起 密室
軽く身じろぎし、男は目を開けた。
視線の先には見慣れたはずの天井がある。四方をコンクリートの打ちっぱなしで囲まれたワンルーム。調度品は三人がけのソファーとダブルベットだけ。いたってシンプルである。
備え付けのキッチンからは存在感をまるで感じない。実用性よりも、部屋全体としてのデザインが重視されているようだ。
地下室のため窓もない。まるでお洒落な牢獄である。
普通の人ならば住むことに躊躇するこの部屋を、あえて探し出して賃貸契約したのは、他でもない今しがた目を覚ました男だ。
防音生が高く、身を隠せる場所の少ない部屋。防犯カメラは不要で、セキュリティーが甘いとなお良い。それが男のオーダーだったようだ。
男の名は貝塚高志。有名私立大学に通う、いわゆるボンボンというやつだ。本人曰く、上級ニートということらしい。ご当人はうまいこと言ったつもりだったようだ。しかし聞かされた友人は、内心鼻で笑ったと言っていた。
そんな、どこにでもいそうな男、貝塚高志は上半身を起こして不思議そうに辺りを見回した。
視線が数メートル離れたベッドに固定されている。
なんでこんなところで寝たんだ? そう顔が言っていた。
虚ろな様子で床を見て「ああ、そうか」と言った。
そこにはガラス製のパイプが落ちていた。手のひらサイズのものだ。床には灰がすこし落ちている。その脇にはチャック付きのビニール袋に入れられたマリファナが投げられていた。
「やりすぎたかのか……」
そう言うと、ベッドの方へと頭を傾けた。掛け布団が人間一人分の形に盛り上がっている。
貝塚高志は忌々しそうに舌打ちをした。
「おい、いつまで寝てんだよ糞アマ!」
足元を確認するようにゆっくりと起き上がると、ベッドの上にかけられた布団を剥ぎ取った。
貝塚高志が予想した通り、女性が寝ていた。友達以上であり、ある意味においては恋人以上の関係。その女が寝ていたはずだった。
過去形だ。
貝塚高志がよく知る、犯罪仲間の相棒であった。彼にとっては、同じ性癖をもち、秘密を共有する唯一の人間だった。それが数時間前までそこで寝ていた女だった。
女性の心臓の位置には包丁が生えていた。刺さっているというよりも、生えているようだった。まるでオブジェだ。肉のオブジェ。もうそれを女と定義することはできない。女性の顔はひどく殴られて原型をとどめていなかった。
「ひっ!?」
貝塚高志は女のような悲鳴をあげた。周りを気にするような、それは控えめな驚きの声だった。
驚愕は女性の死に向けられたものではなかった。
その証拠は、貝塚高志が「おい! 大丈夫か!?」といささか間の抜けた叫びをあげていたからだ。
おびただしい血が敷布団と掛け布団に付着している。女性の心臓あたりの血は黒く変色していたが、布団についた血はまだ乾いていなかった。
貝塚高志は女性の体を乱暴に揺さぶり、ようやく理解したようだ。すでに死んでいることを。
両手にべったりとついた血を見て、貝塚高志は腰を抜かした。口を開いたまま床を這うように後ずさりする。
壁に後頭部をぶつけても、そのまま後ずさりしようとする。目の前の現実から逃げ出したいのかもしれない。
「け、警察……」
思い出したようにポケットを弄る。携帯でも探しているのだろう。しかし貝塚高志は、血まみれになる自分の服を見て再び悲鳴をあげると、四つん這いで部屋から出た。
洗面所に駆け込むと同時に、勢いよく水が弾ける音が聞こえる。
「クソッ! どうなってやがる!」
激しく手を洗う音に怒声が混じる。
貝塚高志は部屋に戻ってくるなり血で汚れた服を脱ぎ捨てた。
上半身は裸のまま携帯を片手に持っている。
警察に通報するのかと思いきや、そのまま壁に背をつけてズルズルと床に座り込む。
110番などできるはずもない。
死体と大麻が同居する部屋だ。誰の目にも結末は見えている。ましてこの部屋は犯罪のために借りている部屋なのだから。
「なんだこりゃ。どうしてこうなるよ。誰が殺したんだよ……」
嗚咽のような情けない声を漏らす。
女性は明らかに殺されていた。まさか自殺で自らの心臓をひとつきにするとは思えない。他殺と考えるのが常識だろう。
貝塚高志に殺した記憶はない。
「……まさか俺が? いや、そんなバカな」
記憶はないが確信は持てなかったようだ。
思い出そうとしているのか、頭を抱えて激しく左右に振る。ときおり壁に後頭部を打ち付けたりもした。
一時間ほど経つと冷静になってきたのだろう。できる限りの証拠を隠滅し始めた。
床に落ちた灰を便器に流し、大麻も細かくちぎって同じように流した。パイプは流しで丁寧に洗った。
トイレの紙を持ってきて指紋も拭いた。床やキッチン周り、そしてためらいがちにだが、女性の身体から突き出た包丁の柄も震える手で拭いた。
傍目にも死体を恐れているような手つきだった。
あらかた拭き終えると、貝塚高志は脱ぎ捨てたTシャツを裏返しにして着た。チャコールグレーのTシャツだったので、表についた血は目立たなかった。
そして出口の扉に向かう。
その時の貝塚高志の顔には、ほんの少しだが安堵の色が広がっていた。
しかし貝塚高志は数秒後に慌てた様子で部屋に戻ってきた。
鍵がないのだ。
この部屋の鍵は特殊な作りになっている。内側も外側もシリンダー錠になっているのだ。
施錠された部屋から出るには鍵が必要だった。
貝塚高志はズボンのポケットを弄ったが見つからない。
ベッドの下を覗き込む。ソファーの下、背もたれと座面の隙間、洗面所やキッチンを探しまわった。
結果としてはすべて徒労に終わった。指紋も元どおりだ。
しかし成果がなかったわけではない。
女が持っているのでは? そう思ったのか、貝塚高志は死んだ女性の服も調べていた。
そして便箋に書かれた数枚の遺書を見つけた。