病巣の男
ギルバートの執事に案内され、バルドレイクとシャルロッテが通されたのは屋敷の主の寝室だった。
「旦那様、医師の方をお連れしました」
執事の声に、中から入れと答えが返った。執事が寝室の扉を開け、バルドレイクは中に入った。寝室には大きなベッドとテーブル、そして酒の入った飾り棚があった。
「お前が、医師か」
ベッドに上半身だけを起こした姿勢で、主が尋ねる。
「ギルバート君に頼まれて、貴方の病を治しに来た者です」
「ギルバートの、お父様ですか?」
続いて入ってきたシャルロッテが言った。
「ふむ。我が息子が、最近入れ込んでいるスラムの娘か。我が名はヨハン・クラッチレイ。当代のクラッチレイの当主である」
気難しい顔をしたヨハネが、ベッドに座ったまま言った。態度は尊大であったが、声の端が震えている。
「僕は、医師のバルドレイク。こちらは僕の助手で、シャルロッテと言います、ヨハン様」
ベッドの側へ寄ったバルドレイクが、丁寧な言葉で答えた。バルドレイクに手で示されて、シャルロッテも側へ行ってお辞儀をする。
「医師なら間に合っておる。フラットはどこだ? そろそろ、薬の時間だろう」
ヨハンは執事に顔を向けて、訊いた。
「大先生は、調薬のため庭の温室に出ておられます。今日の分の薬は、まだ出来ていないと」
「フラットというのは、あの白い覆面の男ですか?」
バルドレイクの問いかけに、ふん、とヨハンが鼻を鳴らす。
「そうだ。半月ほど前に雇った医師だ。我が妻が患っていた胸の病を、一服の薬で治して見せた名医だよ。フラットがいれば、何の問題もない」
「ですが、今、ヨハン様はお元気そうには見えませんね」
「齢四十になって、身体に疲れが現れているのだ。溜まった疲れを、身体が抜こうとしている。それが、病に見えるのだ」
「それは、フラットの診断ですか?」
無言で、ヨハンはうなずいた。バルドレイクはヨハンを見つめたまま、両手を開いて手のひらをヨハンへ見せる。
「ですが、ヨハン様の顔色を見るに、どう見ても毒物を摂取なさっているとしか思えませんが」
「何? どういうことだ」
「血色が悪く、こめかみのあたりに薄い斑点のようなものが見えます。おそらくそれは、胸や背中にもあるはずだ。それから、頭がぼんやりする、胸に鈍い痛みがある、そんな症状に、覚えはありますか?」
真剣なバルドレイクの問いかけに、ヨハンの顔が驚きを形作る。
「あ、ある……確かに」
「いつから、その症状が出ていますか? たぶんそれは、フラットが来てからのものだと思いますが」
「む、うむむ……いつだったか……」
頭を押さえ、ヨハンがうつむいた。
「毒物として錬成したホウケダケは、人の記憶を混濁させます。それから、カリカ草の根が、微熱を身体に呼び込んでいる。胃のあたりに不快感はおありですか? だとすると、他の毒草もブレンドされているのでしょうね」
「毒物……先生、毒物に詳しいんですか?」
横から見上げる姿勢のシャルロッテが、バルドレイクに訊いた。
「毒は量を抑えて、用法をきっちりと守れば薬にもなるからね。ただし、毒として使えばヨハン様のように衰弱させることも容易なんだよ、シャルロッテ」
「ば、ばかな……あいつが、私に毒を盛るなど……」
「彼の目的は、貴方の体内で強力な毒素を育て、そしてこの町全体の人間にそれを広めることです」
「う、ウソだ! お前は、うぅ……」
ヨハンが胸を押さえ、うずくまった。
「どうやら、あまり時間は無いようですね。毒が、全身を蝕んでしまう前に処置をしなければ。どうしますか、ヨハン様?」
「ぐ、うう……た、頼む、助けてくれ……」
懇願するヨハンに、バルドレイクはうなずいた。
「わかりました。全力を、尽くしましょう」
調薬に必要な物を用意するよう、執事に言った。それからバルドレイクは、シャルロッテの持っているカバンの中から布袋に入った薬を取り出し、水で溶いてヨハンに飲ませる。
「先生、それは麻酔ですか?」
「ああ。これから身体を開くから、しばらくヨハン様には眠っていただかないとね。シャルロッテ、執事が戻ってきたら、君が薬を作ってほしい。僕は、彼の身体に出来た毒物を取り除くので手がいっぱいになるから」
「わ、私が、調薬を?」
「ギルバート君に作った薬に、いくつか加えるだけでいい。指示は僕が出すから」
カバンから出した手袋をはめながら、バルドレイクは言った。不安そうなシャルロッテが、小さくうなずく。そうしているうちに、執事が湯や皿などを載せたカートを押して戻ってきた。
「それじゃあ、始めよう。シャルロッテ、まずは傷薬を。それからイモリの粉を加えた解毒の薬を頼むよ」
言いながらバルドレイクは小刀を構え、ヨハンの寝衣を取った。少したるんだ腹と、ギルバートのものよりは厚い胸板が露わになる。そのところどころに、黒いゴマ粒のような斑点があった。
「ああ、旦那様……!」
小刀の刃が、ヨハンの胸の上を滑る。
「静かに。まだ、序の口だから」
小刀を握るバルドレイクが、静かに言った。胸の肉を開き、肺腑を見る。黄色くじゅくじゅくとした塊が、へばりついていた。手早く刃を動かし、バルドレイクはそれを切除する。湯を張った深皿の中へ、切除したものを落とす。三つ、それを繰り返した。
「シャルロッテ、解毒の薬を」
シャルロッテが、すかさず薬の入った皿を差し出してくる。紫色の湿った綿のようなものの載った皿だ。バルドレイクは薬を、切り取った患部へと塗った。
「シャルロッテ、僕のポケットに入っているものを、傷薬に混ぜてくれないかい? それから、整腸薬の調合を」
「はい、先生」
シャルロッテの細い手が、バルドレイクの白衣のポケットを探る。温室で千切った植物の葉が一枚、そこから取り出された。
「これを、入れるんですね?」
「うん。それでいい」
バルドレイクは答えながら、食道付近にあるコブのような塊に触れた。青黒く脈動するそれは、まるで別の生き物のように見える。バルドレイクは、コブの中心に刃を入れた。
コブの切り口から、血が噴き出してバルドレイクの顔にかかる。丸メガネのレンズに、赤いものが付着した。
「だ、大丈夫なのですか!」
執事から声が上がったが、バルドレイクは聞き流した。小刀を動かして、コブの中身を掻き出していく。コブの芯から、小指の先ほどもある異物が取り出された。
「シャルロッテ、傷薬を」
「はい、先生」
差し出された傷薬を指の先へ塗り、中身の無くなったコブへ塗る。粘りのある薬が血液と混ざり、食道についた傷は塞がった。
「これで、終わりだ。あとは傷口を閉じるだけだよ」
額を伝う汗を袖で拭い、バルドレイクは開けた傷口に針と糸を通して縫い合わせる。傷薬を塗布して、包帯を巻いたところでバルドレイクは大きく息を吐いた。
「先生、お疲れ様です」
シャルロッテの注いだ湯を一口飲んで、バルドレイクは小刀と縫い針を洗う。
「お疲れ様、シャルロッテ。作ってもらった整腸薬は、ヨハン様が目覚めたら飲んでいただくから」
言いながら、バルドレイクはヨハンの体内から取り出した異物をガラス瓶へと移し始めた。
「それは?」
「体内で培養された、強力な毒素を出す器官だね。持って帰って、調べてみるよ。それよりも、もう一人診なければいけないんだけれど」
カバンに道具を収納して、バルドレイクは執事に目をやった。
「旦那様は、どうなったのです?」
「もうしばらくして麻酔が切れれば、目を覚ますでしょう。毒は取り除きました。あとは、その薬を食前に、匙一杯ずつ飲めば身体は少しずつ元気を取り戻します。それまで酒と夜の営みは、控えていただくことになります」
バルドレイクの言葉に、執事は一礼する。
「かしこまりました。旦那様には、そのように」
「それから、奥方も同じように毒を植え付けられている可能性があります。診察させていただけますね?」
「……もちろんです」
執事が手を鳴らし、使用人を呼んだ。やってきた使用人を案内に、バルドレイクとシャルロッテはヨハンの妻の部屋へと行った。その部屋はヨハンのものとは違い、多くの衣装棚と華やかな装飾の家具で彩られた、派手な趣だった。天蓋のついたベッドにはピンクの寝具があり、誰かが眠っていたような痕跡があった。だが、部屋のどこにも、部屋の女主の姿は無い。
「奥様が……消えた……」
「奥方は、病身では?」
呆然とした使用人に、バルドレイクが訊いた。
「はい。このところ、身を起こすのもお辛そうな様子で……」
バルドレイクの頭に、閃くものがあった。
「フラット医師を、連れてきてほしい。温室にいるという話だから。僕たちは、ヨハン様の部屋に戻る」
使用人が返事をして、部屋を出た。バルドレイクもシャルロッテを連れて、ヨハンの寝室へと戻る。ヨハンのベッドの隣には、ギルバートの姿があった。
「父は、どうなった、シャルロッテ?」
バルドレイクの横を抜けて、ギルバートがシャルロッテに詰め寄った。
「安心して、ギルバート。先生が、助けてくださったから」
向き直って視線を向けるギルバートに、バルドレイクは微笑んで見せた。
「ヨハン様に関しては、もう大丈夫だよ。病巣は取り除いたから。あとは薬を飲んで静養していれば、良くなるよ」
「……ありがとう、シャルロッテ、それからバルドレイク……先生」
ぎこちない動きで、ギルバートがシャルロッテとバルドレイクに頭を下げた。
「ギルバート……」
「当然のことをしただけだよ……医師として、ね」
丸メガネを押し上げて、バルドレイクは言った。
しばらくして、フラットを探しに行った使用人が戻ってきた。温室にはフラットの姿は無く、屋敷じゅうのどこからもいなくなっている、ということだった。
「それだけでは、ないんです」
使用人が、さらに一つの報告をする。それは、屋敷の馬車が一台、消えているというものだった。バルドレイクが治療をしている頃に、ヨハンの妻がフラットを伴ってどこかへ乗って行った、と知ったときには、夜は更け始めてしまっていた。