9 現実
その場に座り込んだ僕に、徐々に強くなる雨風が、容赦なく打ちつける。体中が震え、頭がちくちくと痛む。様々な場面が、景色が、灰色になって再生されていく。
これは現実を無視した僕への罰だろうか。
自らの罪を知って償わなかった罰だろうか。
「あたしの――母子手帳を書き込むときに使った万年筆を、あんたが持って職員室に現れた時は本当にびっくりしたよ。しかも何の気なしに『これ先生のですか?』って」
母子手帳と共に、まるで危険物のように紙に包まれていた万年筆を、僕はその次の日、学校の職員室に持っていった。教師である彼女のもとへ。
「知っていたんだね、あんたは。あたしがこの学校にいるってこと」
僕はただ、黙って頷く。
「わざと他人行儀に『そうだよ』とあたしが言ったときのあんたの表情ったらひどかった。この世の終わりを見たような顔で、よっぽど今すぐ連れて帰ろうかと思ったよ」
その日から僕の現実は真っ白に塗り替えられた。耐えられなかった。何年も混乱して、迷走して、やっと手に入れた平穏を崩され、僕の心の中は痛みと苦しみで壊れてしまった。だからもう、僕は本当の現実を見ることをやめた。そしてその中に自分だけの現実を作ることに決めたのだ。
虚構でもいい。欺瞞でもいい。
それにすがれるなら、それによってまた都合のいい現実が見れるのなら。あげるといわれた万年筆を投げつけ、僕はその飛び散った黒いインクで塗り固めた現実を作ることにした。
自分は中絶により死んだ双子の片割れだ。
僕のせいで生きるはずだった『あいつ』は死んだ。
だから両親は、出来の悪い自分を産んだことを後悔し、疎んでいる。
学校の同級生は自分より低俗な人間ばかりだ。
僕は傍観者であり、登校したところで何の意味もなさない。
万年筆を取ったのは、自分に無関心な両親の注意を引くためであり、他者の干渉などなく、彼らこそが自分の唯一無二の家族だ。
「あんたはね、死んでしまおうと逃げることを口実に自分をなぐさめているだけなの」
「なぐさめている……?」
「そう。常に自分の置かれている状況から逃げるための口実を作って、現実があたかもそこになかったかのようにふるまっている。
だから学校でイジメられていたことも、それは違うんだと否定し続けるの」
「――違う」
「ほらまた言ってる。せっかくあの子のいない現実を作ってあげたのに……」
「……違う!」
「違わないわ。あたしが殺したの。あんたのために。本当の息子のために」
もういやだ。これ以上何を壊すというのだ。真実も虚構も現実もすべて壊され、それでもまだ壊すと……?
冗談じゃない。
「さあ、おいでシン。もういいでしょう。またやり直しましょう」
彼女は微笑んでいた。今まで見たことのない、母親らしい、穏やかな微笑み。脆くて崩れそうな細い手の指一本一本を伸ばし、すべてを受け入れられるような様子すら見せる。
僕は戸惑う。あのときのように――母子手帳を見せられたときのように。こんなにも違う表情で微笑んでいるというのに――。それが本心からの微笑みだとわかっているはずなのに。なのに僕は怖くてしょうがない。その表情、仕草、言葉、そこに存在するすべてが――怖くてしょうがない。
ふいに、雨が肩を叩く。僕は振りかえった。そこにあったのは何もない世界。創造もない、破壊もない、現実も虚構もすべて――なにもかもない世界。
――あぁ、まだ委ねられるものがあったんだな。
「迷わなくていい、これからはあたしがあなたの現実を作ってあげるから」
なおも微笑む彼女に――母に、僕は彼女似の口角の上がった口を開け、笑った。そして告げた。
「ありがとう、母さん。僕は、現実を選ぶよ」
彼女の少し引き攣った笑みを見ながら、僕はその体を、もう一度風に委ねた。
そして――――僕は―――――――――――――。
参考文献
http://www.ncchd.go.jp/hospital/section/perinatal/images/ttts.pdf#search=’ 双胎間輸血症候群(TTTS)%20書籍’ 国立成育医療研究センター周産期センター佐合治彦・林聡『双胎間輸血症候群に対する胎児鏡下胎盤吻合血管レーザー凝固術(レーザー手術)の説明書』
ここまで読んでいただいてありがとうございました!
ご意見・ご感想・評価ございましたらお願いいたします。