兆しと望郷
少年と一緒に、孤児院を出た。シャルロッテとミルが見送りに出て、入り口の戸へ閂を掛ける。それを確認してから、肩を並べてバルドレイクは歩き出した。
「邪魔しちゃったかな、にいさん」
歩きながら、少年がバルドレイクを見上げて口を開いた。
「いや、大丈夫だよ。シャルロッテも、気づいていなかったみたいだし。あれだけ泣けば、すっきりしているだろうから」
「そういうことを、言ってるんじゃないんだけどね」
少年はまた前を向いて、黙々と歩く。バルドレイクも言葉を発することなく、繁華街のはずれにあるねぐらにたどり着いた。
「それとも、あれかな。竜にいさんは、人前でイチャつけるタイプなのかな」
「別に、僕にそんなつもりは無いよ。だからミルにも、変なことを吹き込むのは止めておいてほしいね」
真っ暗な部屋が、蝋燭の灯りでほのかに照らされる。
「でも、姉ちゃんのほうは、そんなつもりなのかも。どうするの、竜にいさん?」
訊いてくる少年の目には、好奇心のいろがあった。
「僕に、そんな資格は無い。誰かに好かれて、誰かを好きになる。それは、僕が求めてはいけないものだ」
言いながら、バルドレイクは自然と厳しい顔になる。少年はそんなバルドレイクを見て、息を吐いた。
「そうやって自分に言い聞かせなきゃいけないくらいなら、もう手遅れなんじゃないのかな」
言われて、バルドレイクは息をのんだ。シャルロッテの顔が、頭の中に浮かんでくる。笑顔が、怒った顔が、泣いた顔が、様々な表情に彩られた、シャルロッテの顔が。
「そうかもしれない。僕は、もう……どうすれば、いいんだろう?」
「難しく考えることはないよ。竜にいさんは竜にいさんのやりたいようにすればいい。それが、姉ちゃんのためにもなるんだから」
「それで、いいのかな、僕は」
バルドレイクの頭の中に、誰かの声が遠く聞こえた。過去に名前と共に置いてきた、声だった。波のように思考が訪れては消えて、バルドレイクはしばらくぼんやりと宙を見つめる。
「……今は、そんなことを考えている場合じゃあなかったね。フラットの居場所を、探さないと」
気持ちを切り替えて、バルドレイクは顔を引き締めた。ゆらゆらと揺れる蝋燭の火に、目を向ける。
「竜にいさんにとって、大事なことだと思うけどね、俺は。まあ、時間はあるんだから、ゆっくり考えればいいよ」
バルドレイクに苦笑を投げかけながら、少年が手を上げて言った。
「馬車は、見つけられないのかい?」
「うん。芳しくない状況だよ。聞き込みで、馬車は町の東側へ向かったんだけど、そこで消息が途絶えているんだ」
「東側……大きな川に面した、商業地区だね」
町の東門を抜けた先には、南北に通じる大交易路が通っている。それは、広大な河川だった。東端に河川を置いて西側へと町は大きく発展し、物流の中心として町の東側は多くの交易商人が住んでいる地区となっていた。
「手下を派遣して探ってはいるんだけど、広すぎて。馬車を隠しておける倉庫なんかは、山ほどあるからね。それに、大商人と関わりのある場所は、調べるのに時間がかかってしまう。調査は、捗っていないんだ」
「ヒューリック家の力を、使うのは?」
「町の東部でものをいうのは、権威じゃなくてお金だよ。ヒューリック家やクラッチレイ家の力じゃあ、大商人たちはびくともしない。フラットが正当な代価を支払っているとすれば、いくらでも隠し立てするんじゃないかな」
「フラットの後ろ盾になりそうな、大商人に目星はついているのかい?」
「どいつもこいつも、叩けば埃は出てくる身だよ。みんな、怪しく見えるね」
「物流を担う大商人で、一番大手のものは?」
「それなら、大商人ブランケットだね。繊維に食料、それに武器も商う何でも屋だよ。倉庫もいっぱい持ってる」
「ブランケットに絞って、調査を続けることはできるかい?」
「手下を総動員すれば、できるよ。でも、どうしてブランケットを?」
「フラットの目的は、疫病を全土に広めることだ。それなら、一番手広く商いをしている所へ持って行くのが、一番だからね」
少年は、ふむ、とうなずいた。
「一理あるかもね。それに、あてもなく調査を続けるよりかはましだ。わかった、それじゃあ手下を集めて当たってみるよ」
「僕のほうも、伝手を使って探ってみる。フラットを見つけたら、すぐに連絡を」
「わかってる。下手に手出しはしないよう、言っとく。それじゃ竜にいさん、また明日」
入口の戸を開けて、少年が姿を消した。バルドレイクは寝台へ横になって、天井を見上げる。一人になったとたんに、頭に浮かぶのはシャルロッテの姿だった。悲しみを湛えてすがりついてくる細い身体と、嗚咽に震える柔らかな背中。身を起こし、バルドレイクはねぐらを出る。月の位置はまだ高く、夜は更けていこうとする時刻だった。ふらふらと、足は路地を彷徨って酒場へと入っていた。
カウンターに座り、黙ってグラスを傾ける。バルドレイクの肉体には、酔いが訪れることはない。心にはうすぼんやりとした靄がかかり、ただ飲み干す酒の量だけが増えた。
『竜安、お前を、許さない』
バルドレイクの耳に届いてくるのは、幻聴だった。その声は少女のものだったが、彼女がその言葉を口にしたわけではない。ただ、ずっと強い視線を向けていた。口を一文字に結んで、じっと耐えるように、彼女はただ見つめていただけだった。
「先生、何か、あったのかい?」
十二杯めの酒を注ぎながら、マスターが言った。バルドレイクは無言で頭を下げて、グラスの中身を呷る。
「今日は、なんだかいつもよりくたびれて見えるね、先生は」
マスターも自身の手にグラスを持ち、バルドレイクと一緒に飲んでいた。
「あんまり飲みすぎると、あの子が心配するよ」
マスターの言葉に、バルドレイクは黙ったまま空のグラスを差し出した。
「先生は、強いね。付き合って飲んでたら、潰されてしまいそうだ」
低く笑い、マスターは酒を注ぎ足した。
「僕は、弱いよ、マスター。誰よりも、ね」
バルドレイクは注がれた酒を口に含む。苦い、味が舌の上に拡がった。それは、懐かしい苦味だった。
「先生に貰った、ハーブを漬け込んだ酒だよ。こっちのが、身体によさそうだから」
マスターは悪戯っぽく笑い、空になった酒瓶と緑の葉の入った瓶を持ち上げて言った。
「良い、味だね、マスター。故郷を思い出す味だよ」
「お気に召したようで、何よりだね。先生の故郷、どんな所なんだい?」
「……いい所だった。緑は豊かで、水も綺麗でね」
「そりゃあ、良い酒が造れそうだね」
「うん。酒も、美味かったよ」
とくとくと、マスターが自分のグラスに酒を注いだ。
「良い香りだ。確か、胃に効くんだっけ……あと、精神の、何だっけか」
「精神の鎮静化、それに、二日酔いの予防にも効く薬草だよ、マスター」
「それはいい。私にも先生にもね」
笑い声をあげて、マスターはグラスを傾ける。バルドレイクも、舐めるようにグラスの中身を口にした。生まれ故郷の、大きな滝のある森の風景が浮かぶ。打ち付ける水の音が、幻聴を消していく。
『竜安……』
名を呼ぶ少女の声だけが、耳に残っていた。
「マスターの、話を聞かせてくれないかい?」
「ああ、いいよ。先生が聞いて、面白いものじゃあないかもしれないけれど」
こほん、とひとつ咳ばらいをして、マスターが語り始める。壮大な冒険に彩られたロマンス溢れる大法螺に耳を傾けながら、バルドレイクは微笑んだ。どこか困ったような、それは苦笑いだった。
ねぐらに帰り横になる頃には、空は白くなり始めていた。シャルロッテはもう起き出して、水を汲みに行っているだろうか。そんなことを考えながらうとうととしているうちに、眠りはやってきた。