おしまい 闇に寄り添う二人
孤児院に帰ってきたのは、翌日の朝だった。フラットの遺体は焼却され、罪人の墓地へと埋葬されることになった。クラッチレイ夫人は、衰弱していたが一命は取り留め、ヒューリックに送られて屋敷へと戻っていった。引き継ぎにやってきた若い医師に東地区の診療所を託し、朝の喧騒に包まれ始めた町を歩いて、孤児院まで戻ってきたのだ。
帰ってきたバルドレイクとシャルロッテを、孤児院は静かな佇まいで迎え入れる。ざわざわと、外壁のツタの葉が揺れていた。
訪れる患者の治療を続けるうちに、夕刻になっていた。少年の薬草園へ働きに出ていたミルが、大量の食材を抱えて帰宅する。シャルロッテとミル、そしてバルドレイクと少年が夕食の卓を囲み、ささやかな帰還祝いの宴が催された。
夜半過ぎになり、バルドレイクは診察室に入った。蝋燭を持った少年が、後に続く。シャルロッテは、ミルを寝かしつけるために寝室へ行っていた。
「今日は、ここに泊まるの?」
「たぶん、そうなるんじゃないかな。シャルロッテに、話をしておかないといけないからね」
バルドレイクの言葉に、少年はうなずいて身を翻す。
「それじゃあ、俺は戻るよ。あとは二人でごゆっくり」
「君も、アニーとゆっくり過ごすといいよ。フラットの件も片付いたし、しばらくは安泰だろうからね」
少年はニヤニヤと浮かべた笑顔のまま、姿を消した。部屋に、静寂が訪れる。バルドレイクはカバンの中から酒瓶とグラスを取り出し、酒を注いだ。樫樽で熟成された、それはヒューリック家の秘蔵の逸品だった。祝いの品だと言って親友から贈られた酒を、ゆっくりと口にする。木の香りが、鼻孔を抜けていく。とろりとした感触が、舌から咽喉へ、落ちていく。掛け値なしに最高級の味わいに、バルドレイクはしばし陶然となった。
「先生、いいですか?」
診察室の扉がノックされて、シャルロッテの声が聞こえた。
「ああ、いいよ」
バルドレイクの返答に、シャルロッテが扉を開けて入ってくる。恰好は、バルドレイクが贈ったものである。室内なので、帽子はかぶってはいない。細身ではあるが、女性らしい丸みのある身体。その胸元へ、バルドレイクは目を向ける。
「……やっぱり、目立ちますよね」
シャルロッテが、ブラウスの胸元を引っ張って言った。
「今度、汚れの落ちる洗剤を調合するよ」
淡いピンクのスカートの裾まで、赤黒い飛沫の跡が残っていた。一応洗濯はしたのだが、血の汚れは染み付いて落ちてはいない。
「ぜひ、お願いします」
ベッドの脇に椅子を寄せて、バルドレイクと向かい合う位置にシャルロッテが腰掛けた。手を伸ばせば届く場所に、温かなシャルロッテがいる。バルドレイクはグラスに酒を注いで、シャルロッテに渡した。
「まずは、乾杯だ、シャルロッテ」
「はい、先生」
かちん、とグラスを合わせ、飲み干す。バルドレイクのグラスはグラス半分ほどだが、シャルロッテはグラスいっぱいの酒を一気に飲んでいた。
「……シャルロッテ、少しずつで、いいんだよ?」
少し顔を引きつらせながら、バルドレイクは言った。
「ごめんなさい、でも美味しくって」
空になったグラスを指で弄びながら、シャルロッテが小さく舌を出した。
「まあ、それでも前みたく酔っぱらうことは無いだろうけれどね。気分はどう、シャルロッテ?」
「はい、不思議と、力が湧いてくるみたいです。よく眠って、しっかりと食事をした後みたいに」
「うん、大丈夫みたいだね。それが、竜人の反応だよ」
「りゅう、びと……ですか?」
シャルロッテが首を傾げ、問いかける。バルドレイクは、うなずきを返した。
「そう、竜人。竜の血を飲んだ君と、そして僕が成ったものだよ」
「竜の、血……」
「ちなみに、猛毒だよ」
「猛毒……ですか」
「うん。人間が触れると、たちまちに皮膚が糜爛する。口にすれば六時間以内には死亡する、恐ろしい毒だよ」
「え……でも、それを飲んだ私と、先生も……?」
「君が飲んだのは、本物の竜じゃなくて竜人の僕の血を使ったものだから。ちゃんと竜の血の成分を再現してあるから猛毒ではあるけれど、薬で毒性をある程度中和しているからね」
シャルロッテの瞳には、理解のいろと疑問のいろが同時に浮かんでいた。
「私のほうは、何となくわかりました。血を吐いたのも、そのせいなんですね?」
「うん。身体を竜人のものに作り替える際に、耐えきれなくなった人間の細胞とかが排出される。たぶん、そういった現象なんだろうね」
「たぶん、で薬を投与しないでください、先生。結構、痛かったんですからね?」
恨めしい視線を向けてくるシャルロッテに、バルドレイクは苦笑を返す。
「すまなかったね。僕としても、竜血丸を投与するのは、初めてだったから」
突き出された空のグラスに、酒を注ぐ。今度は一気に飲み干さず、シャルロッテは少しずつ舐めるように口にする。
「ん。それで、先生のほうは、どうなんですか?」
シャルロッテの問いに、バルドレイクは一瞬言葉を詰まらせる。シャルロッテの目を、見る。静謐さを湛えた湖面のような、綺麗な瞳だった。
「……僕が飲んだのは、本物の竜の血だよ。もちろん、薬で毒性を消したものだけれどね」
グラスに酒を注いで、口へ入れる。苦味が増した気がするのは、恐らく感傷によるものだろう。顔を歪めながら、バルドレイクは語り始めた。
「僕は故郷で、錬金術師という職についていたんだ。薬学、冶金学に通じた、学者のようなものだよ。その国の王に仕え、宮廷で研究することを許されていたんだ。王の命令で、僕は不老不死の薬を作ることになった。王は老い始めていたから、あらゆる手段を試したんだ。僕は全力で、王の命に応えた。いや、応えようとしたんだ。けれども、結果は芳しいものではなかった。行き詰っていた僕は高山をめぐり、珍しい薬草をたくさん集めていた。そこで……竜に出会った」
ゆらゆらと、机の上で揺れている蝋燭の火に目をやった。バルドレイクの丸メガネに、ゆらめく火をシャルロッテが眺めている。グラスの中身を干して、テーブルに置いた。
「その竜は、幼い少女の姿をしていたよ。ミルやメルよりも、少し大きいくらいかな。でも、本当の姿を見せると、山のように大きな体を持つ竜になった。僕は数年、竜と共に過ごした。不老不死の薬の手がかりが、得られるかもしれない。そう思って、竜を研究するためにね。竜のほうは、僕を気に入ってくれた。竜安という名前を、気に入ったのかも知れない。やがて僕は、竜の血の効能と毒性に気付いた。その血を使えば、薬を作れるかも知れない。狂喜する僕に、竜も喜んで力を貸してくれた。そして、作り上げたんだ。不老不死の薬、ともいえる竜血丸を」
空になったバルドレイクのグラスに、シャルロッテが酒を注いだ。飲み干すと、苦い味だけが残るようだった。
「試作した薬を、僕は飲んだ。自分の身体で、実験するしかなかったんだ。結果、僕は竜人と成り、完成した薬を王の元へ届けようとした。竜に、別れを告げて。竜は、大いに悲しんだ。不老不死になれば、ずっと一緒に暮らしていける、そう思っていたと言った。でも僕は、王に仕える身だ。人の国では竜は暮らせない。価値観も、何もかもが違いすぎるから。だから僕は竜を置き去りに、国へと戻ったんだ。だけれど、国では国王の葬儀が行われていた。僕の薬は、間に合わなかった。新たな国王は僕のことを国の金で遊び呆けている偽学者と決めつけて、国から追放した。追い出されて、竜のいる山に戻るわけにもいかず、僕は、長い間、本当に長い間、彷徨っていたんだ……」
いつしか、酒瓶は空になっていた。竜人の身体に、酔いは訪れない。だが、バルドレイクは酩酊に似た感覚を味わっていた。シャルロッテはただ黙って、バルドレイクの背を優しく撫ぜる。その手の温もりが、愛おしかった。
「王に仕えることを、それだけを思って生きてきた。王とともに、僕の人生は死んだんだ。そう思いきって、ずっと彷徨ってたんだ……」
「どうして、医師になったんですか?」
シャルロッテが、初めて言葉を挟んだ。真剣なまなざしが、バルドレイクを射抜いてくる。
「僕は……たくさんの命を、見た。戦争をしている国では、当たり前のように失われていく。災害のあった土地では、疫病が蔓延して失われていく。そんな光景を何度も、何度も見るうちに……気がついたら、救っていた。培ってきた知識を、何かに使う。そうすれば、空っぽになってしまった人生を、終わらない人生を、もう一度やり直せるかも知れない。そう、思ったんだろうか」
呆然とした頭の中で、言葉だけがつらつらと口から零れ落ちていく。その感覚は、バルドレイクにとって不快なものではない。見つめてくるシャルロッテの顔が、優しい微笑みに彩られる。
「先生は、頑張ったんですね……」
柔らかな感触が、バルドレイクの全身を包んだ。抱き寄せられるままに、バルドレイクはシャルロッテの腕の中で目を閉じる。
「僕は、ろくでなしだ……何もできずに、ただ、生きているだけの」
「先生は、立派な医師です。誰よりも努力して、孤独と苦痛に耐えて」
耳元で、シャルロッテが言う。吐息が耳にかかりくすぐったいが、どこか心地よいものだった。
「シャルロッテ……僕は、君を……」
「私は、先生が好きです。愛しています」
バルドレイクの唇に、柔らかいものが触れた。熱く、溶けるようなキスだった。
「僕も、君を好きだと思う。愛している、シャルロッテ」
何度も触れてくるシャルロッテの熱に誘われるように、バルドレイクも唇で応える。
「こんな僕でも、愛してくれる君が好きだ、シャルロッテ」
「先生……」
囁くシャルロッテの呼びかけは、特別に思えた。シャルロッテの、先生と呼ぶ声の、すべてが愛おしい。バルドレイクはシャルロッテの頬に手を当てて、再び唇を重ねた。
どちらからともなく、寝台へ身を横たえる。触れあう手と手が、互いのすべてを曝け出してゆく。蝋燭は燃え尽きていて、部屋には闇が訪れていた。不器用に寄り添う二人の影が重なり、闇は優しく影を包んでいった。
朝日が、孤児院の窓へ差し込んでくる。身を起こしたバルドレイクは、衣服を身に着けて白衣を羽織った。
「おはようございます、先生」
「せんせい、おはようございます」
食卓へ行くと、シャルロッテとミルが朝食の準備をしているところだった。
「やあ、おはよう、シャルロッテ。それから、ミルも」
「朝ご飯はもう出来ますから、先生は座っていてくださいね」
かまどの前に立って鍋をかき回しながら、シャルロッテが言う。バルドレイクは椅子に座り、シャルロッテの華奢な背中に目を細めた。
「せんせい、きょうはちょうしがいいみたいね」
皿を並べるミルが、笑顔で言った。
「シャルロッテお姉ちゃんも、きょうははりきってるの。おそろいだね」
ミルの声に、シャルロッテの肩がぴくりと動いた。
「久しぶりに、ミルの顔が見られたからだよ」
バルドレイクは言って、ミルの頭を撫でた。
「ひさしぶりって、三日ぶりだよ?」
「そう言えば、そうだね」
バルドレイクが小さく笑うと、ミルはそれ以上問いを重ねることはなく、皿運びに戻った。
朝食のメニューは、相変わらずのソラマメのスープと小魚の煮物だった。三人揃って手を合わせる。
「食物に、感謝を。いただきます」
「いただきます」
ミルと声を合わせて、祈りの言葉を口にする。いつもと変わらない味が、どこか新鮮に感じられた。
朝食が終わると、まるで計ったように少年がミルを迎えにやってきた。
「やあ、にいさん。姉ちゃんの顔を見るに、昨日は上手くいったみたいだね」
並んで見送る二人を見るなり、少年が言った。
「小さい子の前で、そういう話題はあまり感心できないね、アル君?」
笑顔のままで、バルドレイクが言った。少年も笑顔であったが、顔は引きつっている。
「そ、それじゃあ、行くぞ、ちび」
「うん。シャルロッテお姉ちゃん、先生、行ってきます!」
何度も振り返り、手を振るミルを見えなくなるまで見送った。
「先生、あの、私たちのこと、ミルとメルには……」
「うん。折をみて、伝えようか、シャルロッテ」
はい、とうなずくシャルロッテの、手を取る。孤児院の玄関へ、歩き出したとき、
「ふぇふぇふぇ、仲良きことは美しきかな、だねえ」
老婆の声が、背後から聞こえた。
「ロゼリアさん! きょ、今日はどうされました?」
素早く手を離し、シャルロッテが上擦った声を出した。
「今日は、何だか肩が痛くってねえ……むずむずと」
老婆の言葉を聞いて、バルドレイクの眼に鋭い光が生まれる。
「そうですか。それでは、診察しますので、どうぞ。シャルロッテ、湯を沸かして、薬の用意を頼めるかい?」
「はい、先生!」
慌ただしく動き始める二人の医師を、楽しげに笑って見つめる老婆。孤児院の新たな一日が、始まっていく。バルドレイクとシャルロッテの、病との闘いはこれからも続いていくのであった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。ここまでで、二人の物語は完結となります。御意見、御指摘や御感想などありましたら、お気軽にお寄せください。
それではまた、次の作品で楽しんでいただければ、幸いです。