痕跡と難題
テーブルの燭台に灯された三つの蝋燭の灯りが、白いテーブルクロスの表面を照らしていた。空になったデザートの皿を、給仕が下げていく。ブランケットが手を鳴らすと、給仕はティーセットを置いて個室から出て行った。湯気を立てるカップが、ブランケットとバルドレイク、そしてシャルロッテの前に置かれていた。
「それでは、お話を伺いましょうか、バルドレイクさん」
ねっとりとした声色で、ブランケットが言った。顎や咽喉に脂肪をたくさん蓄えているので、どうしてもそういう声になってしまうのだろう。気にせず、バルドレイクはまず一礼する。
「今日は僕達のために、お時間を割いていただき感謝しています、ブランケットさん」
そう言うと、隣に座るシャルロッテも頭を下げた。シャルロッテの表情は硬く、どこか怒っているようにも見える。だが、バルドレイクに心当たりはない。きっと、徹夜の疲れが出てしまっているのだろう。大商人という、社会的な地位の遥か高みにいる存在に対し、緊張しているのかもしれない。いずれにせよ、長く会談を続けるつもりはバルドレイクには無い。
「早速ですが、僕からお願いがあるのです、ブランケットさん」
「ほう、私でお力添えができますかな? まあ、ヒューリック家の紹介状をお持ちのあなただ。話だけは、聞いて差し上げましょう」
ふんぞり返るように、ブランケットが座ったまま胸を張る。腰が、悪いのだろう。ブランケットを診て、バルドレイクは診断を下した。彼にとっても、あまり長話は望むところではないらしかった。
「単刀直入にお聞きします。ブランケットさん、あなたは、フラットという男をご存じですね?」
「フラット……ですか。私のところの荷役を担う労働者はたくさんいます。その中に、そういう名の男は、いたかもしれませんな」
「クラッチレイ家の馬車を所有する、四十くらいの男です。もしかすると、覆面をしていたかもしれない」
バルドレイクの言葉に、ブランケットが腕を組んで上を見た。
「はて……覆面。そのような、面妖な格好の使用人はいなかった気が、いたしますな」
「目を見て、お話いただけますか?」
バルドレイクは丸メガネを外し、ブランケットの顔を見る。
「私は生来の恥ずかしがりやでしてね。ご勘弁願いたい」
微笑みながら、上を見やったままブランケットが言った。
「フラットから、ある程度のことは聞いているようですね。失礼しました……もう、大丈夫ですよ?」
メガネを掛けなおしたバルドレイクに、ブランケットはようやく視線を向ける。
「何のことやら……」
「恥ずかしがりやでは、失礼ながら大商人に成り上がることなどできないでしょう」
バルドレイクが指摘すると、ブランケットはにやりと笑った。
「どうやら、少しはお話する価値のある方のようですな」
「それでは、フラットの居場所をお教え願えますか?」
「それはできません。私は商人でしてね。彼にはそれなりの代金を頂き、安全な住処という商品を提供しているのですよ」
「彼を匿っている、ということは教えていただけるのですね」
「それは、あなたがそれなりの代金を支払った引き換え、というものです。そちらのお嬢さんに贈られたのですね、金貨百枚のケープは」
がちゃん、とシャルロッテの手からティーカップが落ちた。幸い、カップは割れていない。
「ええ。あなたの店にあって一番の値の付いた、そして何より彼女に似合うものを選ばせていただきました」
怪視線をぶつけてくるシャルロッテをちらと見やり、バルドレイクは小さくうなずく。後で、色々と訊かれることになるかもしれない。心の隅を、そんな思いがかすめた。
「私がフラットというお客様についてお教えできることは、ありませんよ」
「あなたに、甚大な損害をもたらそうとしているとしてもですか、ブランケットさん?」
ブランケットの表情が、厳しいものになる。威圧するような視線を、バルドレイクは正面から受け止めた。
「私が、損害を受けているのですか? 匿った、彼から?」
「はい。確証も、あります」
「その確証とやらを、お聞かせいただいても?」
「グエン、という荷運びの男はご存知ですね? あなたの店で、働いている」
「ええ、もちろん。町中で刃物を持って騒ぎを起こしたことも、あなたが負傷した彼の治療に携わっていることも、知っています。真面目で、有能な男だったのですが……」
ブランケットが知っているのは、おそらく衛兵が事情聴取に来たのかもしれない。そのときに、バルドレイクのことも話したのだろう。したたかで権威に屈しない大商人が、一貴族の紹介状で会見の場を設けたことは、衛兵から聞き出した情報が関係しているのかもしれない。
「グエン君の身体から、ある病原体が発見されました。それは非常に強力な、そして人造されたものです。彼が狂態を見せた原因は、そこにあるのです、ブランケットさん」
「彼が、未知の病気に罹っていた、ということですか?」
「フラットの手によって、造られた病気です。恐らく彼は、フラットの所へ連絡か何かをする役割を担っていたのではないのですか?」
「……なぜ、フラットという男の手によるものだと思われるのです?」
「フラットは、人の身体を使って病原体を培養しています。僕は彼の作品を、いくつも見てきました」
ブランケットはうつむいて、考えるそぶりを見せた。
「フラットの、目的は?」
「疫病を、全世界へと広めることです。そうして、病の恐怖によって人間を支配しようとしている」
「……あなたの言葉を、信じる根拠が欲しい」
ブランケットは言って立ち上がり、テーブルに備え付けてあるベルを鳴らした。現れた給仕に帰る旨を伝え、馬車を呼んだ。
「どうすれば、信じていただけますか?」
バルドレイクの言葉に、ブランケットはじっと視線を送ってくる。
「これから、私の使用人を、治療していただきたい。もちろん、報酬はお支払いします」
「どのような患者ですか?」
「……四人の手足に、それぞれ奇妙な腫れ物が出来ましてね。私のかかりつけの医師は、切断するしかない、という診断を下したのですよ」
「その四人の使用人は、フラットに関連する仕事を?」
「ええ。グエンと同様、連絡や物資の配達をしていました……あの男の」
疑り深い男の目の中に、真摯な光がみえた。
「もしも、彼らの手や足を切り落とすことなく治療ができたなら、お教えしましょう。フラットの、居場所を」
「承りました。僕達としても、困っている患者がいるのなら行かないわけにはいきませんからね」
バルドレイクの後ろで、シャルロッテも同意のうなずきを見せた。
四人の使用人が寝かされている倉庫に連れて来られた時には、もう真夜中といっていい時間になっていた。薬草の臭いがたちこめる闇の中、簡素なベッドが四つ並んでいる。
「ここは、使用人の療養所です。怪我をして働けない間、彼らはここで養います」
「働けなくなったら、切り捨てるのではないのですか」
「幼い頃から技術を覚え込ませていますからね。元手がかかっているのです。それに、療養所も無料で使わせたりは、しません」
にたり、と不気味な笑みをブランケットが浮かべる。蝋燭の細い灯りに照らされ、その顔は一層怪異に満ちたものに見える。
「……ともかく、診てみましょうか」
四人の男達の、四肢の一部分ずつには包帯が巻いてあった。包帯のある患部は膨れ上がり、節のように盛り上がっている。右腕に包帯のある男の脈を取った。どくん、どくんと、男の脈とは違うリズムで患部が脈動している。危険な、状態だった。
「ブランケットさんは、そこで見学されるのですか?」
「もし不都合がなければ、そうしたいのですが」
「彼らが危険な状態にあります。処置を誤れば、患部が破裂して病原体が撒き散らされる恐れがありますが」
「……私は家で待つことにします。外に人を置いておきますので、処置が無事に終わった際には彼に知らせてください」
あっさりとブランケットは引き上げて、バルドレイクの側にはシャルロッテと患者の四人だけが残った。昏睡している患者たちを前に、バルドレイクはシャルロッテに向き直る。
「治療を始める前に、シャルロッテ。君にひとつ、お願いがあるんだ」
「はい、先生」
ブランケットはいなくなったが、シャルロッテの表情は硬いままだった。患者の様子を診て、難しい治療になることを予測しているのか、あるいは蓄積した疲労に耐えているのかもしれない。いずれにせよ、バルドレイクはシャルロッテの決断を必要としていた。
「これを飲んで僕と一緒に彼らを治療するか、それとも診療所へ帰って身体を休めるか、どちらかを決めてほしい」
バルドレイクは懐から薬包を出し、シャルロッテに手渡す。シャルロッテの手によって開かれた薬包に入っていたのは、赤黒く艶のある丸薬だった。
「これは、何ですか?」
薬を手にしたシャルロッテの目が、バルドレイクを見つめる。
「それは、竜血丸。以前君とミル、そしてメルの飲んだ竜血湯を、濃縮したものになるんだ」
シャルロッテのまっすぐな視線を、バルドレイクは受け止める。トパーズを思わせる、瞳のいろ。今夜限りで、それが見納めになってしまうのかもしれない。そう思ったとき、バルドレイクの胸に鋭い痛みが走った。
「……飲むと、どうなるんですか?」
「あらゆる病原体をほとんど受け付けない、完璧な抗体を身に宿すことができるんだ。さらには筋肉や骨の変異によって、大幅な肉体強化が訪れる。人間には有り得ないほどの、強力な存在となるんだ。つまり……人間で、なくなってしまう」
息をのむシャルロッテに、バルドレイクは言葉を続ける。
「僕が今対峙しているのは、とても危険な病原体だ。処置をするには、この薬を飲む必要がある。万が一、ではなく絶対に、病原体はこちらへ干渉してくる。人間の身体では、耐えられないんだ」
丸メガネを外し、バルドレイクはシャルロッテの両肩に手を置いた。
「四つ同時には、難しいかもしれない。でも、僕はシャルロッテの意思を尊重したい。そして、シャルロッテ。君の命を、守りたい。だから……」
見つめながら、バルドレイクは息を吸う。
「君に、決めてほしい。君がどんな選択をしても、僕は君を守るから、シャルロッテ」
わずかな時間、沈黙が訪れた。目を伏せたシャルロッテがうつむいて、そしてゆっくりと顔を上げる。その目には、迷いのいろは無い。
「わかりました、先生」
そう言って、シャルロッテは微笑んだ。