかないから分割払いにしてくれ!」
「冗談じゃないわよ。あんたにクビにされて無職になって収入がなくなるんだから、一括ですぐに払ってもらわないと困るわ。
それが出来ないなら裁判所で財産差し押さえしてもらうわよ。
後、共働きだったんだから、結婚後に貯まった貯蓄は半分私がもらいますよ。それに結婚前に私が持ってきた貯蓄は当然私の物ですからね!」
本当は自分の方が家庭にお金を入れていた。夫は仕事帰りに酒を飲んだり、遊戯場に金を使っていた。そして浮気相手にも使っていたのかと思うと、半分じゃ気が済まないが。
「分かった。しかし、慰謝料の方は一度には無理だ。少しだけ待ってくれ」
上から目線でモノを言っていたモーリスはようやく自分の立ち位置が分かってきたようだ。少しオロオロしだした。しかし、そんな事聞いてやる必要はない。
「嫌よ。全額払ってもらわないうちは離婚届にサインはしないわ」
「そんな。早く離婚しないと子供が生まれてしまうじゃないか」
「そんな事私の知った事じゃないわ」
ーまったくだ!ー
さっきまで勝ち誇ったような顔でマーサを見ていたブレンダが、さすがに不安そうな顔をしてモーリスを見た。そんな彼女の顔を見たモーリスは覚悟を決めたようにこう言った。
「現金は無理なので、蔵とそこの土地では駄目だろうか?」
モーリス=カークランドの家は祖父の代までは商売をしていて結構裕福だったらしく、王都のメインストリートから一つ奥の通りに蔵を持っていた。しかし、父親の代には家が傾いていて、その蔵にしまう物などほとんどなく、今では図書館から払い下げされた古書をしまってあるくらいだ。
ー手入れするのも面倒で早く処分してしまいたいと、普段から口にしていた負の遺産を慰謝料代わりにしようとするとはー
部下達は呆れてものが言えなかった。そして、この辺りでこの上司の事を見切った。そして、彼の妻もそう思ったらしく、深いため息をついた後こう確認した。
「財産は半分、慰謝料は相場の半分を現金で、残りはカークランド家所有の蔵とその土地、そして当然現在蔵の中に入っている物の所有権も含まれるという事でいいわけね?」
モーリスは頷いた。蔵の中に何が入っているのかはよく知らないが、大した物はない筈だ。そんな物を置いていかれても、処分にまた金と時間がかかって迷惑だ。丸ごと渡してしまえばそれこそラッキーだ。そう考えている彼の顔は醜く歪み、それを見ていた全員を不快にさせた。
しかしマーサ本人は淡々とそれを確認すると、自分の事務机の引出しから白い紙を二枚取り出して夫に差し出し、ここに今自分自身が言った事柄を宣誓書として、控え分も含めて書くように命じた。
そしてそれがモーリスによって記されると、マーサは職場の仲間達に頭を下げた。忙しい中、個人的な事で騒動を起こして迷惑をかけて申し訳ないと。そして申し訳なさついでに、証人としてこの誓約書にサインをしてくれないかと依頼した。
するとマーサと苦労を共にしてきた仲間達は頷き、モーリスと浮気相手を除く同僚達が全員がサインをしてくれた。マーサはそれに感謝しながら、二枚の誓約書のうちの一枚を課長補佐に手渡した。
「アントンさん、これを公文書として処理して頂けないでしょうか?」
「もちろんだよ、マーサさん」
マーサはそれを聞いて初めてホッとため息をつくと、モーリスが持っていた離婚届けを奪うように取り上げて、さっさと自分のサインを書きこんだ。そしてモーリスとブレンダを睨みつけならこう言った。
「これから自分の机と私的荷物を整理します。それが終了した時点で退職しますので、その際、私がこの離婚届けを出していきます。その方が合理的でしょ? あんたがたはさっさと自分の本来の仕事に取り掛かったらどうなんですか? 他の方々に迷惑がかかってますよ?」
モーリスとブレンダがようやく我に返って周りを見渡すと、職員達の冷ややかで侮蔑の表情が目に入った。今朝、子供が出来たとブレンダに言われてから、モーリスは舞い上がっていたが、ようやく自分がしでかした事の重大さ、失態に気づいて青褪めた。
マーサの台詞じゃないが、自分は何故おのれの職場でこんな個人的な話をしてしまったのだろうか。ただでさえ噂好きな人間の多い王城内で悪い噂が流れたら、すぐに上の者に知られてしまう。今更どんな手を使おうと、悪いのは完全に自分の方にされてしまうだろう。たとえ真実は違っていても。本当は俺に愛情を持たず蔑ろにしてきた妻の方が悪いにもかかわらずにだ。
マーサは机の整理が済むと、職場の仲間達に今までの感謝を述べて、私物を抱えてその場を後にし、隣の建物の戸籍課へ行って離婚届けを提出した。処理した女性職員は時々食堂でランチを共にする友人だったので、酷く驚いた顔をしていた。マーサは彼女にも「お世話になりました。お元気で」と声をかけてその場を離れた。そしてその建物を出て城門に向かって歩いていると、背後から声をかけられた。
「マーサ!」
振り向くと以前机を並べていた男が自分の方に向かって来た。もうこの男にまで噂が届いたのかと、マーサはため息をつきたくなった。知られる前にここから退場したかったのだが。
「なんですか、ベーカー秘書官」
「モーリスと離婚したって本当か?」
「ええ、ほんの数分前に」
「何故?」
「浮気の相手に子供ができたそうよ。ようやくあれも父親になれるようで良かったわ」
「そんな簡単に別れてもいいのかい? ええと、聞いた話では今朝突然離婚話をされたというじゃないか」
「子供が出来たと言われたら仕方ないじゃない。どうせ離婚するなら早い方がいいわ。それにあなたにだけは言われたくないわね。私の結婚生活は五年だったけど、あなたは二年ももたなかったじゃないの」
マクシミリアン=ベーカー宰相秘書官は、最初に配属されたのが文書書籍課で、マーサとモーリスの同期で四歳年上だった。そして元々マーサとマクシミリアンは恋人同士で、マーサは彼に結婚を申し込まれていた。
しかし彼女が悩んでなかなか返事をしないうちに状況は急変し、マクシミリアンは親の強い意向を受けてさっさと結婚してしまった。
結果的にマーサの方が振られたことになるのだが、彼女がマクシミリアンを恨んでいたのかといえばそんなことはない。寧ろ彼には申し訳なく思っていた。彼女がすぐにオーケーの返事さえしていれば良かったのだから。
マーサはマクシミリアンの事が好きだった。しかし彼の両親からあまり良く思われていなかった。いや、嫌われていて結婚を反対されていた。仕事を辞めないと言った事で、女の癖に頭が良過ぎて生意気だ。あなたみたいな女は、仕事ばかりして家事を疎かにするに決まっていると。
マクシミリアンは全力で守ると言ってくれたが、そんな事は無理だとマーサは分かっていた。自分の両親がそうだったから。
マーサの父親も全力で自分の母親から妻を守ろうとしたが、いつも妻の側にいられるわけでもなく、そのうち二人とも疲れ切ってしまった。結局二人は離婚して母親は実家に戻り、父親はすぐに再婚をさせられた。
新しい義母は祖母が選んだだけあって嫁姑の相性はとても良かったが、夫とは上手くいかなかった。父親は仕事に熱中し、あまり家に居ようとはしなかった。
継母は夫への不満を全て義娘であるマーサに向けた。そして祖母も冷たくなった息子への恨みを孫娘に。マーサには兄がいたが、将来面倒を見てもらう算段をしていたのか、彼には手を出さなかった。
マーサは家に居たくなかったので、毎日ギリギリまで図書館に籠もった。それゆえに本好きになり、勉強好きになり、才女と呼ばれるようになったわけである。
本人同士がどんなに愛し合っていても、それだけでは幸せにはなれない。マーサはその考えから抜け出せなかった。そのうちにマクシミリアンの父親が病気で倒れ、介護が必要となった為に、両親が息子の結婚を急いだのだった。
マクシミリアンの結婚相手は彼の異動先の秘書課に勤めていたメアリだった。余計な事だとは思いながらもマーサは、婚約する前のメアリに彼の両親の件を忠告した。しかし、彼女はマーサの言葉を負け惜しみの嫌がらせと受け止めたようだった。マクシミリアンは大学出のエリートで高身長でその上美男子で、独身女性の憧れの的だったのだ。
結局、マクシミリアンとメアリの結婚生活は二年もたなかった。彼の両親は嫁を介護人としか見なかった。しかも感謝もせず、文句ばかり言っていたのだ。彼女はその事がどうしても許せなかった。
離婚後メアリはマーサに謝ってきた。あなたの忠告を素直に聞かずにごめんなさいと。そして彼女は自分たちのような被害者が増えないようにと、マクシミリアンの両親がどんなに酷い人間なのかをあちらこちらで吹聴して回った。
マーサとしてはちょっとやり過ぎなような気もしたが、マクシミリアン本人がその事を容認していた。彼の両親の悪い噂が流れれば、もう自分にすり寄ってくる女性はいなくなるだろうと。
マクシミリアンは昔から自分の両親には手を焼いていたが、メアリと離婚した直後に家を出て、完全に彼らとは縁を切った。もちろん仕送りだけはきちんとしていたが。彼にその決断をさせたのは母親のこの一言だった。
「マーサさんを嫁にしておけば良かったわね。彼女なら働いてお金を稼いでくれた上に介護もしてくれただろうからね。失敗したわ」
マーサがモーリスと結婚して、義祖母の介護の手伝いをしているという噂をどこからか聞いたのだろう。自分の都合で人を利用する事しか考えない親に絶望した。そしてもっと早くにこの親を見限っていれば良かった、と後悔したのだった。
「マーサ、俺になんか手伝う事はないか?」
「ないわ」
マクシミリアンの問にマーサは即答した。
「でも、実家には戻るつもりはないんだろう? 今日は宿に泊まるとしても今後はどうするつもりなんだよ。荷物は?」
「なんとかなるわ。私の事は心配しないで」
「でも解雇もされたんだろう? 俺が不当解雇だと上に交渉してみるよ」
「いいわ。私、あの男とこれ以上顔を合わせたくないし。私こう見えて割とデリケートなの。メアリみたいに元旦那と同じ職場で働くなんて絶対に無理」
そう、戸籍課にいた友人の女性は、マクシミリアンの別れた妻のメアリだった。寿退社したが、離婚後役所に復職していたのだった。
「それに、マクシミリアンとももう関わりたくないわ。モーリスの浮気が原因の有責離婚なのに、私も婚姻中からあなたと付き合っていた、なんて言いがかりつけられたら、慰謝料もらえなくなって困るから」
「あっ、ごめん」
マクシミリアンは謝りながら大きく後ろへ飛びのいたので、マーサは笑ってしまった。そして前を向き直して、後ろに手を振りながら城門から出て行った。
腹立たしかったけれど、モーリスの言葉で間違ってない事もあった。夫の事を家族として愛そうと努力はしていたけれど、夫として愛せなかった事は事実だ。異性として愛したのは確かにマクシミリアンだけかも知れない。五年前のマーサはまだ子供で、異性の愛よりも家族の愛を欲していたのだった。
モーリスの母親と祖母は優しい人達でマーサを娘のように愛してくれた。マーサはそれが嬉しくて幸せだった。でも、モーリスにとっては幸せではなかったのだろう。たとえ、子供の本当の父親がだれであろうと、彼が彼女と赤ん坊と幸せになれるなら、それが一番なのかも知れない。もうそろそろ自分も現実を見なければならないだろう。自分には幸福な家庭は不似合いなのだという事に。
マーサはまず銀行へ行って夫婦名義の貯蓄を半分引出した。それから自分の通帳の名義を旧姓に戻し、そこへ下ろした金を預け入れた。慰謝料は後でモーリス名義の貯蓄から振り込んでもらおう。
次に登記所へ行き、モーリスの書いた誓約書を見せて、カークランド家の蔵と土地の名義変更手続きをした。
それから顔馴染みの八百屋の女将さんにお願いして荷車を借りて、今朝まで自宅だった家へ向かった。そして、結婚の際に自分が持ち込んだ物、結婚してから自分の働いた金で買った物(義母や義祖母に贈った物を除く)を全て荷台に載せた。
最後に義母と義祖母に離婚に至った経緯を記し、今まで良くしてもらった礼を述べ、こんな形で分かれる事になった謝罪を綴った手紙を認めると、義祖母の箪笥の引出しに結婚指輪と共にしまった。
大分すっきりした家を見渡した後、マーサは小さく呟いた。五年間お世話になりました。ありがとうございます、と。しかし玄関を出たところで足を止めた。そして荷台の前で仁王立ちしている人物を目にして、マーサは仰天した。
「アンナ様、どうしてこんな所に?」
マーサの問いに少女は可愛らしい頬を膨らませた。
「それはこちらの台詞よ。今日のランチの約束破って、どうして勝手に一人で役所を辞めたのよ」
「辞めたというより辞めさせられたのですよ。リストラされました。アンナ様とのお約束、すっかり忘れていました。本当に申し訳ございません」
マーサが頭を下げると、アンナ様も眉毛を下げて少し困った顔をして言った。
「あなたがそれどころじゃなかったのは知ってるわ。もちろん責めるつもりなんてないわ。それより、この荷物を何処へ運ぶつもりなの?」
「慰謝料としてアルバート通りの蔵をもぎ取ったので、そこで暮らそうと思っています」
マーサがそう言うと、アンナ様は急に元気になって瞳を輝かせた。
「ねえ、そこへ私も住まわせてもらえないかしら。ちゃんとバイトしてお家賃も払うから。私、もうこれ以上はキャパオーバーで、これ以上公文書を頭に詰め込んだらオーバーヒートしちゃう! お願い、助けて、マーサさん!」
アンナ様は王城の中の神殿で、異世界から二百年振りに召喚された聖女様だ。アンナ様が姿を現された時は城内が大騒ぎだった。
ところが、アンナ様にみんなが期待した癒やしや攻撃能力がないと分かると、みんな掌返しで彼女を無視した。勝手に呼び出しておいて無責任にもほどがある。そして、お偉いさん達はマーサの責任だと言って聖女様の世話を彼女に押し付けた。
何故マーサの責任かというと、彼女が古書整理をしていた時にたまたま聖女召喚を記した書物を発見し、それによってアンナ様が召喚されたからである。実際に召喚したのは、当然上層部のお偉いさんだったのに。理不尽だとマーサは思ったが、全く無関係とも言えなかったので、最初は仕方なく聖女様の面倒を見ていた。
しかし彼女と触れ合ううちに、彼女の転移前の環境があまりにも自分に酷似していたために、とても他人事とは思えなくなり、進んで世話をしているうちにすっかり仲が良くなってしまった。今では本当の姉妹のような関係になっている。
アンナ様は『ニホン』という国から転移してきたという。この世界とは比べものにならないくらい文明が進んでいたらしい。彼女が話す話はまるでおとぎ話のようで、マーサの心をワクワクさせた。しかし、アンナ様は最後に必ずこう言った。
「どんなに文化が発展しても、人間の中身は大して進化しないのよ。百年千年たとうが進歩しない。同じ過ちを繰り返す。最小単位の家族関係も同じ。変わらない」
アンナ様は普段は十六歳という年齢より幼く見える、美しい黒髪のお人形のように愛らしい少女だったが、時々大人びた表情を見せる時があった。彼女の言っている意味をマーサには理解出来た。家族とは、なんて厄介なのだろう。
モーリスはマーサがアンナ様の世話を焼くのを嫌がったので、マーサはマクシミリアンに彼女の事を相談した。すると、マクシミリアンは快く彼女の話し相手兼相談役になってくれた。そして暫くして彼は聖女様の特殊能力に気付いた。彼女には物凄い記憶能力が備わっていたのである。
彼女は目にしたものを瞬間に覚え、しかもその記憶をいつでも自由に出し入れする事が出来た。聖女様は自分のその能力に気付いた時、
「私ってまるでスマホのカメラ機能みたいじゃないの。ツールの一つみたいでいやだわ」
と呟いたが、マーサもマクシミリアンもその言葉の意味が分からなかった。しかし、アンナ様が嫌だと思った気持ちを、マーサもやがて理解する事となった。なんと彼女をずっと邪魔者扱いしていたモーリスが、いち早く聖女様の活用法を見つけて、勝手に上へ進言したのである。
公文書も嵩張る重要書籍も聖女様の頭の中に入れてしまえば、出し入れ自由、場所も人件費も減らす事が出来ますよと。
アンナ様は聖女で神ではないのだから、その能力は無限ではない。記憶できる容量には限りがあると主張した。
しかししかし、モーリスも上層部もアンナ様がただ怠けようとしているのだと聞く耳を持たず、場所をとる重要な大型書籍や、傷んでいてまだ修復されていなかった古書、他国との古い条約宣誓書などを彼女に記憶させ、原本を次々と処分していった。そして最後に人員を削減しようとマーサのクビを切ったのだった。
しかし、再三アンナ様が言っていた通り、彼女はもうそろそろ限界を迎えていた。それを今日彼女はマーサに相談しようとしていたのだ。
マーサの新居となった古いが頑丈に造られた蔵の中で、古書に埋もれながら、マーサはアンナ様と向かい合っていた。
「私の頭の中はもうオーバーヒート状態です。これ以上何か詰め込んだらパンクします」
「パンクしたらどうなるんですか?」
「マーサさんやマクシミリアンさん、それにメアリさん、カークランドのおばあちゃん達との新しい記憶、いえ思い出はもう作れなくなります。コップに水を目一杯注いだら、それ以上は注げないでしょう? つまりはそういう事です」
アンナ様の言葉にマーサは震え上がった。つまりそれは、アンナ様が壊れてしまうという事なんだろうか? そんな事は嫌だ。辛い思いばかりしてきたアンナ様と自分。これからはもっと自由にもっとのんびり二人で暮らそうと思ってこの蔵を手に入れたのに。
そう。マーサはモーリスに離婚を言い渡された時、真っ先に頭に浮かんだのは実はアンナ様の事だった。(ランチの事は忘れていたが・・・)これからは全てのしがらみを捨てて、聖女様とスローライフを楽しもうと。
二人とも家庭に恵まれなかった。特にアンナ様は幼い頃からから親から虐待を受けていたので、早くから独立して働きながら学校へ通っていたそうだ。そしてその仕事先は、彼女が学生であるにも関わらず、クビにするぞと脅して学校を休ませてまで過重労働までさせていたという。それをなんとかという組合組織に訴えて、ようやく待遇改善させられそうになっていたところで、彼女はこの世界に召喚されてしまったのだ。
そしてここでもまた過重労働を強いられる羽目になった。
あまりにも過酷過ぎる運命だ。しかもそれに自分も手を貸してしまったという罪悪感で、マーサは苦しんだ。そしてどうにかしてアンナ様を助け出さなければと思っていた。
そんな彼女はある日カークランド家の蔵の事をふと思い出した。
マーサはアンナ様が記憶したからもう不要だと処分された書籍を貰い受けて、以前からこっそりと蔵へと運んでいたのだが、あそこで商売が出来ないかと、ふと思ったのだ。
以前アンナ様から、転移前の世界の話の中で、本屋とカフェが一緒になった『ブックカフェ』と呼ばれる店の事を聞き、そんな店があったら行ってみたいと思った事を思い出したのだ。
この世界にまだないのなら自分が作ればいいのだ。そしてアンナ様と一緒にその店をやっていこう。そう思い立ち、計画を立てようとしていた矢先にこの離婚を言い渡されたのだ。
慰謝料を貰うならあの蔵がいい。どうせあの男は蔵を処分したがっていたのだから。しかしそれをこちらから先に言い出せば足元を見られる。だからマーサは相手がそれを言い出すように仕向けたのである。蔵だけあっても資金がなければ開店は出来ないのだから。
ようやくブックカフェの開店の目途が少しだけだがついたのだ。ここでアンナ様に何かあったらなんの意味もなさない。マーサは震えながら聖女様に尋ねた。
「どうすればアンナ様をお助け出来るのですか? どうすれば、アンナ様に私達との新しい記憶を受け入れてもらえるのでしょうか?」
「私の頭の中に入っている記憶を消去すれば、別の新しい記憶をインプットできます」
アンナ様の答えを聞いてマーサはホッと胸を撫でおろした。
「それではアンナ様、さっさと書籍や書類の記憶などは消去して下さい」
マーサがこう言うとアンナ様は悲しい顔をして首を振った。
「そんな事は出来ないわ。書籍や書類がなくなったらみんな困るでしょ。マーサさんがいつも言っている通り、文書や書籍の保管は国や国民にとってとても大切な物なんでしょ?」
聖女様のこの言葉にマーサは胸が一杯になった。この世界の、この国の役所の職員が蔑ろにしているというのに、異世界から無理矢理に召喚され、しかも冷遇されているというのに、この聖女様はこの国の事を考えてご自分の未来まで犠牲になされようとしている。なんと崇高な精神の持ち主なのだろうか。
やはりこの聖女様には幸せになってもらわなくては! そう、そして自分と二人でこれからの人生、スローライフを楽しむのだ。マーサは強くそう思った。
マーサはにっこりと微笑むと聖女様にこう言った。
「私やマクシミリアン、それから聖女様がお好きだと思われる方の記憶以外はみんな消して下さって結構ですよ。廃棄処分になった書籍や公文書は、私がここに収蔵しておきましたから」
聖女様は大きな瞳をパチクリした後に破顔したのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
マーサが離婚して一年後、王都のアルバート通りにあるブックカフェは今日も多くの客で繁盛していた。
三階建ての蔵は古いが造りがしっかりしていてよく手入れをされていた。夏は涼しく、冬は暖かく、とても居心地が良かった。
蔵の棚に並べてあるのはレア本や今流行りの本、児童書まで幅広く、色々な年齢層の客が訪れた。しかもバリアフリーになっているので、年寄りから赤ん坊連れ、車椅子の人達も気兼ねなく訪れていた。
店の女主は二十代半ばの知性溢れる美人で、希少本や資料を探している客達にはとても感謝されていた。そして店の看板娘である黒髪のお人形のような美少女は、老若男女、全ての客の心を癒していた。
そんなある日、この店の常連客であるマクシミリアンがやってきて、コーヒーを飲みながら店主と雑談していた中年の男に話かけた。
「アントン課長、古書の補修作業の進み具合はどうですか?」
「ああ、大分進んでいますよ、こちらで紹介して頂いたボランティアさんのおかげで。やはり本好きの人にやってもらわないと作業は捗りませんね。ただ上の命令で配属されただけの職員だけじゃ駄目です。
ついこの前、やる気のない税金泥棒を一人リストラしました。これでかえって作業が進むでしょう。職員一人分の賃金が浮いたので、そのお金でボランティアさんへのお茶とおやつを今までより少しだけ良いものにしたいと思ってますよ」
「そりゃあ嬉しいな。出来ればそのおやつはここのチーズケーキがいいな。みんなここのチーズケーキが好きだからよ」
やはりこの店の常連客の一人で、古書修復ボランティアの一人の男性がこう言った。するとアントンさんは少し微笑みながら頷いた。
「皆さんからアンケートをとってから決めたいと思いますが、きっとそうなるでしょうね。その時はお願いできますか、アンナ様?」
「もちろんです、アントン様」
元聖女のアンナ様がにっこりした。ブックカフェで出されているメニューは全部アンナ様が作ったもので、どれも他所の店では味わえない珍しいもので、その上とても美味しいと評判だった。
アンナ様はこちらへ転移される前は、二十四時間営業しているという、鬼畜な食堂で働いていたらしい。そこで学んだ料理と接客と経営手法を、今ここで活用されていた。
しかしアンナ様はこうおっしゃる。以前の笑顔は強制されたものだったけど、今は違うと。本当に嬉しいから、本当にお客様に感謝しているから、本当に幸せだから笑っているのよと。それを聞くとマーサも幸せな気分になるのだった。
アンナ様はその評判の人気レシピを秘密にするのではなく、皆にも公開していた。もちろん本に載せるという方法でしっかり印税は頂いていたが。
アンナ様は記憶能力を喪失したという事で、城から追い払われていた。もちろん、能力がなくなったなんて嘘っぱちだったが。
「絶対にここのチーズケーキで決まりだって。それにしても、あのモーリスって男は本当に使えない男でしたよね。あれで大学出で、元課長だったとは信じられないよね?」
「半年前、隣国と新しく貿易条約結ぶ時、昔の誓約書が紛失してて大騒ぎになったらしいけど、それを廃棄してたのが、そのモーリスって男らしいじゃないか。なんでも、公文書や書籍の中身を記憶する魔道具ってやつを手に入れたからって、大事な文書をみんな廃棄処分にしたら、その魔道具まで酷使し過ぎて壊しちまったらしいじゃんか。よくそれで首が飛ばなかったな。いや、リアルな意味で」
もう一人のボランティアの男性が言った。みんなよくそんな役所内の情報を知っているもんだと、マーサとアンナ、そしてマクシミリアンとアントンは思った。まあ、その情報源はなんとなく予測はできるのだが。
ここの常連客達の多くは、女主のマーサの元夫の事を知っていた。というのも、たまたまマーサとアンナが席を外している時に、モーリスが復縁を求めて突撃してきたからである。
確か彼はこうわめいていた。
「マーサ、もう一度俺とやり直してくれ。俺はあの小娘に騙されていただけなんだ。俺は悪くないんだ!」
って。常連客みんなで営業妨害だからって、さっさと追い払ったのだが。
そうとは知らないマーサとアンナ様は、今ここではあまりその話はしないでほしいと、心の中でそう思った。何故なら・・・
「そこにいるマクシミリアン様が、その古い公文書や処分したはずの書籍を見つけ出して下さったんですよ。おかげで、息子の首はつながったのです」
突然テーブル席の方から女性の声がした。
「それなのにその事に感謝もせずに、ヒラ職員に格下げされた事にいじけて、適当に仕事をしていたのだからリストラされて当然です。ほんとに情けない孫です。今度は性根を入れ替えるでしょう。嫁の親の商会になんとか拾ってもらったんですから」
もう一人の車椅子のご婦人の言葉に、後ろを振り返った男性二人は青褪めた。彼らはこの店の常連客だったので、やはり常連客であるこのご婦人達とは当然顔馴染みだった。しかし、まさかこの二人が女主の別れた夫の家族だとは思ってもいなかったのだ。女主はこの二人のご婦人とは大変仲が良く、もしかして親戚かな? くらいには思っていたのだが。まさか・・・
「ああ、私達の事なら気にしないで下さいな。息子がマーサさんと離婚した時点で息子を勘当して家から追い出しましたからね。全く、自分に子種がないことにも気付かずコロッと小娘に騙されるなんて、情けないったらありゃしない。でも、せっかく父親になれるチャンスを天から授かったのだから、これからは頑張って欲しいとは思っていますがね」
「ええと、息子さんを勘当して寂しくはないんですか?」
常連客が恐る恐るそう尋ねると、二人のご婦人達は幸せそうな顔をして、
「私達にはかわいくて優しい娘が二人いますから、少しも寂しくなんてありませんわ。それに、間もなく息子も出来そうなんですよ。実の息子より優秀で優しい息子がね」
こう言うと、二人はマーサとアンナ、そしてマクシミリアンの顔を見て微笑んだのだった。
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