第參話:流されているのは私たち人間 下
「悲しみを含んだ言い方のほうが、あとのシーンにも味が出てくるだろ?」
「あたしは難しいこと考えずに笑ってたほうが良いシーンになると思う」
「いや悲しみは含んでるけどそれを顔には出さないんだよ。次のカットでふっと表情を変えることで重みが出る」
「それはヒロインが去ったあとの話だろ。ヒロインに伝わるからこそ、二人の微妙な心の距離感が表現出来るんじゃないのか?」
「いやだから主人公はそんなに深く考えてないんだって! 気合いで解決してやる! ってくらいの心持ちでいる筈だよ」
「悲しみは含んでる。だけど主人公の心情としてはヒロインに悟らせまいとするのが第一なんだよ」
沈黙。
「……」
この日映像研究部は、珍しく揉めていた。
学校内シーンでの主人公の表情に於いて、俺と大地と蓮の間で意見が割れたのだ。
「城之内はどう思う?」
総監督城之内は、右手の細長い指で顎を押さえながら、うーんと唸った。城之内のこんな表情も、なかなか珍しいものだ。
「脚本を書いている段階では大地の考えるようなシーンをイメージしていたけど、アカバのイメージも良いと思う。正直、迷っているわ」
再び沈黙。
蓮は『何も言われずに却下された』とでも言いたげに唇を尖らせて眉毛を八の字にしている。
「――面白そうなことをやっているそうじゃないか」
渡り廊下のシーンで、全員が床に置いた台本を向いて喋り合っていたので、俺たちは後ろから足音もなく近付いていた白衣に、全く気が付かなかった。
突如として後ろから掛けられた声に、俺は身体を震わせて反応した。派手に驚いた蓮と大地は、後ろを振り返って更に驚いている。城之内は、というと、その声の主に少し頭を垂れていた。
濃い茶色のボサボサ頭に、銀縁眼鏡、そして無精髭。平井だった。
「せ、先生……珍しいですね、準備室から出てくるなんて」
敬語は使っているが言い回しが失礼だぞ、大地。
「まるで僕が引き籠りみたいな言い方だな。なに、煙草仲間の伊藤先生から、最近映像研究部が活動的でよろしいとの好評をいただいたのでね、一体何をやっているのかと思って見に来れば、随分懐かしいカメラを持ち出しているじゃないか。映像作品を作っているのかい」
俺も大地も蓮も、唖然だった。
部室の鍵の受け渡し時には「ん」「お疲れ様」くらいしか喋らない平井が、人並みに喋っている。それどころか、普段は表情一つ変えない平井が不気味な程にこやかだ……! 怖い……!
「先生怖い……!」
口に出すな、蓮!
平井は少し笑うと、こう続けた。
「まあ普段はあまり喋らないし、そういうイメージを受けていても仕方ないか。それよりもその台本、見せてくれないか」
目玉クリップで止めた台本を城之内が拾い上げ、どうぞ、と平井に手渡す。「ふうん」、「へー」、等と言いながら、凄まじいスピードで台本を読み終えた平井は、どうもありがとう、と城之内に台本を返すと、無精髭の顎を擦りながら、何やら嬉しそうにした。
「なかなか面白い本だね。成程、それで渡り廊下のシーンの主人公の表情作りに悩んでいたという訳か」
さっきの会話も聞いていたという訳だ。
「先生は、どう思われますか」
そう聞いたのは城之内だった。
いや、顧問だからと言って急にそんなこと聞かれても、困るだけじゃないのか?
「僕なら思い切って、ヒロインは主人公に対して後ろを向かせるね。こうすることで主人公がどんな表情をしていようが彼女には見えないので関係なくなる。ついでに言えばカメラは反対方向から、詰まり二人の顔が同時に映る廊下の北側から回せば、主人公の悲しい表情も、主人公に対して後ろめたさを感じているヒロインの悲しい表情も映すことが出来る。どうかな」
成程、今までこのシーンのカメラは南側と北側で順に撮影して、向かい合った二人の表情が交互に映るような構成だったが、二人に同じ方向を向かせることに依って、お互いに表情を悟られずに済む上、カメラの向きが一定になって映像も安定するという訳か。
「流石です。その方法で撮影させていただいてもよろしいですか?」
殆ど喋ったことのない平井を、さっきから随分と信頼しているようだな、城之内。
「勿論構わないよ。後輩の手伝いが出来て嬉しい限りだ」
そうそう荒廃、いや交配、いやいや後輩……って後輩!?
「後輩……?」
不可思議そうに平井の顔を覗き込む蓮に、平井は頭の後ろを掻きながら笑って答える。
「実は僕は二十年程前、この学校の映像研究部に所属していてね。城之内は知っていたようだけれど」
二十年程前、というと、伝説に聞く映研黄金時代を経験しているということか。道理で今読んだ台本にカメラの映し方までアドバイス出来るものだ。
「そうなのか、城之内」
「物置の清掃時に名簿を見付けて知ったわ。当然あなたたちも知っているものだと思っていたのだけれど」
驚いたままの蓮が続ける。
「初耳だよ……! 寝耳にミミズだよ!」
不意の出来事に驚くという事例としては間違っていないが、一体どんな状況だ!
「そういえばさっき、懐かしいカメラって……」
「ピンと来たようだね、帳。部室で話そうか。橘氏もなんだし」
教師相手に気は引けるが、凄まじく誤字だ!
部室に移動して話を聞いてみれば、例のカメラは平井の現役時代に購入したものだったのだとか。数年前にこの学校に赴任すると同時に、かつて映研に所属していたことが教師陣の間で判明し、やるつもりはなかったものの映研の顧問にされてしまった、とのことだった。
映画を見るだけの腑抜けた部活に成り下がっていると知って落胆し、部活にはほぼ顔を出していなかったが、前述のとおり伊藤教諭から、最近映研が活動的であるとの情報を聞き付け、今日は試しに覗いてみたのだという。
「へえ~~~、そうだったんだ~~~、へえ~~~~~~」
蓮は未だに、珍しい動物の習性でも教えてもらったかのような表情で平井を凝視していた。
「それで、回想シーンのヒロイン役の話だったね」
そうだ。会話の途中で回想シーンの話にもなったので思い切って口を挟んでみたのだった。
「確かにうちの娘は年頃的にも丁度良さそうだ。本人にも確認してみるので、明日まで待っていてくれるかい」
城之内が頷く。
「勿論です」
平井はそれを聞いて満足そうに立ち上がり、次を続けた。
「あのカメラで、こうして後輩たちが映像造りをしてくれてると思うと、昔に戻ったようで嬉しいよ。他にも手伝えることがあれば言ってくれ」
去り際、「三人共、良い新入部員を獲得したな。城之内、これからもよろしく頼むよ」と平井は言っていた。今までが今までだっただけになかなか実感が湧かないが、思っていたよりもずっと表情豊かで面白い教師なのかも知れない。
*
八月も半ばに差し掛かり、暑さはいよいよピークに迫りつつある。
「あああ、ええええっと」
そんな中、我が映像研究部室では、
「第……第、何回?」
「六回」、と大地。
「第六回、脚本せ、いさく、かいぎあああああああ暑い」
エアコンと共に、雨崎蓮が壊れていた。
「アカバ、暑いわ」
それは尤もだが、残念ながら俺にはどうすることも出来ない。
「修理は頼んでみたけど、三日後になっちゃうみたいだよ。製作熱心なのは良いけれど、熱中症には気を付けてね」と、平井は言っていた。設定温度二十一度の化学準備室で。暫くはこれを貸しておこう、と扇風機も貸してくれたが、首を振る度に関節部分が不吉な音を立てる壊れ掛けだ。依って現在映像研究部室では、元々あったものと合わせて二台の扇風機が回っている。が、送られてくる湿った温い風は、寧ろ不快である。
「時にアカバ」
何だ、城之内。
「プール、というのを知っているかしら」
ソファでぐったりとしていた蓮がピクリと動く。
「人を何だと思っているんだ。流石に知っている」
「あなたがプールを知らない可能性を考慮して質問している訳ではないわ。察しの悪い男ね、私にモテないわよ」
それは分かるが文句の付け方が高飛車過ぎる!
徐にソファから飛び起き、蓮は腕を振り上げた。
「プールいくぞおおおおお」
冬眠から目覚めた、熊のような呻き声だったという。
数時間後、学校からバスで数十分の地点にある遊園地内のプールに、俺たちはいた。
「全く、この部活のフットワークの軽さにだけは感心するよ」
先に着替え終えた男二人は、プールサイドで城之内と蓮を待っていた。
「ま、撮れるシーンもとりあえず手詰まり、流石にエアコンなしの部屋で脚本会議も厳しいし、たまには息抜きも骨抜きも良いんでねーの」
それも正論ではあった。天候の問題や平井の娘さん――役については快く承諾してくれた、名前は香苗ちゃんと言うそうだ――との日程調整に手間取っており、今日は今後の撮影の日程等についての会議を執り行うということで部室に集まったのであった。
(骨抜きはしないが)
「毒抜きは?」
「毒抜きする程の毒も溜まっていない。他人の心を読むな」
つれねーの、と大地はぼやくが、男二人の時くらい、ツッコみは穏やかにさせて欲しいというものである。
そうこうしているうちに、城之内と蓮が女子更衣室の方面からやってきた。
「お待たせ」
「イェイ!」
蓮はクリーム色の髪を後ろで一つに結い、前髪はピンで留めていた。紺、白、オレンジの三色ボーダーになっているワンピースを羽織っており、その下にはまた別の水着を着ているようであったが、勿論それがどのようなものであるかは俺には知る由もない。ただ一つ分かることは、こいつは小学生の頃からサイズは変わっている筈なのにずっと紺と白とオレンジのボーダーの水着を着ているということだ。一体何処で調達しているのだろうか。
一方城之内は、髪をシニヨンにして纏め、額にはウェリントンタイプのサングラスを掛け、黒地に白いリボンの装飾が付いた、ホルタ―ネックのビキニスタイルだった。派手過ぎず地味過ぎず、城之内によく似合っている。少なからずあった期待にも十二分に応えてくれていた。一つ言わせてもらうとすれば、スタイルが良過ぎる。とても同い年の高校二年生とは思えない。いや、それは普段から感じてはいるが、今日はいつにも増しておかしい。違和感すら覚える。さてはこの女――、
「気付いたようねアカバ。そう、この胸は偽り。盛って寄せて上げているだけよ」
モノローグとはいえ言い掛けた俺も悪かった、が、
「ロマンもへったくれもないネタばらしはやめろ!」
然し、隠れるべき部位が隠れているとはいえ、普段は――当たり前だが――服を着ている女性に、いざ目の前で水着姿になられてみると、流石に目のやり場には困る。
「また変なことを考えているのね。何処でも好きなところを好きなだけ見れば、いえ、観れば良いじゃない」
反応に困るので無視をしておこう。
「助平ね」
今日の城之内は、若干不健全である。
俺たちはプールサイドに荷物を置いて、とりあえず流れたい、という蓮の要望により、流れるプールへ赴いた。
平日とはいえ夏休み、そして正午過ぎの一番暑い時間帯ということもあってか、人が多い。ましてやこの炎天下だ。何の予定もなくても、ふらっとプールへ出掛けようと思う人も少なくはないだろう。今日の俺たちのように。
「はああああ極楽極楽、人類は海から来たんだねえ」
蓮は浮き輪の淵に、玉座の肘掛けのように腕を乗せて目を閉じ、そう言った。
人類が海から来たかどうかは兎も角として、ここはプールだ。
「水は水でしょ~。三.四%程度の塩分が含まれているか、次亜塩素酸カルキ詰まり塩素が殺菌・消毒・消臭等の目的の為に使われているかの差であって」
いつもの口調で小賢しい豆知識を披露されても唐突過ぎて頭が付いていかないぞ!
「ちなみに海水に塩分が含まれているのは、この星に海が形成された時には酸性だった海水がアルカリ性の地殻を溶かして中和したことに依るものである。観測地点に依っては塩分の濃度は或る程度ばらつきがあり」
眩しさからか眠気からか目を閉じたまま、そう言いながら蓮の姿は人と水の流れに飲まれて消えた。
「アイツ調べ出すと止まらないとか言って妙な知識やたら蓄えてんのよな~」
そう言いながら大地も、蓮を追って人並みに消えていった。
そう言えばそうだ。そしてそれを蓮が語り出すと、例外なく留まるところを知らない。
次亜塩素酸カルキが含まれた水の流れには、城之内と俺の二人が取り残されてしまった。
「時にアカバ」
ああ、然しこちらも雑学談義が始まりそうな流れである。
「安心なさい。これは雑学ではなく私の持論と提案よ」
「そりゃ良かった、どうぞ続けてくれ」
こうして水の流れに浮いていると、蓮ではないが確かに『海に還った』ような感覚がある。炎天下の熱と塩素水の温度差、それから緩やかな水の流れは、俺を少なからず眠くさせた。たまにはこうして静かに城之内の話を聞いているのも悪くない。
「燃やせるゴミ、というじゃない」
燃やせるゴミ、というが、それがどうした。
「私たちがまだ小学生だった頃、燃やせるゴミは燃えるゴミと呼ばれていたわ」
そう言われればそうだったかも知れない。
「燃えるゴミという名称が燃やせるゴミに変わった背景には、細かいことを気にする或る男が『全てのものは燃えるのだから、燃える燃えないという分別はおかしい』と異議を唱えたことが原因としてある、という噂を、あなたは知っているかしら?」
「つい数十秒前までは知らなかった筈なんだが、俺の目の前にいる奴が、今しがた都合良く全て教えてくれたよ」
「あら失礼、質問と解説の順番を間違えてしまったわ」
わざとだろう。
「てへぺろ」
それで、その話は何処にオチるんだ?
「こう思うのよ。いま私たちがいるこの『流れるプール』」
ああ、そういうことか。
「詰まりプール自体はそこに存在しているだけで流れてはいない。だから流れるプールという名称はおかしいと、そういうことを言いたい訳だな? 城之内」
「珍しく察しが良いじゃない。私にモテるわよ」
そりゃ良かったよ。
「それで、お前はどんな名称を提案するんだ? 『流されるプール』か?」
城之内は一呼吸を置いた。いつの間にやら額から鼻に掛け直され、本来の役目を全うしていた大振りのサングラスを、またしても額に戻すと、そのまま眩しそうに空を見ていた。
「あなたが言ったように、プールはそこに存在しているだけ。そして流されているのは私たち人間。流されるプールという名称も、ないではないわ。ただ『流される』という言葉の持つ多重の意味は、そこに「何が流すのか」「何が流されるのか」「プールが流されているのか」という新たな疑問を生むことになってしまう」
話が段々複雑になってきたが、理解は出来る。詰まり『流される』という語が形容し、される語は何なのか、ということだ。
ただ、流れるプールという物体の存在を認識している多くの人々がそんな疑問を抱くかどうか、ということは今は恐らく別問題なのだ。
「流れる、ということを主体に考えて、私の提案する名称は『流れる水』よ」
話の行き着く先は兎角、今日の城之内の水着姿だが、見れば見る程様になっている。十七歳という大人と子供の間を揺れ動く微妙な時期に、――勿論城之内のスタイルの良さもそこには由来しているのだろうが――特に水着という露出度の高い衣装で、ここまで年相応の着こなしをするのはなかなか難しく見える。大人の魅力を醸しつつ、若々しい瑞々しさも併せ持つこの感じ、『大人kawaii』と呼んでみるのはどうだろう。
「詰まらなくはない」
揺らめく陽炎と水景の向こう側に、薄らと城之内の姿を見据えながら、佳境に入りつつある映画製作を思う。
文化祭での第一回上映まで、凡そ一ヶ月半。進捗は全体の五割程度だ。後半戦、更に首尾良く進めていかなければならない。
浮き輪から見上げる青の中に、白く光る月がぼんやりと浮いていた。蝉が五月蝿い。夏だった。