Report-5^0 算数と数学
「ねえ、紫崎先輩ー。」
気怠そうに机に突っ伏したままの姿勢で紅花は話しかける。机に向いていた顔を上げて龍弥は反応をする。
「どうした?突然。」
すると、珍しく深刻そうな顔をして紅花は話を始めた。
「この部活ってさ、数学研究部…だよね?」
その言葉に紅花以外の全員が頷く。
「そもそも、算数と数学って何が違うの?」
沈黙。誰も動こうとしない。いや、動けなかった。
深刻そうな表情に気張ってしまったという、
あまりの落胆に。
「算数と…数学の違い?」
やっとこさ自由を取り戻した仁志がそう言う。
「そう。違いなんですよ。英語の先生に聞く限り、両方とも英語ではmathなのに日本語では別れてるのかなーって。」
そう思えばあんまり考えたことないかもと、英莉が共感の声を上げる。
「その答えは…、そうだな。」
龍弥はあごに指を当てて少しばかり考える。
「そのまま聞いても、面白くないだろう。ここで一つ、みんなで考えて、俺たちなりの見解を出した上で結論に向かうってのはどうだ?」
その言葉に、一年生二人がキラキラとした眼差しを送ってくる。
「先輩!それ楽しそうっすね!」
「やりましょう!やらせてください!」
匠と紅花。二人が異常なまでに盛り上がっているその一方で、黄乃が龍弥に尋ねる。
「そんなの、どうやって正解とするのよ。」
「ん?正解なんてないぞ?まあ、今回ばかりは…。」
龍弥は少し離れた位置にある本棚に向かい、一冊の本を引き出してくる。
厚さ七、八センチメートルはありそうな一冊の本。背表紙には国語大辞典と書かれている。
「とりあえず、これを一般解とする。」
変数まみれの答えであっても、こういった問題ならある程度の一般解となるものはあるだろう、と。
「って言っても、わかんないから聞いたんだよね…。」
開始早々紅花はそんな愚痴を漏らす。
「わかんないって言う前に観察してみたらどうだ?」
提案者はそう助言する。
「観察?算数と数学を観察するの?でもどうやって?」
全くもって意味を理解していない様子の紅花は首をかしげて悩み込む。うーんうーんと唸る彼女を見ていた英莉はクスクスと笑いながら鞄の中からボールペンを取り出す。
「こういうことじゃないかしら?」
机の上に置いてあるメモパッドから一枚取ると、サラサラと綺麗な文字を並べていく。
「はい。算数と数学。文字の並びをよく観察してごらん?」
メモ用紙に書かれた二つの単語を紅花に差し出す。
「えっと…。数学は簡単だね。“数”を“学ぶ”ですよね?でも算数が…。“数”を“算”する?それとも“算”を“数える”…?」
算数の“算”いう文字に随分と頭を悩ませている。黄乃が口を挟もうとしたとき、先に言葉が走った。
「かぞえる…。ですよね?」
匠だ。
驚いた様子をしたのは総勢五人。つまり匠以外の全員だ。
そのうち、かぞえる?と言いたげなのが三人。
「えっ待って。計算の算って算えるって読みますよね?」
周りの反応に困惑した匠が紙に“算える”と書き記す。丁寧に“算”に“かぞ”というルビまで振って。
「えっ、待って。そんな読み方するの?」
まず真っ先に口を開いたのは仁志だ。
「ああ。する。あんまり使わないがな。」
それよりも。と、龍弥は怪訝そうな目で匠を見る。
「お前、こんな読み方よく知っていたな。あんまり使われないのに。」
問い詰めるような声色に、ギョッとした表情で反応した匠は、「ぐ、偶然本とかで読んだんですよ…たぶん。」と目をそらせて言った。
「まあいい。で、これで“算数”の観察ができそうか?」
紅花にそう尋ねると彼女は元気よく返事をした。
英莉は未だに“算える”という読み方に驚いているようである。
「“数”を“算える”ってことですよね!」
そう答えると、龍弥の隣で声がする。
「“算える”と“数える”の並列も考えられる。」
零すように言ったその言葉に「あっそうか。」と、理解した様子で紅花は反応した。
「じゃあ、計算は“計り”“算える”ってことか。」
仁志はそう呟いた。
「でも、数を算えるはともかく、数を学ぶってどういうことだろう。数って1とか2のことでしょ?わざわざ学ばなくても知ってるよ?」
確かに筋の通っているその考えに龍弥は答えを返す。
「ここからは完全に俺の考えだが、数って考えるんじゃなくて、数理って考えたらどうだ?」
「数理。」
初めて聞いたのだろう。紅花は録音機のように繰り返して再生した。
「そう、数理。数学そのもののことだったり、数学的ではあるが数学のサブカテゴリーに分類されないような学問のことだ。ここでは前者を指す。」
「前者。」
紅花にはわからない単語を繰り返して言ってしまう癖でもあるのだろうか。目の前の仁志から「先に説明されたこと。」という簡単な説明を受ける。
「ここで定義しておかないと数学がグルグルとループしてしまうから、まあこの場における数学は代数や幾何、解析とかそういうそれぞれの分野につくものを指すこととする。」
幾何というわかる単語が出てきたことが嬉しかったのか、「幾何!幾何!わかるよキカ!図形のことでしょ?」と、嬉しそうに騒いでいた。
「それらについてはまだ解明されていないことが多い。それを研究して突き詰めたり、あとは俺たちがしているように知識を深めたりするのが数学。って考えたらいいんじゃないのか?」
龍弥の言葉に「なるほど!なんとなくわかりました!」と紅花は言った。
「じゃあ次はもっと簡単に考えてみようか。」
龍弥は自分の席にある紙に文字を書き加える。
「解かなくてもいい。これを見てどう思う?」
紙を紅花の前に差し出す。その紙には二つの問題が記されていた。
①35+76-27+46
②sinπ×cosπ
「えっ、えっと…。①の方はとても、とっても簡単そうです。で、②の方は全くもって分かりません。難しいですし、そもそもシンとかコスとかってなんですか?πは円周率って分かりますけど…。」
また分からないことが増えたと、混乱したのか回転イスでグルグル回り出す彼女に「いや、それでいい。」と龍弥は答える。
「簡単と難しい。それでいい。」
そうとだけ告げる龍弥。しかしsinとcosが分かっていない様子の紅花に「また機会を見て質問すればいいわよ。今は必要ないみたいだから。」と、英莉は優しく諭す。
「かなり極端な例にしたが、算数は簡単。数学は難しい。まあ、それに相違は無い。」
「単純だけど、そういうのも大切だよ?1+1が2であることが大切なようにね。」
龍弥の説明に黄乃が付けたすようにして言う。
「実際、算数と数学のこの辞書における説明書きがこうだ。」
龍弥は分厚い辞書を開くと、それぞれの項目を紅花、そして匠の二人に見せる。
さん-すう【算数】①数量の計算。②小学校の教科の一。日常生活に必要など、数量や図形の性質、および計算・測定を取り扱う初歩の数学。算術。
すう-がく【数学】量・大きさ・形、あるいはそれらの関係について一般的に考究する学問。代数学・幾何学・解析学、およびその応用を含む。
「この文面を見る限りも、どちらが難しいかというのは明快だろう。」
「“初歩の”数学って入ってるくらいだしね。」
灰色の机の二人は息ぴったりの連携で講義を話を続ける。
「まあ、算数と数学の違いなんて結局は人の取りようなんだけどな。自分自身についてこれが算数だ。これが数学だってのを決めてしまってもそこまで問題は無い。俺自身、これとは別の考えもあるしな。」
しばらくの時間が過ぎたころ。
「そういえば、先輩にとっての算数と数学の違いってどんなものなんですか?」
匠が少し前の龍弥の発言に対してそう尋ねる。
「ん、俺のか?俺のは、“見える”か“見えない”かだ。」
簡単にそう言って机の上に置いてあるペンたちを筆箱の中に入れる。そんな龍弥にさらに尋ねる。
「見えると見えないってどういうことですか?」
匠のその言葉に残り三人も賛同する。特に仁志なんかは凄く答えを待ち望んでいるようにも伺える。
「ま、その話はまた今度だ。そろそろ帰る時間だしな。」
短な針は既に5と6の間を過ぎており、下校時刻は刻々と迫っていた。
「さ、帰るか。黄乃。晩御飯は何がいい?」
「今日は、ハンバーグ。」
そんな会話をしながら二人は早々に部屋から立ち去る。取り残された四人のうち、匠がポツリと呟く。
「“見える”と“見えない”…か。」
それがこの日、この部屋に零された最後の声だった。
ここに記した算数や数学の考え方は自分の持論によるものであり、決してこれが正しい。とするものではありません、一つの考え方としてこんなものがあるというレベルで読んでいただけますとありがたいです。
引用:角川 国語大辞典(角川書店)