気鬱の夫人
いつも以上に、爽やかな朝の目覚めが訪れた。身体の隅々まで、活力が行き渡る。シャルロッテは大きく伸びをして、朝日を浴びた。寝間着を着替えて、共同の井戸まで水を汲みに行く。見慣れた裏通りの家並みが、輝いて見えた。
「おはよう、ミル、メル」
「おはよう、シャルロッテお姉ちゃん」
「おはよう、今日は、なんだかすっごく身体が軽いね」
水汲みを終えて、戻ると双子が起き出していた。シャルロッテと同じく、活力溢れる動きをしていた。
「それじゃあミル、朝食の準備を手伝って。メルは、先生を起こしてきてくれる?」
シャルロッテの声に、ミルとメルははあい、と元気よく返事をする。三人だけの孤児院になって以来、それは初めての光景だった。
「どうしたの、シャルロッテお姉ちゃん?」
感動に胸を詰まらせ、瞳を潤ませていたシャルロッテの顔をミルがのぞきこんでいた。
「何でもないわ。さあ、昨日のご飯、温めましょう」
心配そうな顔をするミルに笑顔を向けて、シャルロッテはかまどに火を熾し鍋をかけた。
「やあ、おはようシャルロッテ。ずいぶん、調子がいいみたいだね」
のっそりとした動きで、バルドレイクがメルに手を引かれて歩いてきた。
「おはようございます、先生」
バルドレイクは、相変わらずの風采の上がらない姿だった。丸メガネの奥にある眼を眠たそうに瞬かせて、席に着く姿はこの場で最も不健康に見える。
「いま、朝食を準備しています。顔でも洗ってきたらどうですか?」
あくび交じりにうなずいたバルドレイクが、水場で顔を洗う。苦笑してからシャルロッテは、洗い終えたバルドレイクに乾いた布を差し出した。
「あの子はまだ、起きられないですよね? 朝ご飯、持って行ってきます」
シャルロッテの言葉に、顔を拭き終わったバルドレイクは首を横へ振った。
「いや、あの子の分はいいよ。今、お使いを頼んでる。終わったら、家に戻って寝るだろうし」
再びあくびをしながら、バルドレイクが言った。
「……お使い? どういうことですか、先生? あの子は、昨日治療をしたばかりで、動ける身体じゃないと思うんですけど」
険を帯びた眼で、シャルロッテはバルドレイクを見つめた。バルドレイクは困ったような顔で笑い、ぼさぼさの頭をかいた。
「いや、その、症状はもう大丈夫だったし、大事な用事があってね」
「どんな用事か知りませんけど、私じゃダメだったんですか? あの子には、静養が必要ですよね?」
「それは、その……あはは」
「先生、私は、先生の助手として、信用できませんか?」
バン、とテーブルに手をついて、シャルロッテはバルドレイクに詰め寄った。双子が同時に肩をびくんと震わせて、それぞれシャルロッテとバルドレイクの後ろに隠れる。
「……信用は、しているよ。でなければ、虫のことを、君に言ったりはしない」
バルドレイクの眼が、上目遣いにシャルロッテを捉えた。有無を言わせない、硬質的な何かを秘めた視線だった。射すくめられて、シャルロッテは黙り込む。
「ねえ、朝ごはん、食べよ?」
「ミル、お腹すいたよ、シャルロッテお姉ちゃん」
くう、と双子のお腹が可愛らしく鳴った。ふっと、バルドレイクの視線から圧力が消える。
「そうだね、ミル、メル。シャルロッテ、僕も、そろそろ朝食をとるべきだ、と思うよ」
メルの頭を撫でながら、バルドレイクが言った。シャルロッテはうなずいて、テーブルの上に皿を並べ始める。ミルも手伝って、朝食の準備はすぐに終わった。
「それじゃあ、食前の祈りを、シャルロッテ?」
席に着いたまま動かないシャルロッテを、バルドレイクが言葉で促した。双子も、不思議そうな視線を向けている。シャルロッテは慌てて手を合わせ、祈りの文言を口にした。
食事のあと、孤児院の玄関の戸が叩かれた。シャルロッテが戸を開くと、ヒューリックの屋敷の執事が乗り付けられた馬車の前に立っていた。
「お迎えに、上がりました。バルドレイク先生の準備は、お済ですか?」
言われてシャルロッテが診察室へ行くと、バルドレイクは白衣に外出用のカバンを持って立っていた。
「やあ、さすがはヒューリックだ。手早い行動だね。さ、シャルロッテ。行くよ」
シャルロッテの手を引いて、バルドレイクが玄関に向かう。
「せ、先生、行くって、どこへです?」
戸惑いながら訊くシャルロッテに、バルドレイクは笑顔で答える。
「もちろん、ヒューリックの屋敷だよ。ああ、ミルとメルも、連れていかなきゃね」
大声でミルとメルを呼び、バルドレイクは双子を馬車に乗せる。バルドレイクにいざなわれるまま、シャルロッテも馬車に乗り込んだ。
はしゃぐ双子と困惑するシャルロッテ、そして平然としたバルドレイクと執事を乗せて、馬車はあっという間に孤児院からヒューリックの屋敷へとたどり着いた。
「ここで、お待ちください」
執事の案内で、シャルロッテと双子は豪奢な応接室へと通された。部屋を出る執事に、バルドレイクが続いて出て行く。
「ヒューリックの奥方が、最近少し気鬱気味でね。気晴らしに、ちょっと付き合ってあげてくれないかな?」
去り際に、一方的に言ってバルドレイクは姿を消した。高価そうな装飾品が並ぶ中、シャルロッテたちは金縛りにあったように動けず、応接室に女性が来るまで立ち尽くしていた。
「こんにちは。あなたたちが、主人の出資する孤児院の子供たちね?」
女性が、シャルロッテに向けて会釈をする。ふわりと、良い香りが漂った。
「こ、こんにちは……私は、孤児院で看護師をさせていただいてます、シャルロッテです。こちらは、ミルとメル。孤児院の、子供です」
緊張に身を固くしながら、シャルロッテは深く頭を下げた。ミルとメルの頭を両手で持って、同じく礼をさせる。
「初めまして。私は、ミランダ。ヒューリックの家内ですわ」
優雅な身のこなしで、ミランダはシャルロッテたちに微笑んで見せた。
「何もない所だけれど、ゆっくりしていって頂戴ね、シャルロッテ、それに、ミルちゃん、メルちゃん」
シャルロッテ、ミル、メルの順にミランダは手を取り、軽く握手をした。双子を見るミランダの眼に、異質なものをシャルロッテは感じる。しかし、それは一瞬のことだった。それからは、とりとめのない話が始まった。ヒューリックの行状についてや、孤児院での苦労や、バルドレイクの勤務態度など、時折笑みを交えてミランダは聞き、話す。その表情には陽気ささえあり、とても気鬱とは思えないほどだった。
昼食をミランダはメイドに運ばせ、応接室でそのまま食事になった。最近は政治向きの客が多く、主人と食事をする機会はほとんどないのだ、とミランダは寂しく笑う。シャルロッテには、気休めを口にすることはできなかった。ただ、ミルとメルが豪華な食事にいちいち歓心の声を上げるので、いつの間にかミランダと一緒に笑っていた。
帰りの馬車の用意が、整った。夕方前の時刻だったが、屋敷での晩餐会が開かれミランダも出席しなければならないとのことだった。
「名残惜しいけれど、また、いつでも遊びに来て頂戴」
ミランダはシャルロッテの手を握り、言った。
「また遊びにくるね、ミランダさん」
「こんどは、うちにいらしてね、ミランダさん」
元気よく言う双子を、ミランダは一人ずつ抱きしめる。
「ええ。是非、また会いましょう。ミルちゃん、メルちゃん」
「それでは、ミランダさん。今日は、ありがとうございました」
ミルとメルの手を引いて、シャルロッテは深々と頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとう、シャルロッテさん。あなたたちとのお話は、私にとって何よりの薬になるわ。本当に……」
シャルロッテに向けた言葉を口にしながら、ミランダの眼はミルとメルに注がれていた。奇妙な違和感を覚えながら、シャルロッテは双子と共に帰りの馬車に乗り込んだ。
「楽しかったね、シャルロッテお姉ちゃん」
ミランダの態度を思い返しながら、シャルロッテはミルに曖昧なうなずきを返した。
「ねえ、せんせいは?」
メルが問いかけたのは、馬車が孤児院の前に着き、シャルロッテたちを降ろして走り去った後のことだった。