ヒューリック家の事情
伴ってきたメルをメイドに託し、バルドレイクは応接室でヒューリックと対面していた。豪奢な作りの部屋の中には、穏やかな空気が流れている。テーブルの上には、酒瓶とグラスがあった。
「朝から酒とは、贅沢なことだね、ヒューリック」
グラスを合わせて、バルドレイクは酒を口にする。上等な蒸留酒が、咽喉を滑り落ちていく。それは、クラッチレイ家の酒よりも味は落ちるが、芳醇な苦みがあった。
「飲まないと、やっていられないのだ、バルドレイク」
呷るように、グラスを空にしてヒューリックが言った。顔に精気はなく、吐く息はすでに酒臭い。
「厄介ごとかい? 健康的とは言えない面構えだよ?」
「妻の様子が、おかしくなってね。また、始まったらしい」
ヒューリックの妻は、感情の起伏の激しい人物だった。小さなことで心を動かし、笑い、泣きもする。機嫌のよいときは、理想的なのだが、とヒューリックがよくこぼすので、あまり顔を合わせないバルドレイクもある程度の事情は把握していた。
「原因は、想像がつくよ」
酒のグラスを空にして、バルドレイクは言った。ヒューリック家には、正確にはヒューリック夫人には、子供がいない。ヒューリック自身に原因があるわけではなく、夫人の身体に抱えたものが原因だった。子供ができない、それが、夫人の気鬱の病根である。
「こればかりは、私でもどうにもしてやれない。貴族の当主といえど、ままならないのだ、バルドレイク」
自嘲的に笑い、ヒューリックはさらに杯を重ねる。それを止める術は、バルドレイクには無い。
「……ヒューリック、今日は、頼みがあって君を訪ねたんだ」
流れを断ち切るように、バルドレイクは言った。ヒューリックが、バルドレイクに濁った眼を向ける。
「頼み? クラッチレイ家のことか?」
「それも、あるけれど、メルのことなんだ。しばらく、君に預かってほしい」
「メルを? それなら大歓迎だ。何なら、養子にして引き取っても」
「それは、僕たちが決めて良いことではないね。メルが成長したとき、あの子自身に決めてもらうといい。あの子は、勉強熱心でね。簡単な読み書きなら、出来るようになった。優秀な教師につけば、まだまだ伸びるだろうね」
「ああ、将来は学者にでもなれるだろうな。私も、幼い頃から勉強は出来るほうだった」
目を輝かせて言うヒューリックに、バルドレイクは息を吐いた。
「ここへ預けるのは、行儀見習いのためだよ。メイドの仕事をして、礼法なんかも身に着けてもらいたいんだけれど」
「それはダメだ。妻と私で、しっかりと可愛がる。もちろん、家庭教師もつける」
「ヒューリック」
バルドレイクの眼を、ヒューリックが強い視線で見つめ返した。
「ここへメルを預かることは、承知する。だが、やり方は私に任せてもらう。妻にも、そのほうがいいだろうしな。案ずるな、可愛がりはしても、甘やかしはしない。私は、だが」
厳めしい顔を作って、ヒューリックが言った。
「僕も、様子は見に来るからな、ヒューリック」
「ああ。どのくらい預けてくれるんだ? 礼法と勉強は、一日二日じゃ身に付かないものだぞ?」
「僕の抱えている事情が片付くまで、だね。そのあとは、メルの意思に任せる」
「それなら、貴族の子になりたいって言わせればいいんだな。わかった」
「……程々に、頼むよ」
「ミルは、どうするんだ?」
「薬草師に伝手があってね。あの子は、そこで仕事を覚える」
バルドレイクの言葉に、ヒューリックは渋い顔になった。
「何でまた、あの子だけお端仕事を? 二人一緒に引き取っても、私は一向に構わないのだが」
「あの子に貴族の生活は向かない。だから、生きていくために必要なことを教えるんだ」
再び、二人の視線がぶつかった。今度は、ヒューリックが先に折れた。
「……わかった。君がそう言うのなら。その薬草師に、よろしく言っておいてくれ。あの子を泣かすようなことがあったら、私が黙っていないと」
「きっちり伝えておくよ」
言いながら、バルドレイクは少年の顔を思い浮かべた。ヒューリックの圧力など、ものともしないだろう。それは、言わないでおいた。
「メルのことは、了解した。それで、バルドレイク。他にも頼みがあるんだろう?」
空になった酒瓶を、ヒューリックがメイドに命じて下げさせる。グラスも一緒に下げさせたので、これ以上飲むことはなさそうだった。
「ああ。クラッチレイ家の馬車についてなんだけれど、一台行方不明になっていてね」
「行方不明? いつ頃だ」
「一昨日のことだよ。僕は覆面の男、フラットという名の男の行方を追って、クラッチレイ家にお邪魔していたんだ」
「君が、クラッチレイ家に? どうやって伝手を作ったんだ」
「あの家の一人息子と、うちのシャルロッテが知り合いになってね。ともかく、クラッチレイ家でフラットに会って、目的を訊きだすことには成功した。奴はこの町に疫病を広め、それを世界中に広めていく狙いだよ。クラッチレイ家の当主と夫人、それから息子にまで病巣を作っていた」
「大変なことだな。一大事だ。それで、その男は?」
「僕が当主の治療をしている隙に、夫人と馬車で姿をくらませた。門番に当たってみたところ、それらしい馬車が町の外へ出た形跡はないから、まだ町の中にいると思う」
ヒューリックが、深刻な表情でうつむいた。
「大貴族の屋敷から、消えた馬車、か。わかった。衛兵を動かして、馬車を捜索させよう」
「夫人は動けないくらいに消耗している。それも考慮して、出来るだけ急ぎで頼むよ」
バルドレイクの言葉に、ヒューリックが力強いうなずきを返した。
「ああ、任せておけ。数日内には、捕まえてみせる」
「それから、君も身辺には充分注意しておいてくれ。追っているのがフラットにばれたら、反撃に出るかもしれない」
「大丈夫だ。あのキノコの一件から、警戒はしているからな」
にやりと不敵な笑みをみせるヒューリックからは、もう酔いは感じられなかった。
昼食の誘いを断り、バルドレイクはヒューリック家を辞した。玄関口で、メルが笑顔で見送っていた。
「せんせい、またね!」
「ああ。また、明日。良い子にしているんだよ、メル」
頭を撫でて、傍らに立つヒューリックの妻へ一礼する。
「メルを、よろしくお願いします」
「はい。バルドレイクさんも、お気をつけて。主人と共に、いつでもお待ちしていますよ」
品よく礼を返す夫人の顔からは、心の陰りは消えていた。
屋敷を出て一人になったバルドレイクは、真っすぐに孤児院へと向かう。太陽は中天にあり、昼を少し過ぎた時刻になっていた。戻ったら、シャルロッテに怒られるかもしれない。あるいは、質問攻めにされるだろうか。重くなりそうになる足を動かして、バルドレイクは早足で裏路地を歩いて行った。