3 盗み
人は死ぬ直前、自らの人生を思い起こす走馬灯を見るという。果たしてこれがそうなのだろうか。
こうして死に一歩一歩進んでいく中で、僕はなんとも短時間でいろいろなことを思い出している。どれもこれも自分の罪を思い出させるばかりだけれど、むしろそれでいいのかもしれない。
いま、この時間はそうやって自分のことを理解する必要があるのだから。
僕は硬直した足でその一歩を踏み出す。靴底が屋上のコンクリートに当たる。すぐ耳元で聞こえる軽い音。死に向かっているとは思えない軽い音だった。
僕はポケットの中でしばらく弄んでいた万年筆を取りだし、顔の前でその手を開く。黒く重厚な塗装が施されていたはずのそれはいまや剥がれ、霞み、割れ、銀に光っていたペン先は、車がぶつかった電柱のごとくひしゃげていた。僕はそれがまだ「書くモノ」としての役割を果たせていた時のことを思い出す。
とある日。いつものように誰もいない家の中で退屈な時間を過ごしていた僕は、ふらりと入った母の部屋でそれを見つけた。家のホコリだらけのタンスから手帳と一緒に出てきたそれは、ろ紙のような薄い紙がまるでなにかから守るように何重にも巻かれていて、その重要性を物語っているように感じた。
べつに盗もうと思ったわけではない。
ただいつも無抵抗だった自分に腹が立った。自分を疎ましく、邪魔者だと、堕ろせばよかったと感じているような母に、何一つ抵抗せぬまま、死んで行くのはなんとも情けないと感じたから。自分の意思を示さなくてはと思ったから、僕はそれを紙ごとズボンのポケットに突っ込んだ。
「あの万年筆知らない?」
夕食の席でその言葉が出た。
「なくしたのか?」
「帰ってきたらなくなってたのよ。あなた使った?」
「いや。そもそもあれは使うものじゃないだろう?」
「それもそうね。でもどこにやったのかしら」
母は困惑とも何ともつかないため息をついて、その話を切り上げた。沈黙が訪れる。「あんたは知らない?」という質問を予想していた僕は、いささか拍子抜けした気分で、しかし顔を上げればばれてしまうような気がしてうつむいていた。そしてふと横目で盗み見た母と父は、ただ自分の料理を黙々と食べることに終始していた。
ズボンのポケットがやけに重く感じられた。
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