Report-11(2) 三角比の拡張
「なにそれ……円?」
「そうだ。単位円だ。」
英莉の問いかけに龍弥はそう答えた。
「単位円。」
やはり、紅花は繰り返す。
「半径が1の円のこと、だっけ?」
仁志が確認ついでにそう答えると、「そうだ。」と龍弥が肯定をした。しかし、紅花はなにか思うことがあるようで、理解できないでいた。
「紫崎先輩、三角比って、三角形のお話……でしたよね?でも、なんで円、単位円なんですか?」
「それは今から説明する中でわかる。けれど、そう考えることは必要だ。」
龍弥は彼女に笑いかけた。
「数学ってのは論理、なぜそうなるのかということを考えることが大切だ。俺が思うには、論理無しでは数学は楽しめない。」
そう言うと、紅花はなんとなくわかったような、わかっていないような、そんな顔をしていた。
「では、説明を開始する。お題は、三角比の拡張だ。」
パンッと手を叩き、今度は描いてある図形に向いた。
【三角比の拡張】
まず、単位円における三角比を定義する。
ちなみにさっき紅花に言われたように、なぜ円でやるかというと、直角三角形ではどうしてもとれるθの値が0°<θ<90°だけになってしまうからだ。
しかし、直角三角形では出来ないからと言って円でやる理由、円の中でも単位円を使う理由は、後々わかるからここでは省く。
さて、ここにある通り、座標平面上に原点を中心とする単位円をおく。数学では基本的に反時計回りに考えるから、原点と(1,0)を結んだ線分を始線とする。
「始線。」
「読んで字の如く、始まりの線だ。この線は動かずに基準となる。基準の線だから覚えておいてくれ。ちなみに今から出てくる動く線は動径という。」
今言った通り、動径を考える。
単位円の円周上に点Pをとる。このPの座標は(x,y)だ。動径とは線分OPのことを指す。
「さて、ここで問題だ。始線と動径のなす角……。ようするに、いったいどれだけ反時計回りに動いたかってことだ。で、この角が60°のとき、Pの座標を求めよ。紅花、お前だ。」
「私ですか!?」
まさか自分が指名されるとは思ってもいなかったのだろう。素晴らしいまでのリアクションと大きな声で彼女は反応した。
しかし、指名された以上考えなくてはならず、「うーんうーん。」と、必死に考えること十数秒。
「わかりません。」
素直な返事が返ってきた。
「本当に……か?」
龍弥はジッと彼女のことを見た。紅花は一瞬それに狼狽えはしたものの、すぐに「はい。」と答えた。
「見方が悪いんですよ。そんなに難しく考えなくても大丈夫。」
黄乃の言う通りだ。難しく考えなくても大丈夫。
まず、60°というその値に着目する。60°ということは、知っている三角形があるはずだ。そう、全ての角が等しい三角形、正三角形だ。
正三角形切って直角三角形を2つ作りたい。さて、どうやって切る?
「えー、えっと、ちょっと待ってくださいね……。直角三角形なんだから、えっと、90°が1つあって、で、60°が1つあって。で……、」
紅花はうんうん唸りながら、それでも答えを出そうと考えていた。龍弥たちはそれになにも言わず、ただ見守っていた。
「あ、そうか! 1つの頂点から垂直に線を1本下ろしてきたらいいんだ!」
「That's right! その通りだ。」
「ざっつらいと?」
龍弥の言葉に対する反応に全員が苦笑した。
「でもその通りってことは、合ってるってことですよね?」
「ああ、合ってる。」
ここで正三角形……というか、二等辺三角形の性質なんだが、二等辺三角形の頂角から垂直に下ろした直線は対辺を丁度2等分するんだ。正三角形は二等辺三角形の1つだからこれが適用される。
というわけで、60°のとき、斜辺の長さは1、そして1つの辺。ここでは始線と一緒になってる辺だな。これの長さは?
「えっと、半分なんだから、1/2!」
「正解。じゃあ、もう1つの辺の長さは?」
「わかりません!」
やはり、堂々と言った。全員が嘆息をつく。
「またか……。ちょっと考えてみなよ。直角三角形とその2辺が与えられている。使えるものはないか?」
龍弥がそう尋ねる。するとやはり彼女はうんうん唸りながら考える。考える。
そしてしばらく考えた時、
「あー! わかった、わかりました! サンヘーホー、三平方の定理です!」
「ようし、それで導き出してみろ。」
龍弥に言われると、彼女は指折りしながらなにか考え込み、そしてしばらくして答えを出した。
「√5/2ですね!」
「違うぞ。」
かなり自信満々だったその解答には、即座に誤答という返答が返ってくる。
「えええっ!」
紅花は口を大きく開けて絶叫した。
「だだだ、だって、三平方の定理って2乗と2乗と足すのでは?」
「それは斜辺を求めるときだ。今求めるのはそれ以外の辺。斜辺の2乗から引かないと。」
3秒ほど経って、彼女は手をぽんっとうった。
「なるほど、じゃあ√3/2?」
「そうだ。もう座標はわかるな?」
「はい、(1/2,√3/2)です!」
その解答に、こんどこそは「正解。」と、龍弥は満足そうに答えた。
「さて、今の段階で気づいていたらここから先の説明は必要なくなるんだが、どうだ? なぜ単位円を使うのか、わかるか?」
「いいえ全く!」
なら、説明をしようか。
この円は単位円なんだから、直角三角形の斜辺の長さは1になる。この時なす角をθとすると、sinθとcosθの値が扱いやすくなる。
そう。斜辺が1なんだから、sinθはそのままy軸の値、cosθはそのままx軸の値を使うことができる。
そう。これで単位円におけるsinθ、cosθを定義できた。まあ、残りは芋づる式に導き出せるけど、ここでは省略する。気になるなら自力で導き出すのもいいかもしれない。
これなら、θが0°の時や、90°を越えるような場合でも三角比を定義することが出来る。
これで、単位円を使う理由がわかったかな?
「うーん、わかったような、わからなかったような……。でも、なんとなく、なにか掴めたような、そんな気はします。」
「まあ、一気にわかれとは言わないし、むしろそんなこと言うようなことはしたくないし、ゆっくりと咀嚼していけばいいと思う。わからない内はこの話は簡単ではないしな。」
龍弥はなにか次のことを話そうとしたのか、移動しようとしたとき、
「ねえねえ先輩。」
口を開いたのは匠だった。
「どうした? 匠。」
急なことだったのか、少し驚いた顔をして龍弥はそう聞いた。
「三角比で主に使うのはsinとcosとtanって言ってたじゃないですか、でも今の段階だとsinθとcosθがなにを示すのかってことはわかりましたけど、tanθってのがなにを示すのかわかってないんですよ。tanθっていったいどう言うときに使うんですか?」
「ああ、忘れていた。それにしても、よく聞いてくれた。ありがとうな、匠。」
そう言ってもう一度単位円に向かい、1本の線を書き足した。
ここに、x=1の直線を書き足すだろう? そうしたら、さっきの動径を延長して、交点を作るだろ? その交点のy座標、実はこれがtanθの値になるんだよ。
そしてこの値が、この直線の傾きを表すんだ。直線の傾きってのは、x軸方向に1進んだときにy軸方向にいったいいくらだけ進んだのか。つまり切片が0、直線が原点を通るとき、x=1の直線との交点はきっかり傾きを示すってわけ。
ちなみにその証拠に、tanθはy軸の値をx軸の値で割ることになる。相互関係でtanθがsinθ/cosθだったようにな。
「ま、これで主に使う3つの値の意味がわかったわけだ。しかし、少し注意すべき点もある。この3つだと、tanθ。これだ。」
そう言って彼は黒ペンでなにかをホワイトボードに書く。
「tan90°、さて、この値は? 考えてみろ、紅花。」
「先輩、今日は私ばっかりですね。まあ、聞いたのが私だからなんだろうけど。……えっと、待ってくださいね。tanθはsinθ÷cosθなんだから、sin90°が1でcosθが0なんだから、1÷0で……0?」
その答えに、またすぐに龍弥が反応しようとする。
「それは間違――。」
「いや、違う。違います!」
紅花は机をバンッと叩き、勢いよく立ち上がる。途端に全員の視線が集まると、彼女は「すみません……。」と言いながら席に座った。
「で、違うとは?」
龍弥が紅花にそう尋ねると、彼女はなにかを必死に考えて、そして言った。
「tanθはx=1との交点のはずなのに、tan90°はx=1と平行だから交わらない、交点がないんじゃないかなって思って。でもそれだと値はなにになるのかがわからなくって。」
その言葉を聞いた龍弥は。黄乃は。その他の全員が、目を丸くした。
「よく、気づいたな。それから悪い。この答えは、解無しだ。答えがないんだ。」
「えええええっ! 酷くないですか!? ……でも、解無しってどういうことなんですか?」
かなり驚いた彼女だったが、それでも疑問はキチンと聞いていた。
「うーん、そうだな。教えてやりたいのは山々なんだが、」
龍弥はそう言うと、壁に掛けてある時計を見た。
「時間が無いから、それはまた今度ってことでいいか?」
そう聞くと、紅花は大きく首を振って頷いた。それを見て龍弥はホワイトボードの前を移動した。
「これはおまけな。」
そういって彼が立ったその場所には1つの図形が描かれていた。
「黄乃以外の全員へ、これが今回の宿題だ。」
その図形は、先程の座標平面と単位円に1本の線が書き足されていた。
「0°<θ<90°で、さっきの点Pに対する接線があるとする。このとき、この図形中に三角比の6つ全ての値の長さを持つ線分が現れる。それがどこなのか、考えてみてみな。宿題の期限は決めないから、時間のあるときにゆっくりと考えるといい。」
彼はそう言うと、手をパンッと打った。
「じゃあ、今日の部活はおしまい! お疲れ様!」
説明の時、わかりやすいように始線と動径を線分と表現していますが、本来始線と動径は半直線です。