第參話:流されているのは私たち人間 上
「カット!」
八十歳まで生きるとして、夏はあと六十回くらいしか来ないらしい。
「カット!」
なお、これまで過ぎた分も含め、その八十回の夏の中に、同じ夏は二度とないという。
「カァット!」
ところが俺はそんな現実に、白目を剥いてこう言ってやりたい。
「カァアット!!」
だから、どうした(白目)。
「カット――!!」
「お前はカットって言いたいだけだろ! 大地!!」
てへぺろ。
学校近く。某コンビニ。
「これ俺のね」
「あたしこれ」
「私はこれで」
三人揃って俺のカゴにアイスを入れるな。
「奢ってくれるんだろ?」
「奢ってくれないの?」
「あなたの秘密を知っているわ」
\543。
(何故こうなる……?)
「簡単だと思ってたけど、上手くいかないもんだなー」
アイスを齧りながらそう言う大地、半分くらいのシーンを上手くいっていたにも拘らず止めたのはお前だからな。
「ま、夏はまだまだ長いからね! 三〇分ものくらいパパーッと撮れるでしょ!」
油断してると終わるのも夏だけどな、蓮。
「そうね」
会話に参加する振りしてるけど、お前は一人だけ高級アイスで、食うほうに夢中だろ、城之内。
「――折角奢ってもらえる時に、贅沢しなくていつするか」
ふ、とこちらを見て、彼女は口角を上げた。
「今でしょ」
何処かで聞いたようなフレーズだが、
「お前はカリスマ予備校教師か?」
「いいえ、これは亡き祖父の遺言よ」
ツッコみ辛いが、死に際にすごいことを言うんだな……?
「勿論嘘よ」
ああ分かっていたよ。
それにしても、俺たちの救世主であるアイスと言えど、夏の日差しにはあっさり負けて、どんどん溶けていってしまう。それを追うように下から下から食べていくうちに、まだまだあると思えばなくなっている。
まるで――、
「まるで夏ね、アイスとは」
「俺もそれ、いま丁度思った!」
「あたしなんか一昨年の夏には気付いてたからね!」
夏みたいだ。アイスと共に、どんどん溶けていくこの時間は。
某高校二学年、映像研究部所属、赤羽俊介と三人の愉快な仲間たちの映画撮影、並びに、
「みーんみんみんみんみんみんみん」
二〇四八年の、八月が始まった。
*
「タイトルは、【脆弱な日常】です」
数日前、大地からのメールで部室に召集がかかり、そこで城之内にこの【脆弱な日常】の台本を渡された。
予定上映時間は三〇分程度で、主演は城之内と、俺だった。
「俺なのか」
「そうよ。文句があるなら監督に言いなさい」
ふと、監督の項目に目を移す。城之内美鶴、とある。
「お前じゃないか!」
城之内、柄にもなく嬉しそうだ。
「あなたは時々本当に失礼なことを言うわね」
おっと、
「口に出ていたか?」
「出ていないわ」
他人の心を読むな。読心術か!
「いいえ、私に読心術のスキルはないわ」
質問はしていない。そしてしつこいようだが他人の心を読むな。
「謝ります」
重ね重ね、他人の心を読むな!
「……」
そんな目で睨むな、心を読まれたほうがマシだ!
「注文が多いのね、アカバ?」
俺がツッコまなければ誰がこの会話にオチを付けるんだ、とは言わないでおこう。
「そうだな、城之内」
ざっくりと映画の内容を説明すると、以下の通りだ。
首都郊外に暮らす高校三年生の主人公のもとに、夏前の或る日、小学五年生まで隣の家に暮らしていた幼馴染の女の子が引っ越してくる。然し、幼馴染は記憶を失っており、主人公は幼馴染の記憶を取り戻す為に、夏休みを利用して幼馴染との思い出がある場所を二人で巡る。徐々に記憶が蘇ってくるものの、最後に思い出してしまった記憶へのショックに、幼馴染は姿を消してしまう。
それは、自分は中学二年生の頃、交通事故に巻き込まれて既に死んでいる、という記憶だった。
最後の思い出の地で主人公が彼女を見付けた時、幼馴染の身体は消えかかっており、夏の終わりと共に、彼女は再びいなくなってしまう。
ありがちじゃない話ではないが、見せ掛けハッピーエンドが嫌いな俺でも、これを読んだ時には、成程それを作っているほうに悪気はないのだと思えてしまった。
何より、城之内の脚本は想像していたよりも、ずっときっちりとしていた。
「みっつー、ホントに書くの初めてなの?」
一番最後に読み終えた蓮も驚いた様子だった。
「推敲は数え切れないし、書き直しがなかった訳ではないわ。けれど脚本を書いたのは本当に初めてよ。いえ、いっそ前世から書き続けていたと言っても過言ではないのだけれど」
何が「いっそ」なのか説明してもらいたいものだ。
「でも良いじゃん、この話! 俺が監督やりたいくらいだ」
「勿論、私が出ているシーンでは他の人に見てもらうし、カメラも回してもらうわ」
何かを思い出したように、丸椅子から立ち上がる大地。
「監督と言えばさ、こないだの片付けの時に、出てきたんだよ。これ!」
かんっ、と良い音を鳴らしながら、秘密の部屋、もとい物置きから大地が引っ張り出してきたのは、監督の代名詞とも言えよう、カチンコだった。
それを見た蓮は、馬鹿にするように鼻を鳴らして次を言う。
「監督のイメージ強いけど、それを監督が使うことって滅多にないからね?」
それは俺も知らなかった。が、その言い方、
「蓮、その知識は昨日付けてきたな?」
「ぎくっ!」
それは擬音だ。
「えへへー」
とりあえず、と城之内。
「総監督は私がやるとして、役者のマイクやBGM・SEを調整する音響関係を蓮に、」
頷く蓮。
「レフ板やライト調整の照明担当を大地に、」
おう、と大地。
「役者の演技担当、それから助監督を、あ、赤……、そう、アカバに頼もうと思っているわ」
名前も思い出せない人間にそんな大役を任せて大丈夫なのか?
それにしても、知り合ってからこの短い期間で情報収集が良く出来ている。映画のサントラを含めた大量の音源を雨崎家――蓮の本家のばあちゃんが所蔵していることは兎角、大地の家の親父さんが車関係の仕事と趣味で、多様な照明を持っていることも知っている上での人選だろう。
「それだけじゃないわ」
「何だ」
首振り扇風機の温い風が、額の汗をじんわりと冷やす。
「私は、あなたが本当はとても気配りの出来るかなり真面目な人間であることも知っています」
唐突な敬語だが、
「そこまで言われちゃ有り難いね」
助監督の遣り甲斐もあるってもんだ。
*
映画の撮影が本格的に始まって数日が経った。
この時期のこの地方は、別段雨が少ない訳ではないが、映像研究部もとい、撮影チームに雨は貴重だ。
「蓮! バス来てるから走れ!」
この脚本で雨の場面は三度ある。一つは美術館の場面、あとの二つは堤防の場面だ。堤防の場面は現在と回想で二度あり、それらは土砂降りが望ましい、と城之内は言っていた。
無論のことながら雨を降らせる機材までは揃っていないので、自然発生を待つしかない。土砂降りの雨も、ないことにはないにせよ、ゲリラ豪雨に依るものが半数以上を占め、堤防まで移動することが難しかったり、撮影機材を持っていなかったり、全員が揃わなかったりと、なかなか撮影まで漕ぎ付くことが出来ずにいた。
「あっ待ってスイカ出てこない~」
「そんな小振りな鞄から西瓜が出てくるか!」
傘と重い機材を持って雨の中を走っていようが、ボケ担当たちは俺を休ませてはくれない。
「そうよ蓮。出てくるとすればそれは、その鞄が未来の世界の四次元ポ――」
「やめろ!」
良いから走ってくれ、バスが行ってしまう。
「アカバ、今日はツッコみにキレがないわ」
乗車早々、まだ息が切れてるのにこれ以上喋らせないでくれ。
そして俺の隣を同じ速度で走っていたにも拘らず何故お前は汗一つかいていないんだ……。
「私のお蔭ね」
何も言っていないのに自己完結した!?
ともあれ、今日は予報通りの小雨となった。俺たちは美術館のシーンを撮影すべく、町外れにある小さな美術館――『犬吠崎美術館』を目指していた。
撮影許可は容易に降りた、と蓮と大地は語っていた。美術館、とは言っても、従来の美術館のような堅苦しい雰囲気は全くなく、オーナーがいつもうろついていて、お客に気さくに話し掛けてくるような美術館だった。これにはそもそも、小金持ちで絵画好きのオーナーが、自宅を改装して作っただけのものであるという背景がある。『犬吠崎』という名前すら、オーナーの苗字をそのまま使っただけのものなのだ。
そして蓮の親父さんがそのオーナーと気心の知れた仲らしく、蓮も幼い頃から度々この美術館に遊びに来ていたということだ。大地も何度か来たことがあるという。
「然し良かったよ。知人のツテとはいえ、定休日に撮影の為に無料で開けてくれる美術館なんてそうないだろうし」
折り畳みの傘を、雨粒が周りの人に掛からないようにそっと畳みながら、大地はそう言った。
「おじさん馬鹿みたいに良い人だからね~。困ってる人見るとすぐ助けるし、私が行くといつもチョコレートくれるの。海外の。たっかそうなやつ」
「変な絵を高額で売られたりしてないと良いけど」
縁起でもないことを言うな、城之内。
「ない話ではないわよ。私の知っているところでもこんな話があるわ」
バスのワイパーが小雨の粒を舐め上げるように拭き取る。
「これは私の話ではなく、私の知り合いの或る男性の話なのだけれど」
それは俺の話ではないんだろうな。
「或るところに、とても心の優しい男が住んでいました」
昔話か!
「首都の高層マンションの最上階で優雅な暮らしを送っていました」
やっぱり現代か!
「或る日男の家に、一人の商人が訪ねてきました」
単語と喋り方ががいちいち御伽噺っぽいから、普通にセールスマンと言おうか。
「商人は西からやってきたと名乗り、首都の近辺では絶滅したと言われている『蛙』を売っていると言います。男は爬虫類や両生類が好きでしたし、幼少期を西の地方で暮らしていたこともあり、懐かしさも相まって蛙を購入しました」
セールスマンが蛙を売り歩く辺り本当に現代なのか怪しくなってきたが、まずは最後まで聞こうか。
「一週間後、再びその商人が男の家を訪れると、男は今度は焦ったように蛙を十匹購入し、商人に次はいつ来るかと尋ねます。商人はまた一週間後に、と答えました。そして次に商人が訪れた時、男は血走った目でこう言います。蛙を五十匹くれ、幾らでも支払う、と」
分かった、と蓮。
「蛙には麻薬効果があった!」
誰もが初めに思い付く答えだが、そんな蛙は聞いたことがないし、そんな蛙も、日常的に蛙を食す人間も存在して堪るか。
「違うわ」
大地、何を言うかと思えば神妙な面持ちで次を言う。
「蛙だと思ったら実は土くれだった……?」
人だと思ったら竜だったり、豚だと思ったら両親だったりするトンネルの向こうの不思議の街的な神隠しじゃあるまいし……。
城之内は同じように頭を振るうと、違うわ、とまた答えた。
では答えは何だ?
「――その家には蛇がいたのよ」
城之内は、以下のようなことを言っていた。
蛇が蛙を食べるのはご存じの通り。勿論飼い主の男性もそのことは知っていた。目を離したほんの少しの隙に蛙が消えており、その代わりに蛇のお腹が膨らんでいた。そしてその蛇は一匹目の蛙を食べて以来、味を占めたのか普段の餌を食べなくなってしまった。然し蛙の絶滅した首都近辺で、蛙を取り扱う店等ありはしない。困った男性は商人が来る度に蛇の餌として蛙を買い求めた、ということだ。
正直、あまり腑に落ちない。
「お前の話にしてはオチが弱くないか?」
いいえ、と城之内。
「私が言いたいのはこういうことよ」
城之内は顎を引き、眼光を鋭くさせた上に、少し口角を上げたようにすら見えた。『キメ顔』、とでも呼んでおこう。
そして続ける。
「心の優しい人というのは、他人の為には金を惜しまないということ。詰まり、犬吠崎のオーナーも自分ではなく他人に求められれば、例え不要なものと知っていても買ってしまうのではないか、ということ。絵が偽物であることが見抜けても、『その絵を買ってもらえないとセールスマンが困る』と知れば、その嘘を見抜くことは出来ないかも知れないということ。優しさというのはそういう危険性を孕んでいる、ということよ」
成程だが、冒頭の『心の優しい男』はオチの為の伏線か。分かり難いわ。
大地も蓮も、うんうん成程という様子で頷いている。そしてバスが止まる。犬吠崎美術館前だ。
*
月曜と金曜の十七時から二十二時、学校の裏門を出て数分のところにあるコンビニエンスストアで、俺はアルバイトをしている。
「いらっしゃいませ、Dポイントカードはお持ちでしょうか?」
「ない」
「今なら入会特典として二〇〇ポイントが」
「要らない」
「失礼致しました、お会計三百十五円になります」
「あと煙草。セッターボックス二個」
「畏まりました少々お待ちくださいませ」
高校一年生の夏から初めて、早一年。仕事にはすぐに慣れたが、接客には慣れない。いや、普通のお客が相手ならば、何に困ることもなくやり過ごせる。余り多くを語ることでもあるまいが、兎に角イレギュラーな客の対応には手を焼く。
そして毎年この時期になるとパッケージのデザインが変わる『セッター』を好むお客には気性の荒い者が多く、俺は『セッター』を渡すことを嫌にすらなる。
「こちらのおタバコでお間違いなかったでしょうか?」
期間限定パッケージのセッターボックスをお見せする。お客様の顔色が変わる。極め付けは舌打ちだ。
一年間勤めてみた俺の率直な感想は、煙草の話に限らず、この仕事はあらゆる点に於いて、
「ちげェーよ、セブンス――」
「ただいま期間限定のパッケージとなっております、お間違いないでしょうか?」
「それだよ! パッケージとか勝手に変えてんじゃねえよ餓鬼が」
余りにも理不尽だということ。これに尽きる。
この為一年間の間に、お客の顔を見ないで接客をする癖がついた。
「いらっしゃいませ、Dポイントカードはお持ちでしょうか?」
二十一時五〇分を回り、夜勤への引き継ぎの準備をしている時のことだ。
「はい」
こんな時間には珍しく、若い、まだ十代とも思える、パンツを履いた女性の脚が目に映る。期間限定の高級アイスを購入するようだ。
「ご提示ありがとうございます」
受け取ったポイントカードのバーコードを読み取るべく、裏返す。
気持ち悪いと引かれようが、俺は最近、このカードの裏面にあるお客様の氏名を確認するのが趣味になっている。世間では読める訳のない当て字で子供に名前を付けて個性を出す、俗に『キラキラネーム』なるものが流行っているらしく、訳の分からない名前の読み方を勝手に想像して楽しんでいる、という訳だ。
然し残念ながら、この女性の名前は至って普通だ。年齢にしては寧ろ珍しい、姓も相まって少し古風と言っても良い程のものだった。なかなか良い名前じゃないか、城之内みつ――
「城之内美鶴!?」
「声が大きいわ、アカバネ。スプーンも付けて頂戴」
確かに俺の苗字はそのまま読めばアカバネだが、いや、まずは何処からツッコめばいいんだ俺は……。
話があるのでバイトが終わるまで外で待っている、とのことだったので、俺は夜勤に引き継ぐなり早急にコンビニを出た。城之内は軒下で、脚を交差させて立ち、高級アイスを少しずつ溶かしながら食べていた。
「奇遇ねアカバ、まさかあなはがこんなほころでアルバイトをしへいるなんて、蓮に聞かなければ知らなかっはわ」
何が奇遇だ。全然知らなかったみたいな言い方をしているが、蓮に聞いた上で知っていたんじゃないか! そして喋り方が何やらおかしい!
「アイスで舌が痺れているのよ」
そして、と城之内は続ける。
「二十二時を過ぎて時既に遅しだから、そんなに大きな声を出さないで」
ああ済まない。然し、
「『時既に遅し』の用法を間違えている」
「知らなかったわ。蓮に聞かなければ。カッコ倒置法」
それも蓮に聞いていたのか。そしてカッコの中身を声に出して読むな。
「蓮に聞く前から知っていたであろうか、いや知らなかった。カッコ反語」
カッコの中身を声に出して読むな! 何をしに来たのかを言え!
(脚本とその役者に関する相談に来たのよ)
カッコの中身を声に出して読め!!
「ああ言えばこう言うわね、あなたは」
こっちの台詞だ!
(泣)
タイトな白いパンツに入れ込んだ、グレーのノースリーブブラウス。金色のバックルの着いた黒いベルト、手には黒い革製の高級そうなクラッチバッグ。前髪はピンで押し上げられ、普段は隠れている額が露出している。茶色のヒールサンダル。それが今日の、城之内の服装だった。スタイルの良さが一層際立って、それはまあ似合っている。
父も母も仕事人間で、昔から家を空けることが多かった上、歳の離れた姉も早くに家を出ていたので、中学生頃から俺は家に一人で残されることが多かった。別にそれを恨んでいるという訳ではなく、寧ろ或る程度の家事が熟せるようになったという点に於いては、感謝もしている。
この日も例外ではなく、出張で父は一昨日から、母は今晩からいなかった。
「あなたの家にはいつも人がいないけれど、もしかしてこの広い家に一人で暮らしているのかしら」
そんな馬鹿な話があって堪るか。
「まあまあ、そんなことより本題に入りましょう。この章は改行が多くて無駄にページを消費してしまっているそうなので」
本題に入るのは望ましいが理由が不純過ぎる!
「回想シーンの役者のことなのだけれど」
回想シーンの役者、と言われれば、俺には何のことなのかもう理解出来ていた。
この脚本のテーマは『帰ってきた転校生』、もとい帰ってきた上で記憶を失っている転校生、だ。過去の出来事が物語に深く関わってくることは言うまでもなく、脚本には数度、少年時代の回想のシーンがあった。
メインでカメラに映る役者は主人公とヒロイン、即ち俺と城之内なのだが、俺の少年時代を演じる役者は大地の弟、帳響にオファーし、承諾を得ている。が、城之内の少女時代を演じる役者が、未だ見つかっていなかったのだ。各自友人等に声を掛けて、兄弟や知り合いを当たってもらう、という流れになってはいるのだが、なかなか見つからない。
「見つかったのか」
「正直、期待はしないで欲しいわ」
城之内の目は少し曇っていた。
「まだ声を掛けていない上、情報も明確なソースのあるものではないのよ。そしてこの上なく、声を掛け辛い相手なの」
城之内が言葉を濁したがるのは今に始まったことではないが、今日もよく濁る。
「一体それは誰なんだ」
「平井先生の娘さんよ」
ああ、と俺は思った。
平井孝蔵、男性。我が高校の化学科教諭であり、常に白衣で化学準備室に籠っている。白髪の混じった濃い茶髪、無精髭、銀縁の眼鏡に悪人顔。年齢不詳。趣味・特技・嗜好等、その多くは謎に包まれており、授業以外ではほぼ喋らないが、たまにボソッと独り言を言っているところを、複数の生徒に目撃されている。生徒の多くからは、『物好き』『マッドサイエンティスト』『根暗』『オタク』『泥棒』『熊』等と好き放題に言われており、嫌われてはいないにせよ、良いイメージは持たれていない。そして、映像研究部の顧問教師である。
「確かに、声は掛け辛いな」
この話は流れる。
俺も、話を持ってきてくれた城之内も、そう認識していた。確信すらしていたと思う。
然し驚くべきことに、物好きな熊はわざわざ向こうからやってきた。