その感情は
それは私、ナリア=サーザンドが、ここランドグラッセル侯爵家へ奉公に来て数日が経った頃、いつもの様に休憩時間にハーヴェイ様とお茶をしていた時でした。
「デートよ! 貴方達、街へデートへ行きなさい!」
ばばーんっという効果音が聞こえてきそうなほどに意気揚々と義母様が仰ったのです。
「ハーヴェイ、ナリアさん、貴方達ちょっと穏やか過ぎるのではないかしら? もちろん悪くは無いのよ? だけど、何かこう…もっとそう、街へ出て刺激を受けてみてもいいのではないかしら!」
「母上…また急ですね。しかも漠然とした事を言って。こちらにも予定という物がありますし、と言うか母上達はいつまで滞在するつもりですか?」
「後三日はいるわよ。 それよりも予定なんて、どうせ仕事なのでしょ?一日くらいちょっと時間作りなさいよ。今ならラーグも居るのだし、書類の署名以外の細々とした仕事ならやって貰えばいいわ」
「ええ〜、ぼく仕事するの? せっかく隠居してるのに。まあナリアさんのためだと思えば少しは手伝ってもいいけど」
義父様も部屋の扉からひょっこりと現れ、そう言いながらこちらへと近づいていらっしゃいました。
そうそう、私この数日で義父様のお姿には随分と慣れる事が出来ましたのよ。
最初こそ、その全身触手での圧巻なお姿に驚き尻込みをしてしまいましたが、今ではどんな時でも失礼なく過ごせていると思いますわ。
…それに、どちらかと言えばハーヴェイ様への方がまだ少し驚いてしまいますの。
特に不意打ちだったりするとダメなのです。だって人だと思ったら少し違うでしょう?
それはもちろん、今も変わらずハーヴェイ様に好意はありますが、それとこれとはまた別の話ですのよ。
「はあ、そうは言ってもですね……うーん、ナリアは街へ行きたいか?」
え、私ですか? ハーヴェイ様が聞いて下さいます。
街で逢瀬ですか……ハーヴェイ様と街で逢瀬、街でデート…
良いですね! デート。
よく考えてみれば、まだ二人で外へ出た事がありませんでしたわ。
私も一応うら若き乙女、これでも恋愛の物語などを読んで、男性とのお付き合いというものに憧れを持っていたりしているのですよ。
なので、答えはもう決まっております。
「ご迷惑でなければ、行きたいです」「よしサルバ、街への見物経路をざっと取り決めるぞ」
うふふふ、楽しみで顔がにやけてしまいますわ。
「呆れる程の変わり身の速さね。はあ、それにしてもやっぱり女の子は良いわぁ。癒されるわぁ」
「うんうん、今のうちに二人でゆっくりしてきなよ」
「ナリア、どういう所へ行きたいか大体でいいから後で教えてくれ」
皆さま本当にお優しいです。それでは有り難くお言葉に甘えさせて頂きましょう。
街へ出るなんて久しぶり、とっても楽しみだわ。
――――二日後
「ハーヴェイ様、あそこのお店の装飾、とても可愛いですわ」
「ふむ、あの店なら行っても大丈夫だぞ」
「嬉しい! では中に入ってみますわね」
今私達は先日話した通り、街へと出てきています。
他愛もないお話をしながら色々な場所へと巡る、ただそれだけなのですが、ハーヴェイ様と初めての街デートという事もあって、とても楽しいですわ。
もちろん少し離れた所には護衛の方々が数名待機してくれていますけど。
街でのハーヴェイ様の服装は屋敷でのスーツ姿の様な普段着とは違い、膝下近くまであるローブを羽織、頭にはそのローブに付いているフードをすっぽりと被って触手を全て隠してしまっています。
何故そのようにフードを被っているかと聞いてみましたら、侯爵家当主であるハーヴェイ様のお姿は、この街の人族の皆様も何となく認識はしているのです。
ですが、やはり分かってはいても人族の、特に若い女性は怯えてしまうらしく、それを少しでも和らげるために今のような格好をしているのだ、という事でした。
…う〜ん、正直その大きな紅の目がフードからチラリと見える方が、私は怖いと思うのですが。それにフードもゴソゴソ動いていてボコボコとしていますし。
今もその異様な気配に、人族に限らず周囲はハーヴェイ様を遠巻きにしているのですが…
まあ、特に問題は無いのでいいですね。
あら、この髪飾り、とても素敵だわ。
「それが気に入ったのか?」
「はい、このお花の部分がとても可愛いらしくて」
「では、それを」
「ハーヴェイ様が買ってくださるのですか?」
「勿論だ、これはデートなのだろう? こ、恋人に贈り物をするのは当然の事。しかも二人での初めての街デートだ、折角なのだから記念に私がナリアに贈りたい」
少し待て。そう言ってハーヴェイ様はフードを物凄くゴソゴソさせながら照れているように微笑み、そのまま素早く髪飾りの勘定を済ませに行ってしまわれました。
…何故だかそのお姿を見ていたら胸が苦しくなってしまいましたわ。今日の体調は万全な筈なのですが…
それとも初めて見るフードの様子に恐怖を感じているのかしら?
「ナリア、待たせた。これを」
「は、はい、ありがとうございます。あの…大事に、いたします」
「ああ、喜んでくれたなら私も嬉しく思う」
「…………」
髪飾りを受け取り、少し俯きながらもハーヴェイ様にお礼を言ったは良いものの、その後の言葉がどうも続きません。ど、どうしましょう…と私は内心狼狽えていたのですが、
「さ、さて、ナリア、少し疲れたのではないか? サルバによるとこの辺りに街で評判の喫茶があるらしい。そこで少し休憩しよう」
そんな私の困惑した空気を払うかのようにハーヴェイ様が気を使って下さいました。
もう、私ったら何をしているのかしら。しっかりしないと。
「そ、そうですね」
そうですわ、ここは美味しい軽食などを食べて一旦心を落ち着けましょう。ええ、そうしましょう。
そう思い、ハーヴェイ様と歩き出そうとした時でした。
「あら、あなたもしかして、ハーヴェイじゃない?」
背後でハーヴェイ様の名前を呼ぶ、女性の声が聞こえたのです。
「む、ああ…ゼラリアか」
――ツキンッ…あら、何かしら、胸が…
「やっぱりハーヴェイね! フードでちょっと悩んじゃったわ。
久しぶりねー、最近何してたの? 全然顔見ないし話も聞かないから、とうとう意地けて屋敷へ引きこもったのかと思ってたんだけど」
「失礼な奴だな。私は今まできちんと侯爵家当主としての仕事をこなし、今日は久方の休みを取り街へ降りてきたのだ。
ナリア、すまないな、いきなりで驚いただろう。こいつは学院時代からの顔見知りでな、魔族で名前はゼラリアだ。今は何をしてるかは全く知らないが」
ぜらりあ、さん…魔族…女性…綺麗な人…ハーヴェイさまと仲良し?…ズキズキズキズキ…
――うぅ、やはり胸が痛くなってきました。おかしいですわ、自分では分からなかったけれど今日は体調が良くなかったのかしら?
「もう、相変わらずね。今は魔族領でちょっとした小売商みたいな事をやっているのよ。それで今日は仕事関係の用事でこっちへ来たの。
それよりも何この可愛らしい人族の子。何であんたと一緒にいるの? 攫ったの?」
「ば、バカを言うな! ナリアは私の、私の…こ、こい、恋人だ!」
あら、胸の痛みが消えましたわ。
「いやいやいやいや、え? 本当に? そうなの? だって人族よ? あなたが恋人として一番遠ざけてた種族の女性じゃない」
ズキンッ――うっ、また痛くなってきました。
ハーヴェイ様、実は人族が嫌いだったの? では本当は、人族の私では ハーヴェイ様に不快感を…ってそんな訳ないですわ。義母様は人族ですもの…そうでしょう? そうですよね?
ふう、嫌だわ、胸の痛みのせいで物事を冷静に考えられなくなってしまっています。
「それは人族女性の大半が私を見ると叫び気を失うからであって、決して嫌いとかそういうものではない」
ほらね、そうですよね。
ほっとしたお陰か胸の痛みも治まりましたわ。
「えー、そうなの〜ハーヴェイに恋人ねぇ、奇跡だわ。
ん? てことは、やだ! じゃあ私ったら今もの凄く邪魔してる!?」
「ああ、その通りだ。分かったなら早く行ってくれ。仕事で来たんだろう? こんなとこで油売ってて大丈夫なのか?」
「冷たい!でもほんとだ! もうこんな時間! 待ち合わせ場所に行かなきゃ! 彼女さんとも話したかったけどそれはまた今度にしておくわ! じゃあまたねー! あ、ハーヴェイおめでとうー! 捨てられないように気をつけてねー!」
…結局、私が挨拶も何も言葉を発する事が出来ないまま、忙しなく行ってしまわれましたわ。
「……お茶へ行くか」
「……はい」
それからは何事もなく、ハーヴェイ様と楽しい一日を過ごすことができ、無事に屋敷へと帰って来ました。
ですが…一体あの胸の苦しみや痛みは何だったのでしょう?
義母様や義父様にデートの様子を話し、そして改めてお礼を言い、その後自室に戻りハーヴェイ様に買って頂いた髪飾りを取り出して眺めてみました。
そうして、今日の気持ちを思い出すのです。
…苦しいのは悪い気分ではありませんでした。けれど、痛いのは何かこう、目の前が暗くなりそうで泣きたくなってしまったのです。
やはり少し具合が悪かったのかしら? でも今は何ともありませんし。
うーん、けれどまあ、分からないものは考えても仕方ないですわね。今回だけの事かもしれないですし。
次にこのような事が起きたら、一度ハーヴェイ様に相談してみようかしら? ええ、それが良いわね! そうしましょう。
それよりも今日のデートですわ! 本当に楽しいひと時でした。そうそう、最初にあの店へ――…
ナリアの自室扉の隙間から見える二つの人影…
「ねえマーサ、私の 〜街へ出て、いつもと違うあなたにドキドキ作戦〜 は上手くいったのかしら?」
「さあ、でも、坊ちゃんが買ったと言う髪飾りを見るナリア様の表情はとても楽しそうですけど」
「話を聞く限り、相も変わらずほのぼのと過ごしたようだし。もう、ハーヴェイがもっとこうガッとしてグッとすれば良いのに〜」
「坊ちゃんには無理ですよ。贈り物をしただけでも頑張った方ではないですかね」
「……それもそうね」
苦しい=胸キュン
痛い=嫉妬&やきもち
愛には気付けても、その中にある複雑な感情には鈍感なナリアなのでした。