赤飯
雨の銀座の街角で ひとりぽっちで待ちました・・・
雨に濡れながらたたずむ人がいる 傘の花が咲く土曜の昼下がり・・・
あなたを待てば雨が降る 濡れてこぬかと気にかかる・・・
雨の外苑夜霧の日比谷 今もこの目にやさしく浮かぶ・・・
そんな昔の流行歌を思い浮かべては口ずさむ梶山三郎の目は、激しい雨で濡れる窓を見ている。
「お父さん」
「うん。どうした?」
岳雄はドアを開けたまま、父にどう話そうか迷っている。
「何だ。何かいいたいことがあるから来たんだろう」
「ね、人間て、何で人を好きになるのかな」
三郎は一瞬戸惑ったが、にやっとして答え始めた。
「何でかな・・・。お父さんにも分からないけど・・・。それより岳雄。酒は飲んだことあるか」
「ないよ」
「暑いし、ビールでも飲んでみるか」
三郎は岳雄をキッチンに連れて行った。
「どうしたの?二人揃って」
「岳雄とビールでも飲もうと思ってさ」
「駄目よ。まだ高校生なのに」
「いいじゃないか。俺だって岳雄と同じ年頃には飲んでたの、知ってるだろう」
「父親のあなたがそんなこといったら、示しがつかなくなるじゃないの」
「ま、今日だけは大目に見てくれ。男同士の話をしたいんでね」
三郎は岳雄にビールを注ぎ、息子が口を開きやすくなるように話し出した。
岳雄は初めて口にする苦い液体を、噛みしめるように飲み下した。
「どうだ。美味いか」
「苦いだけだよ」
「それが大人の味ってもんだ」
岳雄は注がれたビールを勢いよく飲んだ。そして、胸の内をぽつりと話し始めた。
岳雄はクラスに好きな女子がいて、その彼女と一緒にいたいがため大学を一緒にするかどうか迷っている。彼自身としては偏差値が高いので国立を目指したいが、彼女のレベルでは私立しか行けないという。それも地方の大学で、離れ離れになってしまうとも。
「どの程度の付き合いなんだ。AかBか。それともCまで行ってるのか?」
「おかしなこといわないで」
「お母さんのいうとおりだよ」
「そうはいうけどな、これは大事なことなんだ。女っていうのは初めての男のことを忘れないっていうからな」
「そんなこと、いえないよ」
詳しく話そうとしない武雄にいらつきながらビールを飲んでるうち、三郎はソファーでうつらうつらしている。
三郎は銀座でビル掃除のアルバイトをしていた。夕方六時から八時までの二時間で日給五百円だが、毎週月曜日に給料をもらう。その金で有楽町のフードセンター二階にあるアメリカーナというコンパに、アルバイト仲間と飲みに行くのが楽しみだった。
「銀座でバイトしてるんだし、いい女見つけようぜ」
「そうだな」
「范文雀みたいなの、いないかよ」
「お!あれはいいな。すっごい色っぽいし。でも、俺は、やっぱり小山ルミだな」
「勝手なこといってるよ。どっちにしたって、相手にしてくれやしないのによ」
「それいっちゃ、おしまいだぜ。そういう梶山は誰なんだよ」
「俺か!俺は藤山陽子だな」
「誰だよ?それ」
「知らなきゃいいんだ」
「ちぇ。人が好きな女にけちつける癖に、自分のことはいわないのかよ。きたねー奴だな」
そういわれようと、梶山三郎はそれ以上藤山陽子についてのことを話そうとしなかった。こいつらにいったところで、あんな年上の婆のどこがいいんだといわれるに決まっているからだった。何しろ彼よりひとまわりも年上の女性なのだ。だが、彼には女神のような存在だった。
「ま、俺はちょっといい女と知り合ったし。和田と佐藤も、早く見つけるんだな」
「本当かよ。どんな女だ?」
どんなもなにも、三郎には説明できなかった。まだ三回しか会ったことがないからだ。
「とにかく、いい女だよ。クラスの奴らとは比べもんにならないぐらいにな」
「うまいことやりやがって」
梶山の家庭は経済的にゆとりがなく、三郎がアルバイトで稼いだ金で授業料を支払っていた。そのアルバイトもビル掃除だけでなく、近所の子供達に宿題を教えたりもしていた。
そういう状況でも小学校当時に見たテレビドラマ「青春とはなんだ」に憧れ、高校の部活ではラグビー部に入部した。ひょろっとして背が高く、足が速かったこともありそれでラグビーをやっていたが、バイトが忙しくあまり参加できなかった。
中学時代の梶山は五段階評価で英語だけが唯一の四で、他はすべて三という成績だったが、入学した高校では、他の中学から来た者の偏差値は高いものの彼がいた中学に比較するとかなりレベルが低かった。それで、クラスではいつも五番以内の成績だった。
そんなことで女子からの人気もまずまずで、登下校時など梶山を見つけると一緒に歩くのもいたし、それとは逆に遠目で見るだけの女生徒もいた。
その中で席が隣で家が近所だった片山美樹は、目がくりっとした可愛い女子だった。入学した夏休みに彼女の自宅に招待された梶山は、彼女の姉と母から大人びてるといわれ、娘のことを宜しくとまでいわれた。
そんなこともあってか近所の多摩川を散歩しては、美樹の膝枕で昼寝をする梶山だった。
「好きなのいるか?」
「いるよ。どうして?」
「いやぁ。いなきゃ、キスしたかったんだけどな」
美樹は自分の太股の上で仰向けになって目を閉じてる梶山を見た。
暇がないといってはラグビー部に顔を出さない彼だが、その顔は日焼けして黒かった。
噂では、朝早くグラウンドで走ってるということを聞いたことがある。部員数が十人しか集まらず、試合間近になるとサッカーやバスケットから部員を借りてくるという、廃部間近なラグビー部のために自主訓練をしているのだろう。
「何だ。好きな奴がいるのに、キスしていいのか?」
美樹の唇を感じていった。
「好きな人、梶山君だし」
そういわれた梶山は美樹を抱き寄せ、彼女の唇を押し開いてキスした。
晩秋の釣瓶落としで夕焼けも闇に染まり、二人さえも漆黒に変えていく。
「煙草臭いよ」
「カルピスの味だろう」
美樹が煙草はやめなよというそばから、梶山がハイライトに火をつけた。
「吸ってみるか?」
どんなものだか一口吸うと、咽返る美樹だった。
「こんなの、美味しくないよ」
「酒も飲んだことないんだろう」
「ないよ」
「今度。、飲みに行こう」
そんな美樹と適当に付き合っていた梶山だが二年生最後の期末テストも終わり、早めにバイト先の銀座に行きスマートボールをやったら勝ちまくった。ラークやケントなど普段は買えない洋モクやチョコレートなどの景品をごっそり持ち、チケットのプレイガイドに行った。
派手なメイクの女がカウンターに一人でいた。
「ある愛の詩はいつからですか?」
「来週からです」
「一枚四百五十円か・・・」
二枚買うには持ち合わせが足りなかった。
「とっておいてもらうことって、できないですか?」
「それはちょっとね・・・。いいわ。そのラーク、私が買うってことでどう?」
そんなことで梶山はチケットを手にした。
「デート?」
「そういう相手がいればいいけど」
「持てそうなのに、彼女いないの?」
「バイトだクラブで忙しいし」
「大学は楽しいでしょう」
「僕、高校生だけど」
「へー。大人びて見えるのに」
「よくいわれるけど、そうかな・・・」
「二十歳ぐらいに見えるわよ」
「もうすぐ十八になるけど」
グレーの細身のスラックスにオックスフォード地のボタンダウン。それにネイビーブルーのレタードカーディガンを着ている。
「お酒は飲むの?」
「ジンライムとかは」
「よかったらこれから飲みに行く?驕るわよ」
十朱幸代のような顔立ちで切れ長の目は、男なら誰しもが振り返るような美人だった。その女性から飲みに行こうと誘われ、断る梶山ではない。
梶山はバイト仲間達と行くコンパに、能登光子という女性を案内した。
「フードセンターにこんなお店あったのね。目の前にあっても知らなかったわ」
日毎に陽が伸びていく二月末の有楽町の雑踏を見下ろせる店内。丸椅子に座ってそんな窓外に視線を落としている能登光子の顔を、バーテンが盗み見している。
「遠慮しないで何でも頼んで」
貧乏高校生の梶山達がここに来てつまみを頼むといえば、チーズやクラッカーにサラミなど安い物ばかりだった。
「じゃ、チキンバスケット」
「それに、キッスチョコお願いします」
梶山はジンライムを舐めるように飲んでいたが、能登光子に進められるままお代わりをしていき、電車に乗る頃には気持ち悪くなっていた。
梶山がどうしてるかと聞かれた美樹は、部活とアルバイトで忙しいみたいと姉に答えた。
「会ってないの?」
「毎日話してるよ。席が隣だし」
「それは学校でしょう。外でよ」
「そういえば、外で会ってないかな」
「誰かと付き合ってるんじゃない」
「どうして?」
「美樹はまだ子供だからいっても分からないけど、あの子は大人だしね」
姉が何をいいたいのか知ってる美樹だった。
その梶山から電話があった。鎌倉へ行かないかということで、美樹は買ったばかりのブラウスで家を出た。
北鎌倉から八幡宮を経由し、大町から小坪トンネルを抜け正覚寺に着いたとき、江ノ島や富士山が見えた。
「綺麗」
「夕焼けならもっといいけどな」
三時間も歩いたせいか、美樹は疲れていた。
「足、痛くない?」
ベンチに座ると、痛みが和らぐと同時に眠気に襲われそうになる美樹だった。
「眠くなってきたよ。たまには梶山君が膝枕してよ」
ミニスカートだが周りには誰もいないので美樹は足を伸ばし、ベンチの端に座らせた梶山の膝に頭を乗せた。
「気持ちいいか?」
「うん」
「おっぱい、盛り上がってるな」
「エッチ」
ブラウスの合わせ目から黄色いブラジャーが見え、その周りの白い肌が息をするたびに上下動している。
「ホテル行こうか?」
「駄目だって」
美樹が起き上がった。
「好きなんだから、いいだろう」
「だって・・・」
といって、出てくる前に姉がいってたことを思い出す美樹だった。
「梶山君。誰かと付き合ってないの?」
「いないよ。そんなの」
「じゃぁ、経験あるの?」
「ないな。だから、童貞を美樹にあげようと思ってな」
「あたしだってバージンだよ。上手くできる?」
「そんなの、やってみなきゃ分かんないだろう」
「そうだけど、なんか、恐いし」
「あと一年で卒業だろう。そしたらどうなるか分からないし、俺としたら美樹と経験できたらなって」
「あたしもそうだけどさ・・・」
「バイトで貯めた金もあるし、酒でも飲もうか」
「いいよ」
この帰り、二人は男と女になった。
能登光子はチケット売り場の仕事を辞めることにした。
有楽町よりも近い入谷のガゾリンスタンドで、事務をやることになったからだ。そのことを梶山に話した。
驚きを隠せない梶山は喉が熱くて、息苦しくなった。
「どうしたの?」
「もう、会えないの?」
「黙ってたけど、結婚してるし。それに、あなたより五歳も年上なのよ。いつか、手紙書くから」
いつものコンパを出て駅前の交差点で信号待ちをしてる間、梶山の目から大粒の涙が溢れているのを見た能登光子は、彼を抱き寄せてキスした。
彼がこんなにも自分のことを思っていてくれたかと思うと、キスをしたくてたまらなかった。
「もう、泣かないで。後で手紙書くから」
その手紙には次のようなことが書かれていた。
あなたが見せた純な涙。
私には衝撃でした。
こんなにも私を愛してくれてたかと思うと嬉しかったけど、愛と呼ぶには遠いものです。
私は悪い女です。
あなたは男。
女に負けていては駄目。
あなたのことは一生忘れません。
肩を揺すぶられた三郎が目を覚ました。
「寝込んでたのか」
「三十分ぐらいね。それより、岳雄に刺激的なこといわないで」
「岳雄は?」
「今日は友達の家に泊まるって、出て行ったわ」
顔を洗うと、三郎はまたビールを飲み始めた。
「美樹」
「え?」
「俺と一緒になって幸せか?」
「いまさらそんなこと聞いて、どうする気?」
「俺は美樹と結婚して、幸せだぞ」
「嘘いってる。あの年上の女性のこと、まだ忘れてないんでしょう。寝言で、能登さんて、いってたわよ」
「そんなこといってたのか・・・」
「女だけじゃなく、男だって昔の女性のこと覚えてるのね」
二人が結婚して二十年。
三郎は頭髪に白いものが出始めているが、会社内の同好会ではラグビーを続けていて、学生時代と変わらない体形を維持している。
美樹は四十歳になっても顔の皺は細く、二十代に比べればいくらかふくよかだが、それがかえって色っぽく見える。
「久しぶりに、外で食事するか」
「お米研いだのに?」
「美樹だって、たまには楽したいだろう」
「有難う。じゃ、着替えるわね」
ノースリーブのミニのワンピースは目にやさしいグリーンで、ウエストはかなりくびれている。それにラメをあしらった白いカーディガンを羽織ると、いつものティーシャツ姿の美樹とは見違えるほど艶やかだった。
「俺はコットンスーツでも着るかな」
三郎は高校を卒業し稼ぐようになると、コンポーネントステレオを買い込んだり服にも金を遣った。その当時流行ってたコードレーンのスーツをまだ着れるのだった。
「古いのがかえって、モダンに見えるわよ」
「アイビールックは永遠だな」
二人は思い出の銀座へ出た。
「銀座も変わったわね。高校生のとき、あなたに連れられて来たときは日劇があったのに」
「映画館も少なくなった。スマートボールなんてなくなったし」
雨上がりの銀座は黄昏て灯ともし頃だった。
ビアガーデンは風が吹き、アルコールで暖まった身体に心地いい。
「さっき岳雄が、お父さんのいう同級生の女子って、お母さんのこといってたんじゃないかって」
「あいつ。気付いてたのか」
「何で結婚したのかって、聞かれたことあったから話したのよ。それも最近ね」
「そうか・・・」
「そうしたら、初体験はいつだって聞くのよ。そんなことどういっていいか分からないから、笑って誤魔化したけど」
「あいつ。多分まだ童貞なんだろうな」
「勉強ばかりしてて、女の子と付き合う暇もなかったし。それが半年前、デートするっていうから吃驚したわ。多分その子と付き合ってるんじゃない」
そういう美樹の顔は年に似合わず、恥じらいを浮かべている。
翌朝、岳雄は十時過ぎに帰宅した。
「お帰り」
「朝ご飯食べたの?」
「頭ぼーっとしてて、眠いからいらない」
「そう。ゆっくり寝るといいわ」
美樹がにこやかにいう。
「岳雄。昼は赤飯にしような」
「なんでもいいよ」
息子が二階に上がっていくと、三郎と美樹は声をあげて笑いあった。
「可愛い女の子だったじゃない」
「上手くできたのか、聞いてみたいもんだ」
「厭なこといわないでよ」
昨夜、三郎夫婦は銀座から帰る途中、岳雄が女性とホテルに入って行くのを見てしまったのだ。
「初体験か・・・」
夏だといのに空は青く濃かった。
二十年以上も昔のことを思い浮かべながら、三郎は庭の椅子でハイライトを吸った。
「あのホテル。なんだか刺激的で燃えたわね」
「うん。高校生に戻ったみたいに、美樹のこと抱けたよ」
「たまにはラブホテルもいいものね」
来週も行こうかうという美樹だった。
岳雄は別れたばかりの加奈美の顔を思い出していたが、あっという間に深い眠りに落ち込んでいった。
「今日は岳雄が男になった記念日だ。赤飯で祝ってやろう」
「女の子じゃなくてよかった。女の子だったら、心配で気が気じゃないわ」
「そりゃそうだな」
完