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闇底の白衣  作者: S.U.Y
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初めてのお出かけ

「出張する、ってどういうことですか?」

 いつも通り、昼一番に顔を見せたバルドレイクの言葉に、シャルロッテは疑問の声を上げた。バルドレイクはカバンをテーブルに置き、薬棚からいくつかの瓶を中へ投じていく。

「町の東地区に、小さな診療所があってね。そこの医師とは知り合いなんだけれど、老齢な方でね。半月ほど、診療所を空けることになったんだ。温泉へ行くらしい。もちろん代わりの医師は手配しているんだけれど、到着は三日後になるんだ。だから、それまでの間、そこで活動することになる」

「ここの患者さんたちは、どうするんです?」

「多めに薬を渡しておいたし、処置が必要な患者については済ませておいたから大丈夫だよ。急患があった場合には、ヒューリックが動いてくれる」

 ここ最近の忙しさを、シャルロッテは思い返していた。バルドレイクがふらふらとあちこちを回り、孤児院へ患者を連れてきていた。シャルロッテも診察をし、薬を大量に作っていた。

「それで、いつ出発なんですか」

「ああ、今日だよ。三日間は泊まり込みになるから、そのつもりで」

 シャルロッテは口を開けたまま、固まった。

「……いつ、決まった話ですか?」

 孤児院の患者たちの処置からして、バルドレイクがしていたのは前準備だ。事前に判っていたなら、教えてくれてもよかったのではないか。そんな思いで、シャルロッテは訊いた。

「ん? 昨日の、明け方くらいだね。野暮用で東地区の酒場まで行ったときに、偶然頼まれたんだ」

 バルドレイクの答えは、シャルロッテの予測を覆すものだった。

「……ずいぶん都合よく頼まれたんですね」

 不審な顔をするシャルロッテに、バルドレイクは邪気の無い笑顔を向けた。

「うん。まあ僕も、時間を作りたかったこともあるし、ちょうど良かった、かな。シャルロッテ、君は、東地区へ行ったことは?」

「ありません。物心ついたころから、ここでずっと暮らしてましたから」

「そうか。それじゃあ、向こうへ行ったら市場でも見物に行こうか。こっちの市場よりも、品ぞろえは豊富だし、活気も違う。きっと、いい気分転換になるんじゃあないかな」

 バルドレイクに言われて、シャルロッテは東地区の市場を思い浮かべた。色とりどりの果物や可愛らしい雑貨が並ぶ店先を、並んで歩く二人。もちろん手を繋いで、想像の中なので、シャルロッテは洒落たドレスを身に着けている。バルドレイクも、貴族風のエレガントな服装に着替えさせておく。くるくると、光り輝く市場が回り始め、二人を包む。微笑んだバルドレイクが、シャルロッテの手を取り肩を抱き寄せ、軽やかなステップを踏み始める。

「シャルロッテ?」

 光に包まれた輪の中には、ミルとメルもいる。ヒューリック夫妻も、ギルバートもいた。患者のロゼリアさんも、皆笑顔を浮かべて中心で踊る二人を拍手で祝福していた。

「シャルロッテ、危ないよ?」

 バルドレイクに手を引かれ、シャルロッテは動きを止めた。目の前には壁があり、ステップを続ければ激突してしまっていたところだ。我に返ったシャルロッテは素早く振り向いて、バルドレイクに頭を下げた。

「す、すみません、先生」

 委縮して小さくなるシャルロッテの頭上で、含み笑いが聞こえた。上目づかいに見上げると、バルドレイクは楽しげに笑っている。

「その様子だと、楽しんでもらえそうだね」

「べ、別に、私は、そんな……もう、先生!」

 恥ずかしくなって、シャルロッテはバルドレイクの腕を叩いた。

「わかった、すまない、シャルロッテ。それより、準備を済ませてしまおうか」

 ばんばんと何度も叩くと、バルドレイクは素直に降参して言った。

 シャルロッテは自前のカバンに着替えと薬を詰め込み、準備を終えたバルドレイクの待つ玄関へと向かう。ミルは、少年が責任をもって預かってくれるということなので、心配は無かった。戸を閉めて、路地に出たシャルロッテは孤児院を見上げた。老朽化した外壁は所々が剥がれ落ち、侘しい佇まいである。それでも、昼の光の中で見る孤児院は、大きくて温かい、そんな感じがした。

「行ってきます」

 孤児院に一礼して、シャルロッテは歩き出した。向かいの民家の住人に、留守にする旨を伝えていたバルドレイクの元へ。柔らかな日差しの中で、孤児院は静かに見送ってくれた。


 様々な屋台の建ち並ぶ通りを歩きながら、シャルロッテはくるくると周囲を見回していた。柑橘類の積み上げられた店先からは、つんと良い香りが立ち上ってくる。夕刻前でも人は多く、行き交う人々にぶつかりそうになる。

「危ないよ、シャルロッテ」

 バルドレイクに手を引かれ、シャルロッテの身体が引き寄せられた。その空間を、駆け足の人が通り過ぎていく。

「あ、ありがとう、ございます、先生」

「礼には及ばないよ、シャルロッテ」

 にっこりと笑うバルドレイクに、気恥ずかしくなりシャルロッテは半歩下がる。

「はぐれたら大変だから、手は離さないようにね、シャルロッテ」

 喧騒の中はっきりと聞こえるバルドレイクの声に、シャルロッテはこくこくとうなずいた。

 東地区の市場は、シャルロッテの想像以上に賑やかで、物が溢れていた。食料品の屋台で、ソラマメを見つけて少しほっとしたり、値段を見て驚いたりと、視線をつい忙しく動かしてしまう。人ごみの中を慣れた様子ですいすいと歩いて行くバルドレイクの手を、シャルロッテが強く握って引く。そうすると、バルドレイクは足を止めて振り向いてくれる。シャルロッテはバルドレイクとはぐれることなく、屋台見学を楽しむことができた。

「シャルロッテ、これを」

 バルドレイクが、空いた手でシャルロッテに帽子を被せた。ほのかなピンク色の帽子は、シャルロッテの白衣に合わせたようにぴったりだった。

「先生、これは……?」

「記念に、と思ってね。そこで買ったんだ。似合うよ、シャルロッテ」

 小さく微笑みながら、バルドレイクが言った。シャルロッテは嬉しくなり、握っていたバルドレイクの右手を強く抱きしめる。

「シャルロッテ?」

「はぐれたら、困りますから……ありがとうございます、先生」

 小さく礼を言って、シャルロッテはバルドレイクに密着する。細くみえるがしっかりとしたバルドレイクの腕の感触は、シャルロッテの胸に安らぎを与えてくれた。ぽふり、と柔らかな帽子の上から、シャルロッテの頭が撫でられた。シャルロッテは目を細めて、バルドレイクの温かみを甘受する。

「先生、私、幸せです……」

 ぽつりと、小さく呟いた。それは喧騒に消えて、バルドレイクの耳には届かないだろう。シャルロッテはバルドレイクの腕に身体を預け、歩いた。

 永遠に続いてほしい、とシャルロッテの願ったわずかな時間は、唐突に終わりを告げた。上がった甲高い女の悲鳴と、どさりと何かが倒れる音。

「……シャルロッテ」

「はい!」

 バルドレイクの呼びかけに、シャルロッテは腕を解放して手を繋ぐ。人ごみを割って、バルドレイクとシャルロッテがたどり着いたのは市場の中心にある広場だった。見物する人垣に囲まれて、男が一人、腹を押さえてうずくまるように倒れている。男の身体の下には、赤黒い染みが拡がっていた。

「大丈夫ですか!」

 駆け寄ったバルドレイクが、男の腹を診た。銀色のナイフが突き刺さり、溢れた血が流れ続けている。バルドレイクは男の服をはだけ、傷口を調べ始める。

「シャルロッテ、麻酔を」

「はい、先生」

 バルドレイクのカバンの中から、布袋に入った粉を取り出す。携帯用のカップに水を少し入れて、粉を加える。多すぎず、少なすぎない分量。シャルロッテの身体は、繰り返した調合の中でそれを覚えていた。

 苦しむ男に、なんとか薬を飲ませた。男の動きが、緩慢になる。確認してから、バルドレイクは刃物を抜いた。隣で傷薬と化膿止めを調合しながら、シャルロッテも診察に加わる。

「内臓は、傷ついていないようだね。綺麗に刃が入っている。不幸中の幸い、かな。シャルロッテ、針と糸を」

「はい、先生」

 傷口を縫合して、血止めの薬を塗る。助かるかどうかは、男の生命力次第だ、とシャルロッテは診た。

「とりあえず、安静が必要だね。誰か、この人を運ぶのを、手伝ってほしい!」

 バルドレイクの要請に応え、数人の男が戸板で作った担架に男を載せて運び始める。両脇についたバルドレイクとシャルロッテは、容態の急変に備えていた。

 夕暮れが、市場に闇を運んでくる。シャルロッテとバルドレイクが診療所に男を運び込んだときには、もう夜になっていた。

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