表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
闇底の白衣  作者: S.U.Y
24/36

仮初の平穏

 とっぷりと日の暮れた孤児院の診察室に、明かりが灯されていた。テーブルに置かれたほのかな蝋燭の光に揺られ、二つの影がカップの杯を交わし合う。

「それじゃ、乾杯」

「お疲れ様でした、先生」

 かちん、と陶器のぶつかる音がした。バルドレイクは一口、カップの中の琥珀色を口にする。少し焦げたような、香しい味が舌の上を滑り落ちていく。熱い液体が、胃の腑へ落ちていく。芳醇な酒の香りが、いつまでも口の中に残るようだった。

「なるほど。良いお酒だ」

 呟くバルドレイクの目の前で、シャルロッテがカップを傾けて飲み干した。

「ん、ふぅあ……お酒って、こんな味なんですね」

「もう少し、ゆっくり飲んだほうがいいよ、シャルロッテ」

「はい、先生」

 にっこりと笑い、シャルロッテが空のカップに酒を入れる。

「私、お酒飲むの初めてなんです」

 言いながら、シャルロッテはカップの半分くらいを一息に飲んだ。

「そう。それなら、味わって飲むといいよ」

 バルドレイクは酒の香りを楽しみながら、カップを傾ける。身体の中に、じんわりと活力が拡がっていく。その感覚に、目を細めた。

 昨日から、働きづめだった。仮眠は取ったものの、シャルロッテと共にほとんど徹夜で医術を使っていた。目を閉じれば、この場で眠ってしまえるほどに疲れていた。

「先生、お酒、減ってませんよ?」

 シャルロッテがバルドレイクのカップを指して、言った。

「私ばかり飲んでたら、悪いですから」

 酒瓶を手に、シャルロッテが促してくる。バルドレイクはカップを空にして、シャルロッテの酌を受けた。

「……もう、半分くらいになっているね?」

「なんだか美味しくって、立て続けに飲んでしまいました」

 舌を出して見せ、シャルロッテが笑う。初めて見る表情に、バルドレイクは目を瞬かせる。

「シャ、シャルロッテ……?」

 とろんとした目つきで、締まりのない笑みを浮かべている。そんなシャルロッテに危険なものを感じ、バルドレイクは恐る恐る声をかけた。

「はぁい、せんせえ」

 呂律の回らない口調で、シャルロッテがベッドに腰掛けるバルドレイクの隣へ座った。手には酒瓶があり、もう片方に持ったカップの端から酒がわずかに零れる。

「す、少し、飲みすぎじゃあないかな?」

「せんせえのぶんは、のこしてありますから。心配いりませんよぅ」

 言いながら、シャルロッテはカップの中身を一気に飲み干した。これ以上飲ませないほうがいい、と本能が警笛を鳴らす。バルドレイクはシャルロッテから酒瓶を奪い取り、ラッパ飲みに中身を飲み干す。

「あああ、せんせえ、ずるい」

 抗議をするように、シャルロッテが掴みかかってくる。

「君のためだよ、シャルロッテ。……やっぱり、まだ早かったみたいだ」

 絡みついてくるシャルロッテの手を払いながら、バルドレイクは苦笑する。一瞬のスキをつかれ、手にしたカップが奪われた。

「シャルロッテ」

「せんせえの、飲むもん」

 シャルロッテはバルドレイクのカップに口をつけて、一気に傾けた。口の端から零れた酒が、シャルロッテの白い咽喉を伝って流れる。ぷはあ、と酒臭い息を吐いて、シャルロッテは満足そうな顔になった。

「えへー、せんせえ」

 甘えるように、シャルロッテがバルドレイクの肩に頭を載せた。

「なでなで、してください、せんせえ」

 促されるままに、バルドレイクはシャルロッテの頭に手のひらを置いて、撫でる。シャルロッテが、猫のように目を細めた。

「これでいいかい、シャルロッテ?」

「うん。せんせえ、だいすき……」

 シャルロッテの温もりと、酒に混じった芳香を感じながら、バルドレイクはしばらく撫で続けていた。シャルロッテは目を閉じて、眠りに落ちたようだった。

 寝室へ行き、横抱きにしたシャルロッテの身体をシーツの上に降ろした。すでに眠っている双子を起こさないように、そっと部屋を出る。

「んん……ミルメルだいすきぃ」

「おねえちゃん、へんなにおい……」

「ミルも、おねえちゃんすき……」

 背後からそんな声がしたが、バルドレイクは振り返らずに孤児院の入口へと向かう。閂を抜いて戸を開けると、少年が立っていた。

「竜にいさん、報告があるんだけど」

「ああ。今日はここの診察室で聞くよ。少し、あってね」

 少年を招き入れて、玄関の閂を戻した。診察室にはまだ蝋燭があり、バルドレイクに続いて少年も部屋に入る。

「……お酒、飲んでたの」

 空の酒瓶と二つ並んだカップを目にして、少年が言った。

「屋敷で色々あってね。僕もシャルロッテも、必要だったんだ」

「んで、姉ちゃんが暴れたのか?」

 寝台の、乱れたシーツの跡を指して少年が言う。

「まあ、少々ね。酒を飲むのは、初めてだと言ってた」

「……色々溜め込んでそうだもんね、あの姉ちゃん。竜にいさんも、顔がちょっと赤いようだけど?」

「……色々、あったんだよ、僕も」

 ベッドに腰掛けて、バルドレイクは大きく息を吐いた。

「竜にいさんにも、春が来たのかな?」

「余計な詮索はいいから、報告を聞かせてくれないかい?」

 にやにやと笑いながら椅子に座る少年が、バルドレイクの言葉に真面目な顔を作る。

「それじゃあ、報告。町の門番に確認してみたんだけど、クラッチレイ家の馬車はどの門でも目撃されていない。まだ、この町にいるってことだね、奴は」

「あの覆面の男は、フラットと名乗っているらしいんだ」

「そうかい。少なくともフラットは、町のどこかに潜伏してる。クラッチレイ家の奥さんと一緒にね。手下に屋敷を見張らせておいたんだけど、馬車の後は追わなかった。そうだと知っていれば追跡させたんだけどね」

 悔しそうに、少年が舌打ちする。

「まあ、まだ町にいるのは確かなんだ。門番へは、クラッチレイ家から手配が行っているから、フラットはもう町から出られない。それだけでも、今は充分だよ」

「馬車を捨てれば、出られるんじゃない?」

 少年の問いに、バルドレイクは首を横へ振る。

「それはないよ。奥方は、歩くことも出来ないくらいに衰弱してる。そして、奥方の体内にはフラットの育てた病巣がある。捨てて逃げることはしない」

「確信があるんだね」

「フラットから、目的を聞いた。この町から、全世界に不治の病を拡げる。そう言っていたよ。恐らく、屋敷から姿を消したのも計画のうちだと思う。早く、奴を見つけないと、大変なことになる」

「わかった。フラットの行方に関しては、俺のほうで探し出してみる。でも、この町は広いからね。時間は、どうしてもかかるよ」

「よろしく頼むよ。そういえば、ミルとメルはどうだったかな? しっかり、手伝いできていたかい?」

 バルドレイクの言葉で、少年の顔に笑みが戻った。

「気になるの? なんだかんだで、情が沸いたんだね」

「今は、文字通り僕の血を分けた子たちだからね。気にはなるよ」

 ふうん、と少年は呟いて、バルドレイクの顔を見つめた。

「正直に言うと、すごく助かった。教えたことはちゃんと覚えるし、薬草の取り扱いにも慣れてる。双子だから、チームワークもばっちりだし。あのちびたちなら、いつでも歓迎するよ」

 少年の言葉に、バルドレイクはほっと息を吐いた。

「そう言ってもらえると、こっちも助かるよ。もしかすると、しばらくあの子たちを預けることになるかもしれない」

「手に職をつけるのも、大事だしね。いいよ、明日からでも。送り迎えは、俺がするから」

「すまないね。フラットの件が片付くまで、頼むよ。僕も、ヒューリックの手づるを使って探りを入れるつもりだから」

「ヒューリックといえば、彼の奥さん、また気鬱らしいよ」

「そうか……根本的な、療法が必要だね……」

 バルドレイクはしばし考える。少年も一緒になって、うんうんと唸った。

「……メルを、行儀見習いに出してみるかな」

「ちびを? でも、よりによって……」

「所縁の無い子供を手許に置くよりかは、いいんじゃあないかな? メルは読み書きもできるし、この機会に色々学んでみるのも悪くはないかもしれない」

「もう一人のちびは?」

「ミルは、どちらかというと家庭的な方面が向いていると思う。貴族の家よりも、君の所で働くのが向いている気がする」

「確かに、そうかもね。……わかった、俺はとりあえず、ミルを一人前の薬草師に仕立てるよ」

「捜査のほうも、忘れないようにね」

「手下を総動員するさ。ミルは俺がきっちり見なきゃね。……アニーが少しうるさいけど」

「まあ、君の年恰好なら、ミルと並んだほうがお似合いに見えるからね」

 少年を見やりながら、バルドレイクが言う。少年は憮然とした表情で、腕を組んだ。

「焼きもちなんか焼かなくったって、いいのに。あいつは俺を信用してないのかな」

「女心、というものじゃあないのかな。よくはわからないけれど」

「竜にいさんも、そのうち苦労する日が来るよ、近いうちに」

 ぽん、と少年の手がバルドレイクの肩を叩いた。

「それじゃあ、俺はもう行くよ。次は、良い報告を持ってくるから」

「ああ、気をつけて」

 手を上げて別れを告げる少年に、バルドレイクも手を上げて応じる。背を向けた少年の姿が、診察室から消えた。バルドレイクは立ち上がり、玄関の閂をまた嵌め直して戻った。

 短くなった蝋燭の火を、見つめた。ゆらゆらと揺れる火が、ほどなく消える。瞼の裏に、頼りなく揺れる炎の残像を見ながら、バルドレイクは寝台へ寝転がった。薄くなった月明かりが、窓から差し込んでくる。その光に、酒瓶が鈍く輝いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ