5 震え
耳にやった手を離し、やっと一歩を踏み出す。最初に聞こえていたはずの靴底の音は、雨に吸収されているのかほとんど聞こえなかった。静かに、しかしいくらか確信めいた思いで、僕は何もない空間へと近づいた。そして完全に見えた。空虚。柵などない、ただ存在するだけの空間。
一度、立ち止まる。吹き上げる風が強さを増し、僕を煽る。ずっと下に落ちてゆく雨が、手を伸ばせばすぐそこにある――その事実に僕はさっきとは別の震えを覚える。
あと一歩――。いや、前に倒れ込めば、僕の体はそのまま風にさらわれる。さらわれて、そのまま落ちて――堕ちて――そして――。
ふと、そこで右手の感触を思い出す。壊れた万年筆。壊された万年筆。僕はそれを何のためらいもなく、そこへ捨てた。
音は聞こえない。あっという間に見えなくなったそれは、回転しながら、僕の脳裏を一瞬だけ支配して、消えていった。
もう、思い起こすことも、思い残すこともない。僕は現実から目をそらし続けたまま、死んでゆく。しかしそれでいい。それで当然だ。それが普通なのだから。
自分の罪など自覚しなくていい。すべてから逃げよう。あれも、これも、なにもかも、僕の手から消えてった万年筆のように消し去ってしまおう。そして楽になろう。このまま落ちてしまおう。そう。前のめりになって、体を傾けて、そのまま――。
笑っていた。気づかぬうちに僕はその口元をゆるめていた。満足とは違う、どこか充足したような、しかし掴みきれないような気分が心を満たしていた。
その時、何かが聞こえた。
――それは違うんじゃない?
また幻聴――? 僕は風に預けようとしていた体を一度起こす。
――じゃあどうして死ぬの?
どうして?
「現実から逃げるのならどうして死ぬ必要があるの? ねぇシン」
背中から悪寒が走った。僕はなにかにひきずられるかのように振り向く。そこには記憶の隅に刻まれた顔が、食卓を挟んで向かい合うくらいの近さで、冷たい笑みを浮かべていた――先生だった。