転 貝塚高志という男の記録
貝塚高志の指から便箋が落ちた。
彼の指は細かく震えている。落としたのではなく、落ちたのだろう。
壁を背にして座り、膝を抱える。表情はうかがえない。彼は顔をほとんど膝に埋めて肩を震わせた。
泣いているのかと思いきや、どうやら違うようだ。
低い声がまるでお経のように響く。
「まさか俺がまさか俺が……。そんなバカな」
そうやって数分間にわたり自らの膝に話しかけた。しかし返事があるはずもなく、再び告発文を手に取る。貝塚高志はひどく汗をかいていた。額に浮かぶ玉のような汗をTシャツの袖でぬぐい、彼の顔は女性の血で赤く染まる。
それすら気付かないほど熱心に読み上げた。
そこに書いてあることは、おおむね貝塚高志の記憶と合致した。
彼が十三歳だった時に作った自作のサイトと、そこでの冴木伊織とのメッセージのやりとりは間違いのない事実だった。
その後の五年間にわたるメールのやり取り。彼自身にとっては、もしかしたら空想にふけるだけの楽しみだったのかもしれない。ありもしないテロリズム計画を練り上げ、ヒロイズムに酔いしれる子供のように。
しかし彼の人生は、冴木伊織との出会いを経て大きく変わってしまった。
孤独だった汽車は、同乗者を乗せて走り始めてしまった。それも猛烈なスピードで闇の中を疾走した。暗すぎて彼には速度と行き先が不明になってしまったのかもしれない。
それでも一人ではなかった。
それが今はどうだ。
貝塚高志は女性の死体に目をやった。
その目には涙が溜まっている。
ふらりと立ち上がると彼はベッドまで歩き、力なく膝を折った。
「なんでだよ。なんでこんなことになんだよ……」
涙が頬をつたい、鼻水が唇までたれて泡を立てた。
密室に生きたまま一人となった彼を、最初に襲ったのは孤独感だったようだ。
「おま、おま、お前一人だけ」
言葉は続いたが、もはや意味のある言語とはならなかった。
冴木伊織と出会い、二人で話すうちに漠然とした欲望が、形のある計画となっていった。
しかし趣味嗜好を共有した冴木伊織は、もう車中にはいない。
冴木伊織は彼を残し途中下車してしまったのだ。
これからは貝塚高志ひとりでレールを走らなければならない。終着駅が絶望であったとしても。
貝塚高志に残された時間は残り僅かだ。待っているのは死か逮捕か。逮捕ののちに極刑が待っているとしたら、どちらにせよ彼には死しか残されていない。その貴重な一日目を、彼は泣くことで浪費した。
貝塚高志の眠りは浅かった。
二時間寝ては起きるを繰り返した。
まるで電極でも当てられたかのように痙攣して目を覚ます。そして告発文を読んで女性の死体を見つめた。そしてまた身体を丸めてソファーに沈む。それを幾度も繰り返す。
変化は唐突に起きた。
監禁後三日目、目覚めた彼の瞳は、孤独感よりも狂気が支配し始めた。明らかに、まばたきの回数が少なくなっていた。まるで人形のようだ。
ふらりと立ち上がると、あれほど見ていた死体には目もくれず、何を思ったのかソファーを引きずって部屋から出る。はじめは押そうとしていたが床板に傷をつけるだけだった。諦めたのかと思いきや、玄関側の脚を持ち上げ、強引に引きずった。
直後に大きな音が響く。
どうやら玄関の扉に立て掛けたようだ。
そして部屋に戻ってくるとせわしなく部屋をグルグルと回った。
時折立ち止まると携帯に視線を落とす。しばらく画面を凝視し、彼は電話をかける。相手は冴木伊織だった。
貝塚高志のかつての相棒の携帯電話はポケットの中で振動した。マナーモードにしてたのだ。しかし彼はそれに気付けなかった。
「まだ警察には知られてないのか? 今どうなってるんだ?」
貝塚高志が告発文を女性の上着から見つけた際、携帯電話は探し当てられなかった。そこで彼は冴木伊織が逃した女性に渡したと思ったようだ。
冴木伊織が携帯電話を手渡し、「さ、これで通報しなさい」といったところか。
しかしどうやらまだ通報された形跡はない。部屋に刑事が突入してくることも、彼の携帯になんらかの連絡がくることも、今のところなかった。
どうやら貝塚高志は警察を恐れて、扉にソファーを使ってバリケードをしたようだ。
監禁されているのにもかかわらずバリケードをはったのだ。まともな精神ならとる行動ではなかった。
よくよく見れば彼の顔面は青みを帯び、指先も小刻みに震えている。ソファーを動かす際も力が入っていないようだった。
どうやら低血糖からくる身体異常のようだ。
それもそのはずで、そもそもが餓死させるための部屋なのだ。
最初の被害者の時は幾らかの食料を置いていたが、結果として二人で後悔した。死ぬまでが長引きすぎたのだ。一人目が死ぬまで二週間を要した。それで計画の変更をしたのだ。
食料もいっさい用意せず、水道も止めた。どうやら人間は水だけでもずいぶん生きるらしい。そう言って実行したのは部屋の契約者の彼自身であった。
今まさに自分で自分の首を締めたのだ。
扉を塞ぎ満足したのか、貝塚高志は珍しく長い睡眠をとった。
監禁四日目。
死んだ女性の死体から異臭が漂い始めたのだろうか。しきりに遺体を気にしはじめる。
掛け布団を頭までかぶせていたが、それでも臭気を抑えることはできなかったようだ。死体を浴槽に捨てれば済む問題なのだ。実際にそうしたいようなそぶりを見せたが、死体に触れた瞬間、彼はまるで火鉢を触ったように、大げさな仕草で手を離した。
そして貝塚高志はこの日、ユニットバスに立て籠もった。
ときおり壁を叩く音が響いた。
監禁五日目。
貝塚高志の精神は三日目から覚醒と混濁を繰り返していたが、この日は覚醒に当たるようだ。
彼は三日ぶりに告発文を手にする。
一語一句見逃すまいとする眼球は黄色く淀み、月を映した沼のように光っている。
「誰が殺したんだ?」
まるで一日目のデータを再生しているような光景だった。
貝塚高志はふらっと立ち上がると、部屋の隅から隅まで何かを探し始めた。
「出てこいよ! いるんだろ!」
叫びながら部屋の扉を開くと、トイレやユニットバスを確認しているようだ。
貝塚高志の他に生きている者などない密室で、彼は空想上の犯人を探し続けた。
数時間が経過し、彼は部屋の中央でうつむいた。諦めたように見えたが、そうではなかった。
貝塚高志は床を地団駄を踏むように蹴った。
「ここだな!? ここにいるんだ▽☆‡……」
雄叫びをあげながら何度も何度も床を蹴る。
しかしすでに彼には体力は残っていないようだった。数分で息を切らすと、貝塚高志は嘔吐をした。
身体を横向きに倒し、もがき苦しみながらゲェゲェと吐く。しかし口から垂れるのはほとんど透明な液体だけだった。
涙と吐瀉物に顔を浸け、彼は「俺が……殺したのか」とつぶやいた。
理屈で考えればすぐにたどり着く結論に、実に五日もかけた。
「俺が、この手で、刺したのか」
記憶が蘇る。
女性の胸に包丁を突き立てた時、思ったように刃は刺さらなかった。肋骨に遮られたのだ。
女性は眼を見開いていた。意味がわからない、そんな顔だった。
すぐに刃の向きを横にし、女の首の裏を突き刺すイメージで刃先を押し込んだ。押し上げたと言った方が正解かもしれない。
今度は思い描いた通りにいった。
するり、とまではいかないが、刃は身体へと吸い込まれた。ほとんど手応えはなかったが、うっすらと筋を切断するような感触がした。
思いのほか血は出なかった。
そして思ったより、と言うよりも、まったく女性は自分が刺された事実を、事実として理解しなかった。
人間は心臓を刺されてもすぐには死なないことを、はじめて知った。
女性は魚のように口を開きながら、自分を刺した者の顔を見ていた。
「俺が、刺した」
貝塚高志は子供のように声を上げて泣いた。
それまでに二人も殺したのだ。これで三人目ということになる。日本の判例では、二人殺しただけでは死刑にならない可能性が高い。しかし三人目となると別だ。
貝塚高志という男の性格上、自身の罪に悔いて号泣しているのではないだろう。おそらくは、どのみち自分が助かる可能性がないことを察し、自身の境遇を憐れんでいるのだ。
監禁六日目。
部屋の中央で動かなくなっていたが、彼の目前にはクシャクシャになった告発文が散らばっていた。
唇は細かく動いている。まるで蠢く虫のようだ。
ついにまともに立ち上がることもできなくなったのか、貝塚高志は這うようにしてベッドまでにじり寄ると、死体にかけてあった布団を剥ぎ取った。
死後六日が経過した遺体は、目に見えるほどは腐ってはいなかった。これが夏ならば話は違っていただろう。
しかし崩れた顔は膨張している。腐敗ガスによる局所的膨満だろう。
かなりの臭気を放っているだろうが、貝塚高志はもはや気にした様子もなく、胸に刺さった包丁を抜いた。
そして女性が身につけている服を脱がす。小ぶりの乳房が露わになる。かつては白く美しかったであろう肌に、腐敗網が浮かび上がっていた。
貝塚高志は包丁を腹にあてた。
そして一言もなく突き立てる。ガスが抜ける音がする。しかし貝塚高志は気にしない。
彼の視線は、すでに現実から乖離しているようだった。
貝塚高志は女性の腹を下腹部まで裂くと、おもむろに手を突っ込む。こしてこねくり回す。まるで泥に埋まった金を探すように。
「な、い?」
そんなバカなと呟くと、彼は女性の内臓を部屋にぶちまけた。艶のなくなった腸が床で暴れる。それに紛れた部位を彼は探した。
もはや出血もない。実に探しやすそうであった。
目当ては胃袋だった。
再び包丁で切り込みを入れると、嬉しそうに手を突っ込む。まるでそこに希望が詰まっていると言わんばかりに。
彼は鍵を探していた。
告発文に書いてあった。
鍵は飲み込むと。
貝塚高志はそれを探していたのだ。
しかし見つからない。
仕方なく彼はほかの臓器もくまなく探す。
眼を覆いたくなるような惨状の中で、貝塚高志の眼は、これまで、それこそのうのうと生きてきたうちで、一番輝いていただろう。
それはもはや恍惚と言って差し支えなかった。
しかしそんな時間も長くは続かない。
彼は天井を見上げて絶望した。
鍵は、女性の、体内には、無かった。
監禁七日目。
臓器が撒き散らされた部屋で、貝塚高志は横になったまま動かなくなった。
よくよく見れば、微かに胸が上下している。
しかし、もう時間の問題だった。
彼が欲した、生と死の境は、もうすぐそこまでやってきているはずだ。
ほとんどまばたきもしなくなった貝塚高志は、予想外の行動をした。
彼は携帯電話を取り出すと、震える指で画面をタップした。私のポケットの中で、携帯電話が振動しはじめる。
彼が最期に電話をかけた相手は、冴木伊織、私だった。
少し考えてから通話ボタンを押す。
「最期の挨拶に私を選ぶとは思わなかったわ」と私は言った。
彼の息を飲む音が聞こえる。もはや声も出せないのだろう。
「大丈夫、心配しないで。ちゃんと見ているから。ずっと見ていたから」
パソコンの画面の中で、彼の手から携帯が落ちた。
「ああ、これが貴方のもっとも美しい瞬間ね」
私は息を吐き出した。
ため息だった。
「馬鹿みたいだわ」