負傷者の列と消えた少女
早朝から、慌ただしい空気が孤児院にあった。入口から診察室まで、列を作った人間が立っている。並んでいるのは貴族の屋敷にいるようなメイド、使用人などから衛兵までさまざまだった。彼らに共通しているのは、腕や足に怪我を負っているということだけだ。
「腕に傷薬を塗って……ミル、包帯の端を押さえていてくれる?」
「うん、わかった、シャルロッテお姉ちゃん」
「メルは、お水を持ってきて」
「はあい」
シャルロッテは双子に指示を出しながら、忙しく手を動かしていた。本来なら治療はバルドレイクの仕事だったが、今は不在だった。そのため、シャルロッテが解る範囲で、怪我の手当をしている。幸い、居並ぶ怪我人たちの傷は軽いものが多く、シャルロッテの知識だけでも十分に対処は可能だった。
初めの怪我人が運ばれてきたのは、日の出の直後くらいの時刻だ。寝間着のままだったシャルロッテは玄関口に現れたヒューリック家の執事から、怪我人の治療を依頼された。シャルロッテが着替えて間もなく、大勢の怪我人がやってきた。起き出してきた双子も、朝食を食べる暇もなく手伝いに入った。
「お腹、空いていない、ミル、メル?」
次の患者の怪我を調べながら、シャルロッテが言った。患者は使用人らしく、ズボンを履いた足に切り裂かれたような傷がある。水を使って、傷口を洗うと、患者の口から苦痛の声が上がった。
「大丈夫だよ。がまんできるから」
「ミルも、大丈夫。食べるときは、みんないっしょだよ」
笑顔を浮かべて答える双子に、シャルロッテは微笑んだ。患者の傷口に薬を塗って、糸で縫い合わせる。あとは、包帯を巻けば終わりだった。
「メル、お水は?」
「もってきたよ。でも、おうちの水がめに、あんまり残ってないよ」
「そうなの。じゃあ、井戸に汲みに行かないと……」
シャルロッテが腰を上げかけたとき、次の怪我人が運ばれてきた。
「う、腕が、腕から血が!」
「落ち着いてください! 傷を見せて」
大したことのない傷だったが、男は大仰に痛がっていた。
「暴れたら薬が塗れません。少しは我慢してください」
男の腕を取って、シャルロッテが言い聞かせる。側を、メルが駆け抜けていった。
「メルが、お水くんでくる!」
「あ、メル! 少しずつでいいから、無理しないようにね」
ちらりとメルの背中に目をやってから、シャルロッテは患部に視線を戻した。浅く切られただけの、小さな傷だ。薬を塗って、男の腕をぴしゃりと叩く。
「痛い!」
「それくらい、我慢してください。あなたより酷い怪我の人もいるんです!」
叱りつけてから、シャルロッテは次の患者に取り掛かった。
昼前になって、ようやく最後の手当は終わった。シャルロッテは治療を終えた満足感と、未だ姿を見せないバルドレイクへの苛立ちの両方を感じながら、大きく伸びをする。
「おつかれさま、シャルロッテお姉ちゃん」
カップに入れた水を、ミルが差し出してくる。受け取ってから、シャルロッテはミルの頭を撫でた。
「ありがとう。ミルもお疲れ様」
一息に水を飲み干して、シャルロッテはテーブルにカップを置いた。包帯の切れ端や血で汚れた衣服のくずなどで、テーブルは雑然としている。ほとんど空っぽになっているのは、傷薬、と書かれた陶器の壺だった。
「底のほうにまだ残ってるけど……もう空ね」
バルドレイクの調合した薬を、足しておかなければならない。疲れた頭で考えていたシャルロッテは、ミルの頭の手を止めて尋ねる。
「そういえば、メルはどこかしら?」
ミルはきょろきょろとあたりを見回すが、診察室の中にメルはいない。
「あれ? どこだろ」
首を小さく傾げるメルのお腹が、可愛らしく鳴った。
「……おなか、すいたね」
シャルロッテはミルに笑いかけて、椅子から立ち上がった。
「それじゃあ、朝ご飯の準備、お願いしてもいい? 私は、メルを探してくるから」
うん、と元気よくミルがうなずいて、台所へ駆けだしていく。シャルロッテも一緒に台所を見たが、メルの姿はない。
「お水、たくさんあるね」
ミルが指差しているのは、井戸から汲んだ水を貯めておく水瓶だった。瓶の中には、水が七分目ほど入っている。
「……まだ、お水を汲みに行ってるのかしら」
井戸は孤児院からそう離れた場所ではなく、メルの足でも往復にはそれほど時間は掛からない。
「井戸、見に行ってくるね。ミルは、朝ご飯のほう、お願い」
「うん。でも、もうお昼ごはんになっちゃうね」
食事の支度を始めるミルを残し、シャルロッテは孤児院から井戸へと向かった。井戸の周りには、洗濯をする女性が数人、立ち話に興じている。メルの姿は、どこにもない。
「あのう、すみません」
シャルロッテは周囲を見渡してから、女性に声をかけた。
「ああ、孤児院のシャルロッテちゃん。水汲みかい? 今日は遅い時間だね。寝坊でもしたの?」
「何言ってるの、奥さん。孤児院は、今朝がた騒ぎになってたじゃないの。シャルロッテちゃん、何があったの?」
好奇心を目に宿した女性が、シャルロッテに問いかけてくる。
「怪我をした人が、うちに運ばれてきたんです。それで、治療していたんですけど」
「あらまあ、大変だったわねえ」
「それで、治療中にメルがここへ水を汲みに行ったんですけど、見てませんか?」
井戸端で立ち話をしていた女性たちは手を止めて、考え込んだ。
「……あたしたちは、見てないわねえ。メルちゃん、いなくなったの?」
「そうなんですけど……もしかしたら、どこかで寄り道をしているだけなのかも知れません。ほかのところも、探してみます! ありがとうございます!」
女性たちに見送られて、シャルロッテは孤児院の前まで戻った。途中にある小道をのぞいてみたが、やはりメルの姿はない。もしかしたら帰っているかもしれない、そう思って台所に戻ってみたが、帰ってきてはいなかった。
「メルを、探してくる。ミルはここにいて」
ミルを残して、再びシャルロッテは孤児院を飛び出した。井戸端だけではなく、市場や、表通りも走り回った。草むらの中や、細く暗い裏路地も、メルの名を呼びながら歩いて探した。
夕方になっても、メルは見つからない。憔悴しきったシャルロッテは、孤児院へと戻った。