変わる毎日
メルがヒューリック家に行って、一週間が過ぎた。メルのいなくなった孤児院の生活は、静かなものになっていた。ミルは朝食を取るとすぐに薬草園へ行き、夜まで帰っては来ない。覚えることが多くて大変だけれど、楽しい。それが、ミルの感想だった。シャルロッテは楽しそうな顔をして出かけるミルを、複雑な思いで見送る。決してそれは顔には出さず、笑顔を浮かべて。
ヒューリック家の執事から、常備薬の補充をしてほしいと頼まれていた。メルの様子を見に行く名分ができる、とシャルロッテは張り切ってカバンに薬を詰め込んでいく。本当ならば毎日でも訪ねて行きたかったが、病院の管理もあり、ここ最近は外出もままならないほどに多忙だった。
メルが屋敷に勤め始めて今日、ようやく顔を見ることができる。そう思えば、薬を満載したカバンも軽く感じられた。
迎えの馬車が到着し、向かいの住人に留守にする旨を伝えて出立する。裏路地の悪路に揺られ、石畳の道を整然と馬車が進む。屋敷へとたどり着いたときには、じっとしていられないような気分になっていた。
「確かに、薬は頂戴いたしました。こちらは礼金です」
老執事に金貨の入った袋を渡され、玄関口でシャルロッテは落ち着かない様子だった。メイドが通り過ぎていくたび、その姿を目で追ってしまう。今にもあの角を曲がってくる、メルの姿が見える気がした。
「それでは、少々こちらでお待ちください」
そんな様子のシャルロッテを、優しい笑みをたたえた老執事が小さな客間へと案内する。言われるままに椅子へ腰掛けて、シャルロッテはしばらくの間、待った。
「失礼いたします」
客間のドアを開けたのは、若いメイドだった。シャルロッテよりも年下だろうか、初々しい顔立ちをしていた。ぴん、と張った背筋が、美しいとさえ思えた。
「お嬢様、こちらです」
そんなメイドが、恭しく頭を下げて一人の人物を迎え入れる。顔をうつむかせて入ってきたのは、小さな女の子だった。明るい色の長い髪は後ろで一つに結ばれていて、幾重にもあしらわれたフリルのついた赤いドレスを身に着けている。歩き方にも品があり、決して音を立てないような静かな足運びだった。
ヒューリック家に、子供がいたのだろうか。そんな思いが頭をよぎったが、慌ててシャルロッテは椅子から立ち上がる。その子がどのような存在であれ、身分は高いものだろう。失礼があれば、メルの勤めに影響するかもしれない。そう考えてお辞儀をしようとしたとき、女の子が顔を上げた。
「ごきげんよう、シャルロッテお姉さま」
鈴を転がすような声色で、女の子が言った。シャルロッテは全身を硬直させて、女の子を見つめる。幼い顔には薄い化粧が施してあり、髪型も前髪を上げて淑女風に整えられている。スカートの両端をつまみ、優雅に一礼する姿は、立派な貴族の令嬢に見える。
「メ、メル、なの?」
シャルロッテがようやく絞り出した言葉に、メルはにっこりと笑い、うなずいた。
「はい。メルですわ、シャルロッテお姉さま。サーシャ、下がりなさい」
「かしこまりました。それではお嬢様、少しの間ですが、ご歓談などなされませ」
メルがメイドに声をかけると、メイドが一礼して部屋を出た。ドアが閉まると同時に、メルがシャルロッテに抱きついてくる。
「おねえちゃん、ひさしぶり」
シャルロッテの腕の中で歓声を上げるメルは、以前のメルと変わりのない態度だった。抱きしめる身体からは、微かな花の香りがする。
「メル、一体これは、どういうことなの?」
ひとしきり抱き合ったあと、シャルロッテは訊いた。
「メルにも、わからないの。いいおようふくきせてもらって、ごはんもいっぱいいただいて、もちろん、おべんきょうもしてるんだけれど」
不思議そうな顔で、メルが見上げてくる。頭を撫でてやりながら、シャルロッテは考える。
「……何か、辛いことはない? 本当に、大丈夫?」
「うん。メルは、だいじょうぶ。ねえ、ミルはどうしてる? おなか、すかせていない?」
「ええ。お仕事が楽しいって、毎日笑ってるわ。でも、やっぱり寂しいみたい。もちろん、私もね」
「よかった。ミルもおねえちゃんも、げんきそう」
ぎゅっとしがみついてくるメルの温もりを、シャルロッテは黙って受け止めた。少し控えめに、ドアがノックされる。メルが身体を離し、服のしわを伸ばすように叩く。
「お嬢様、失礼いたします」
サーシャというメイドが入室して、一礼する。
「何事です、サーシャ?」
振り向く直前に見えたメルの顔は、貴族令嬢のものに相応しく見えた。
「そろそろ、勉学のお時間でございます。それとも本日は、休まれますか?」
真顔のまま、サーシャが訊いた。メルは、首を横へ振った。
「学問は、一日にして成らず、と言います。すぐに参りますので、準備をしておくよう教師の方に伝えておいて頂戴」
かしこまりました、とサーシャは頭を下げ、そしてシャルロッテにも一礼をしてから部屋を出て行った。
「ごめんね、おねえちゃん。いろいろと、はなしたいことあるんだけれど……とりあえず、メルはだいじょうぶだから」
「ううん、こっちこそ、いきなり押しかけてごめんね、メル。勉強、頑張るのよ」
メルの頬を撫でて、シャルロッテは言った。部屋を出るメルの所作は、すっかり洗練されてしまっていた。胸の中にもやもやした気持ちがあったが、それを振り切るようにシャルロッテもヒューリックの屋敷を辞した。大量の薬は置いてきたはずなのに、カバンがやけに重く感じられた。
夕刻、仕事を終えたシャルロッテはバルドレイクと共にお茶の入ったカップを傾ける。茶葉は、ミルが少年から貰ってきたものだ。ミルが働き始めたことで、少しずつ贅沢品がシャルロッテの身の回りに増え始めていた。
「お疲れ様。浮かない顔だね、シャルロッテ」
茶をすすりながら、バルドレイクが言った。
「そう見えますか、先生?」
シャルロッテも、茶をすすりながら応じる。
「今日、メルの様子を見に行ったらしいね」
バルドレイクの言葉にシャルロッテはうつむき、カップの縁を指でなぞるように動かした。
「はい……元気そうでした、メルは……」
「可愛がられているみたいだね、あの子も。ヒューリックは、よっぽど嬉しかったんだろうね」
カップの底に残った茶の滴を見つめながら、シャルロッテはメルの姿を思い浮かべる。着飾って、きちんと身なりを整え清潔な状態のメルは、あの屋敷にいるのが相応しい、そう思えた。
「メルは、綺麗になってました。食べ物の心配もしないでいいし、好きな勉強にも打ち込める。幸せそうで、輝いて見えました」
「そうだね。きっちりと、ヒューリックが面倒を見てくれるから、心配はいらない」
「……私は、何にも出来ていなかったのかもしれません」
「どうして、そう思うんだい?」
「メルにも、ミルにも、ずっと我慢させていて……ミルも、最近とても元気なんです。たまに、お風呂をいただいてきたりして……身ぎれいに、なりました」
「ああ。ミルも、アニーに気に入られたみたいだね。彼女の御下がりの服を何着か、貰っていたんだって?」
「はい……ミルも、以前よりずっと、充実しているみたいです」
「確かに、今のミルも、メルも、ここで生活をしていた頃よりは、充実しているだろうね」
シャルロッテは、バルドレイクに目を向けた。丸メガネの奥の瞳は、シャルロッテに向けられている。
「私は……あの子たちの、良き姉でなかったのでしょうか、先生」
「君がいなければ、あの子たちは今笑っていないよ、シャルロッテ」
バルドレイクが言って、微笑んだ。
「ここでの思い出が、あの子たちの力になっているんだ。君は良き姉であり、母でもあった。君にとってのマリアが、そうだったようにね」
視界が、涙でぼやけた。バルドレイクの胸に、シャルロッテは飛び込むように抱き着いた。
「先生……」
大きく温かな手のひらが、シャルロッテの背を優しく撫でた。シャルロッテは目を閉じて、ぎゅっとバルドレイクにしがみつく。
「今は、たくさん泣いていいよ、シャルロッテ。君の感じていることは、親になる人間なら誰でも一度は通る痛みだから」
穏やかに、バルドレイクの声が耳に届いてくる。心地よさを感じながら、シャルロッテは声を上げて泣いた。
ぱたん、と背後で診察室の扉が閉まったことに、シャルロッテは気づかなかった。それは、自分の泣いている声と、バルドレイクの温もりに包まれていたからだった。