4 慟哭
「無知は罪だ」そう言った人がいる。何も知らない、何もわからない。そういったことは知らずうちに人を傷つけ、当人の知る由もいないところで大きなわだかまりを生む。
もしあのとき万年筆のことを尋ねられていたら、僕は何と言っただろうか。やはり「何も知らない」と答えただろうか。自らの無知から目を逸らして、罪を重ねて、それが何を生むとも知らず――。それでも「知らない」と断言できただろうか。
僕は怖かった。それですべてが崩壊してしまうような気がして、目の前の現実が消えてしまう気がして――。いや、もう考えない。考える必要はない。もうすぐ、僕は死ぬのだから。
目を瞑る。万年筆の固い感触、見えていた灰色の景色、耳障りな喧騒、頭の中の情景――それらすべてのものを遮断するように。
肌に冷たい感触。目を醒ます。僕はどこかに抜け落ちた感情を探すように、空を見上げる。
雨――。
白く細い糸のような雨の線が、顔にはじけて割れ、やがて喉へと伝ってゆく。
冷たい。
僕は濡れた顔を下げた。
ポツリポツリと、目の前の地面に水滴が落ちているのが見える。そこからはじけたしぶきが、何かを侵食するように白いズボンの裾を徐々に濡らしていく。それが白から灰に塗りつぶされてゆくのを、僕はしばらく黙って眺めていた。
――何をしているの?
体が震えた。雨の中でかすかな硬音が鳴る。背中に変な冷たさを感じて、僕はゆっくりと振り向いた。
――誰もいない……
背後にはただ雨が視界に入るばかりの、陰鬱な光景が広がっていた。その先に見える下へと降りる階段の入口は、まるで僕と現実とを断ち切るように閉め切られたままで、人の気配など微塵も感じさせなかった。
気のせいだとわかり、前に向き直る。そこで右手が妙に手持無沙汰だと気付いた。
万年筆がない。落としたのか――。案の定、足元から少し転がったところの小さな水たまりに、万年筆のペン先が浸かっていた。僕は慌ててそれをひっつかみ、無事を確認するように顔に近づける。
――壊したの?
え?
――わたしの万年筆を壊したの?
「誰だ!」
思わず声が出る。自分でも驚くくらいの大声で。今度こそ誰かいるのではないかと、周囲を見渡したが、全体に灰色のモノトーンがかかったような光景は、やはり変わっていなかった。
――どうして、こんな……
僕は耳を塞いでうずくまる。
どうして、こんな声を聞かなくてはならないんだ。
現実から目を逸らすのはそんなに悪いことだろうか。見たくもない事実、知りたくもない知識、聞きたくもない言葉。そういったすべてのことから目を逸らすことは罪だと、知りえないことにするのは卑怯だと、本当にそう言えるだろうか。
そんなことはないはずだ。事実から目をそむける人間は自分だけではない。あのとき――死体が横たわった教室で、それから目をそらした者は何人もいた。ならば、いったいどれだけの人間が目の前の『死』という事実を見つめただろうか。そしてそれを受け入れただろうか。
両親も例外ではない。『僕』という都合の悪い既定事実から目をそむけ、もういない『あいつ』のことを考えて現実から逃れようとしている。万年筆も誰が盗んだのかなどわかりきっていたはずだ。
――そうだ。
僕は耳を塞いだまま立ちあがる。建物のへりまで一向に変わらない距離を保ったまま、しばし立ちつく す。わずかだが鈍く聞こえる雨音が一定のリズムを刻んで、心を平静にさせる。
だから僕は――ここに来た。
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