プロローグ
とある街の郊外の自然が残る邸宅。
草が生い茂る殺風景の家の裏庭で、震えながら薪を集める少女が一人。服は継ぎ接ぎだらけの麻製で、体中にアザがある。それに反するように、薄紅色から始まって納戸色に移り変わる髪は艶色で美しい。
「テメー何ボサッとしてんだッ!!さっさと片付けて次の仕事やりやがれッ!!ったく、つくづく使えねぇガキだ」
小太りで禿げ頭の男は、少女の頬を力いっぱいに殴る。その拳に怒りや憎しみはなく、ただの腹いせの一発。
少女は倒れ、痩せ細った腕で落とした薪を拾い上げている。
「………ぅ……あ…………ん………」
「…あぁ!?マトモに喋れねぇのかァッ!?この疫病神がッ!!!」
もう一発。今度は少女の腹を手加減なく蹴り上げる。
少女は悲鳴一つ上げず、地面に膝をつきながらも作業を淡々と続ける。禿げ頭の男が去って行った姿を見ても、手は止めず、機械のように無言で働く。
俗に言う奴隷。その姿は酷く、顔面の原型が残っているのが不幸中の幸い。日々の容赦ない男の暴力に耐え、細々といつ死ぬかも分からない生活を続けている。
いつものように薪を集めるために、近くの森林に近づいたその時。不穏な影が蠢き、鋭利な眼光が少女の体を停止させる。
「ガルルルルルルル………」
「!」
すぐ目の前に、不気味な狼のような獣が姿を見せる。下顎が退化でもしているのか、奇妙に空洞化しており、そこから黒い唾液を垂れ流す。眼は餌に飢えて彷徨う亡霊のように慄然としている。
いつもはこんなモンスターいないはずなのに。少女は恐れ、竦む。モンスターというのは人間の暮らす場所にはあまり近寄らず、それぞれの環境に留まって弱肉強食の世界を生き抜くもの。ましてやこんなに恐ろしいモンスターなど、今まで見たことも聞いたこともない。
「ぁあ………こ……………ぃ」
上手く声が発せず、その狼のような獣は少女の無力さを感じ取ったのか、いたぶるように遅々と近づいてくる。
少女はその場に崩れ、涙を流す。
いや、これこそ幸福なのではないだろうか。
肉親のせいで忌み嫌われて故郷を追放された挙げ句、やっとの思いで辿り着いた街は余所者を嫌い、奴隷制の残る街。
この非情な世界からおさらばできると言うならば、喜んで死のう。
少女を被っていた木陰が朝日に照らされ、短い人生の終焉を受け入れる。狼の声も心には届かず、生暖かい吐息が目を瞑る少女を包み込む。
「バウッ」
何か聞こえた。狼の声と、風船が割れるときのような一瞬だけの一驚しそうな音と、葉が擦れ合う音。不思議とかかる吐息が消え、いくら待っていても苦痛は無い。
遂に痛覚までもが衰えてしまったのだろうか。なら今は死んでいる最中なのか。それとももうあの世なのだろうか。
「お嬢さん、聞いてますか?」
突然、聞いたことのない声が聞こえる。
狼の喉を鳴らす声ではなく、柔らかくも強気な男の声。
「突然で申し訳ないんですが、抜いてくれませんか?いや、変な意味じゃあなくって、まだ体が怠いものでして」
ゆっくりと目を開ける。
光が射し込み、鈍い痛みのようなものを感じ、それと同時に目の前の男に気づいた。
男は地面から土筆のように顔だけを出し、真面目な顔で話し掛けてくる。
「頭でなんか打ち上げたような気がしたんですけど、大丈夫でしたかね?」
「……ぁ…………あ………」
少女はその禿げ男とは違う優しそうな雰囲気に惹かれ、少しずつ歩いていく。
なぜか土一つ被っていない清潔な頭を小さな手で掴み、力を込めた。しかし少女の力では引き抜けず、可笑しな時間が過ぎる。
「あーなんかいけそうな気がします」
スポッと、男は垂直で黒ひげ危機一発の如く飛び出す
そしてやはり汚れ一つ無い体で、関節をコキコキと鳴らしている。衣服を一つも身につけていないのは、何かの風習だろうか。体は引き締まっており、まるで本に載っている筋肉の見本のようだ。身長は180丁度程だろうか。
変な奴とは、特には思わなかった。希望があったから。
「ふぅ……なんかすいませんね。いきなりなんですけど、ここの地名とか教えてくだされば幸いなんですが」
「………あ…………う…く………」
「耳がダメになってるのか…?困ったなぁ…………俺、見えてます?」
男は自分の顔を指さす。
流れ星のように流れ、黒くサラサラの髪。何かに立ち向かうような凛々しい顔立ち。鮮やかな青色の瞳。突如、心の中に形容し難い今までにない感情がこみ上げてくる。
裸のおかげなのか、なんだか安心する。
「えーと………なんだっけ……」
男は少女の頭に手を置くと、腕を力んだ。
すると体がスーッとするような感覚に覆われ、体中の閉じていた何かが開いたような穏やかさを感じる。温泉に浸かってしみじみと風流を楽しむような、落ち着いた優しい感覚。
「げほっ!…ごほっ!……はぁっ………はぁはぁ…はぁ………あれ」
「あぁ、大丈夫?久しぶりだったから要領間違えたかなぁ」
急に喉が開き、潤いで満たされる。
一体なんなのか。ワケが分からない。優しいお方なのだろうか?それともただのペテン師なのか?それよりも驚くべきなのは、声が出せるようになっているということ。久しぶりすぎて鈍っていた。
「ありが……あ…………ありがと…ございます」
なんということだ、全力を振り絞っても出なかった声が出せるようになっている。
人生で一番の喜びが体の中を伝わり、涙が零れる。
「ここどこか、分かりますかね?」
「ここ……ここ…ビ……ビルビア区…………」
「ビルビア……区?」
男は腑に落ちないのか、顔を顰めている。
なにか変だったのだろうか。世界は64の区域で分かれている。ここは北西にあるビルビア区。政府からの待遇は中の上くらいの恵まれた区。少女の生まれ故郷はまた違う区。
「まあいいや、それよりも君…」
男は少女の体をまじまじと見つめる。
痩せ細った体と、男の三分のニと少しほどしかない小柄な体。
奴隷制が残っていることを彼が知っているなら、違和感は無いはず。
「ウォオイこのスカタンッッ!!!いつになったら薪運んでくんだよォォオッ!!!これ以上俺を怒らせたら今度こそモンスターの巣にぶち込むぞッ!!」
ああ、なんてことだろう。あの男が来た。傲慢な性格でストレスを発散するためだけに暴力をふるう。さっきの時間が永遠なら良かったのに、もうお終いだ。もう何者も抗うことはできないのだ。主には決して逆らってはいけないんだ。
いつの間にか、目の前にいた裸の男が消えていた。その場には風がそよぐだけだった。
男は既に、禿げ頭の男の目の前に立っていた。いつ移動したのか、全く見えなかった。都市部にあるというハンターズギルドにいる人は、常人には捉えられない動きをするというが、それの類なのだろうか。
「二つお聞きしたいんですが、まずあの少女はなぜあのような貧相な格好をしているのでしょうか?」
「ひょえっ!!なっ、なんだテメェ!!ぶち殺すぞ!」
「私は殺せませんよ……決して。少しばかり気になったんですよ、時間を奪った代償は払いますから、お聞かせ願います」
殺せない…そう、絶対に、何があろうとも、死ねない。
「あっ、あいつは俺の奴隷だッ!奴隷は奴隷らしい格好をするのが常識だぞ!さっさと去りやがれッ!!この変態野郎が!」
「奴隷……まだそんなものがあったんですね。それともう一つ、初対面なのに非常に申し訳ないのですが……」
刹那だった。男の鋭い手が禿げ頭の男の腹を貫通し、まるで日常のように殺人を行ったのだ。
少女は恐ろしくなった。あんなに優しそうだったのに、確かにあの禿げ男はそういう風にされてもおかしくない人間だったが、信じている人の非人道的な行動をいざ目にすると、恐怖しかない。
「…え……?………へッ…………」
禿げ男は膝から崩れ落ち、すぐに動かなくなった。
「昔いた時代には人権というものがありましてね。人は自由であり平等である。あの少女はあなたと同じ人間、それに抗おうというのなら、俺はあんたを殺す」
なんとなくどが、あの人は人間ではないような気がする。どこか親近感のようなものが湧いていたが、もうそんなものは消えた。
男はこちらに目線を向けると、少女が怯えていることに気づき、その場にしゃがんだ。
「はぁ……女の子を殺すのは嫌いだ。お前が死んでないことにしてやる。精神的に死んでも仕方がないからな」
男は死んだ禿げ男の背中に手を当て、ため息をついた。
ふと考える。今何歳だろう、と。眠りから覚める前に75億歳のパーティーをやった記憶があるが、細かい数は覚える気がしない。長々と生きていると、いらない知識や技術も身についてしまう。何が自分を殺せる道具になるかわからないから。
「はッ!んっ!?なんだァ……?一体…」
死んでいたはずの男が急にアシカみたいに背筋を反らして起き上がった。
背中の血は消え、顔色も元に戻っている。正真正銘、詳しくは分からないが、確かに生き返ったのだ。
生き返るなどという技術は、少女は知らなかった。腹を貫いたのも何かの冗談だと感じた。ただのジョークかと、少女は男に再び信頼と希望を抱いた。
「覚悟しとけよ、俺はいくらでも無茶できるんだ。そうだ………今回のお供は、決まりかな」
設定が何かと被っていたら対応します。