仮初の平穏
とっぷりと日の暮れた孤児院の診察室に、明かりが灯されていた。テーブルに置かれたほのかな蝋燭の光に揺られ、二つの影がカップの杯を交わし合う。
「それじゃ、乾杯」
「お疲れ様でした、先生」
かちん、と陶器のぶつかる音がした。バルドレイクは一口、カップの中の琥珀色を口にする。少し焦げたような、香しい味が舌の上を滑り落ちていく。熱い液体が、胃の腑へ落ちていく。芳醇な酒の香りが、いつまでも口の中に残るようだった。
「なるほど。良いお酒だ」
呟くバルドレイクの目の前で、シャルロッテがカップを傾けて飲み干した。
「ん、ふぅあ……お酒って、こんな味なんですね」
「もう少し、ゆっくり飲んだほうがいいよ、シャルロッテ」
「はい、先生」
にっこりと笑い、シャルロッテが空のカップに酒を入れる。
「私、お酒飲むの初めてなんです」
言いながら、シャルロッテはカップの半分くらいを一息に飲んだ。
「そう。それなら、味わって飲むといいよ」
バルドレイクは酒の香りを楽しみながら、カップを傾ける。身体の中に、じんわりと活力が拡がっていく。その感覚に、目を細めた。
昨日から、働きづめだった。仮眠は取ったものの、シャルロッテと共にほとんど徹夜で医術を使っていた。目を閉じれば、この場で眠ってしまえるほどに疲れていた。
「先生、お酒、減ってませんよ?」
シャルロッテがバルドレイクのカップを指して、言った。
「私ばかり飲んでたら、悪いですから」
酒瓶を手に、シャルロッテが促してくる。バルドレイクはカップを空にして、シャルロッテの酌を受けた。
「……もう、半分くらいになっているね?」
「なんだか美味しくって、立て続けに飲んでしまいました」
舌を出して見せ、シャルロッテが笑う。初めて見る表情に、バルドレイクは目を瞬かせる。
「シャ、シャルロッテ……?」
とろんとした目つきで、締まりのない笑みを浮かべている。そんなシャルロッテに危険なものを感じ、バルドレイクは恐る恐る声をかけた。
「はぁい、せんせえ」
呂律の回らない口調で、シャルロッテがベッドに腰掛けるバルドレイクの隣へ座った。手には酒瓶があり、もう片方に持ったカップの端から酒がわずかに零れる。
「す、少し、飲みすぎじゃあないかな?」
「せんせえのぶんは、のこしてありますから。心配いりませんよぅ」
言いながら、シャルロッテはカップの中身を一気に飲み干した。これ以上飲ませないほうがいい、と本能が警笛を鳴らす。バルドレイクはシャルロッテから酒瓶を奪い取り、ラッパ飲みに中身を飲み干す。
「あああ、せんせえ、ずるい」
抗議をするように、シャルロッテが掴みかかってくる。
「君のためだよ、シャルロッテ。……やっぱり、まだ早かったみたいだ」
絡みついてくるシャルロッテの手を払いながら、バルドレイクは苦笑する。一瞬のスキをつかれ、手にしたカップが奪われた。
「シャルロッテ」
「せんせえの、飲むもん」
シャルロッテはバルドレイクのカップに口をつけて、一気に傾けた。口の端から零れた酒が、シャルロッテの白い咽喉を伝って流れる。ぷはあ、と酒臭い息を吐いて、シャルロッテは満足そうな顔になった。
「えへー、せんせえ」
甘えるように、シャルロッテがバルドレイクの肩に頭を載せた。
「なでなで、してください、せんせえ」
促されるままに、バルドレイクはシャルロッテの頭に手のひらを置いて、撫でる。シャルロッテが、猫のように目を細めた。
「これでいいかい、シャルロッテ?」
「うん。せんせえ、だいすき……」
シャルロッテの温もりと、酒に混じった芳香を感じながら、バルドレイクはしばらく撫で続けていた。シャルロッテは目を閉じて、眠りに落ちたようだった。
寝室へ行き、横抱きにしたシャルロッテの身体をシーツの上に降ろした。すでに眠っている双子を起こさないように、そっと部屋を出る。
「んん……ミルメルだいすきぃ」
「おねえちゃん、へんなにおい……」
「ミルも、おねえちゃんすき……」
背後からそんな声がしたが、バルドレイクは振り返らずに孤児院の入口へと向かう。閂を抜いて戸を開けると、少年が立っていた。
「竜にいさん、報告があるんだけど」
「ああ。今日はここの診察室で聞くよ。少し、あってね」
少年を招き入れて、玄関の閂を戻した。診察室にはまだ蝋燭があり、バルドレイクに続いて少年も部屋に入る。
「……お酒、飲んでたの」
空の酒瓶と二つ並んだカップを目にして、少年が言った。
「屋敷で色々あってね。僕もシャルロッテも、必要だったんだ」
「んで、姉ちゃんが暴れたのか?」
寝台の、乱れたシーツの跡を指して少年が言う。
「まあ、少々ね。酒を飲むのは、初めてだと言ってた」
「……色々溜め込んでそうだもんね、あの姉ちゃん。竜にいさんも、顔がちょっと赤いようだけど?」
「……色々、あったんだよ、僕も」
ベッドに腰掛けて、バルドレイクは大きく息を吐いた。
「竜にいさんにも、春が来たのかな?」
「余計な詮索はいいから、報告を聞かせてくれないかい?」
にやにやと笑いながら椅子に座る少年が、バルドレイクの言葉に真面目な顔を作る。
「それじゃあ、報告。町の門番に確認してみたんだけど、クラッチレイ家の馬車はどの門でも目撃されていない。まだ、この町にいるってことだね、奴は」
「あの覆面の男は、フラットと名乗っているらしいんだ」
「そうかい。少なくともフラットは、町のどこかに潜伏してる。クラッチレイ家の奥さんと一緒にね。手下に屋敷を見張らせておいたんだけど、馬車の後は追わなかった。そうだと知っていれば追跡させたんだけどね」
悔しそうに、少年が舌打ちする。
「まあ、まだ町にいるのは確かなんだ。門番へは、クラッチレイ家から手配が行っているから、フラットはもう町から出られない。それだけでも、今は充分だよ」
「馬車を捨てれば、出られるんじゃない?」
少年の問いに、バルドレイクは首を横へ振る。
「それはないよ。奥方は、歩くことも出来ないくらいに衰弱してる。そして、奥方の体内にはフラットの育てた病巣がある。捨てて逃げることはしない」
「確信があるんだね」
「フラットから、目的を聞いた。この町から、全世界に不治の病を拡げる。そう言っていたよ。恐らく、屋敷から姿を消したのも計画のうちだと思う。早く、奴を見つけないと、大変なことになる」
「わかった。フラットの行方に関しては、俺のほうで探し出してみる。でも、この町は広いからね。時間は、どうしてもかかるよ」
「よろしく頼むよ。そういえば、ミルとメルはどうだったかな? しっかり、手伝いできていたかい?」
バルドレイクの言葉で、少年の顔に笑みが戻った。
「気になるの? なんだかんだで、情が沸いたんだね」
「今は、文字通り僕の血を分けた子たちだからね。気にはなるよ」
ふうん、と少年は呟いて、バルドレイクの顔を見つめた。
「正直に言うと、すごく助かった。教えたことはちゃんと覚えるし、薬草の取り扱いにも慣れてる。双子だから、チームワークもばっちりだし。あのちびたちなら、いつでも歓迎するよ」
少年の言葉に、バルドレイクはほっと息を吐いた。
「そう言ってもらえると、こっちも助かるよ。もしかすると、しばらくあの子たちを預けることになるかもしれない」
「手に職をつけるのも、大事だしね。いいよ、明日からでも。送り迎えは、俺がするから」
「すまないね。フラットの件が片付くまで、頼むよ。僕も、ヒューリックの手づるを使って探りを入れるつもりだから」
「ヒューリックといえば、彼の奥さん、また気鬱らしいよ」
「そうか……根本的な、療法が必要だね……」
バルドレイクはしばし考える。少年も一緒になって、うんうんと唸った。
「……メルを、行儀見習いに出してみるかな」
「ちびを? でも、よりによって……」
「所縁の無い子供を手許に置くよりかは、いいんじゃあないかな? メルは読み書きもできるし、この機会に色々学んでみるのも悪くはないかもしれない」
「もう一人のちびは?」
「ミルは、どちらかというと家庭的な方面が向いていると思う。貴族の家よりも、君の所で働くのが向いている気がする」
「確かに、そうかもね。……わかった、俺はとりあえず、ミルを一人前の薬草師に仕立てるよ」
「捜査のほうも、忘れないようにね」
「手下を総動員するさ。ミルは俺がきっちり見なきゃね。……アニーが少しうるさいけど」
「まあ、君の年恰好なら、ミルと並んだほうがお似合いに見えるからね」
少年を見やりながら、バルドレイクが言う。少年は憮然とした表情で、腕を組んだ。
「焼きもちなんか焼かなくったって、いいのに。あいつは俺を信用してないのかな」
「女心、というものじゃあないのかな。よくはわからないけれど」
「竜にいさんも、そのうち苦労する日が来るよ、近いうちに」
ぽん、と少年の手がバルドレイクの肩を叩いた。
「それじゃあ、俺はもう行くよ。次は、良い報告を持ってくるから」
「ああ、気をつけて」
手を上げて別れを告げる少年に、バルドレイクも手を上げて応じる。背を向けた少年の姿が、診察室から消えた。バルドレイクは立ち上がり、玄関の閂をまた嵌め直して戻った。
短くなった蝋燭の火を、見つめた。ゆらゆらと揺れる火が、ほどなく消える。瞼の裏に、頼りなく揺れる炎の残像を見ながら、バルドレイクは寝台へ寝転がった。薄くなった月明かりが、窓から差し込んでくる。その光に、酒瓶が鈍く輝いていた。