医師バルドレイク
「先生、お疲れ様でした」
シャルロッテの声に顔を上げる。診察室の窓から、夕日が差し込んでいた。薬草の調合を終えたバルドレイクは、肩を回して伸びをする。
「もう、こんな時間か。そろそろ、僕は帰るよ」
用具を片付けて、バルドレイクは玄関に向かう。
「先生、帰っちゃうの?」
「今日は、お夕飯、食べていかない?」
廊下をばたばたと駆けてきた双子の女の子たちが、バルドレイクの袖を引いた。
「今日も、いい子にしてたかい、メル、ミル?」
言いながら、バルドレイクは双子の頭を撫でる。
「うん。ミルはね、数字が読めるようになったよ」
「メルは、お洗濯してたよ先生」
「そうか。偉いね。先生は、行くところがあるから、今日はお暇するよ」
ええ、と抗議の声が双子から上がる。
「メル、ミル。先生のお邪魔になるから、放してあげなさい」
診察室から出てきたシャルロッテが、怖い顔を作って双子に声をかけた。
「はぁい」
「先生、またね」
残念そうな顔で、双子は離れた。小さく手を振って、バルドレイクはシャルロッテに向き直った。
「それじゃあ、また明日」
「明日は、ちゃんと遅れないでくださいね」
シャルロッテにも手を振ったが、彼女は軽く頭を下げただけだった。玄関口を出ると、バルドレイクの背後で戸が閉まる。夕闇が、細道を包み始めていた。
裏道から表通りに出ると、まばらに歩く人々がいた。そのうちのひとつになって、バルドレイクは石畳の通りを歩く。十分ほど歩いて、大きな屋敷の前で足を止めた。
「これは、バルドレイク様」
「やあ、お勤めご苦労様」
「どうぞ、主がお待ちです」
屋敷の門番が、重い鉄扉を開けた。門をくぐり屋敷の中へ入ると、メイドが一礼してバルドレイクを奥へと導いていく。
「来たか、バルドレイク」
通された食堂で、きらびやかな衣装の男が立ち上がった。
「やあ、呼ばれたので来たよ、ヒューリック」
ひらひらと手を振り、バルドレイクはヒューリックと握手を交わした。
「まずは、食事にしよう」
勧められた椅子に座ると、食事が運ばれてくる。温かなスープと、いい香りのするアヒルの肉だ。朝から何も口に入れていなかったバルドレイクは、夢中になって平らげた。
「君を見ていると、こっちまで腹が減ってくるな」
ヒューリックは笑い、フォークとスプーンを盛んに動かした。ものの数分で、二人の男の前から料理が消えた。食後の蒸留酒が、二つテーブルの上に置かれた。
「食った、食った。さて、話といこうじゃないか、バルドレイク」
膨らんだ腹をさすりながら、酒のグラスを持ち上げたヒューリックが言った。一口グラスに口をつけてから、バルドレイクがうなずく。
「今のところは、順調のようだな」
ヒューリックは、そう切り出した。
「まあ、小さな診療所だしね。僕の腕でも、それなりにやっていけるよ」
「謙遜するなよ。君の腕は、私の身体がよく知っている」
腹を撫でながら、ヒューリックが言う。
「それなりは、それなりさ。あのときは、最善を尽くしただけだよ」
小さく笑って、バルドレイクは答えた。
「大病院の医師たちは、それなり以下ということにならないか、それでは」
「彼らには、彼らのやり方がある。君に合う治療法じゃなかっただけだ」
「私に合わせた治療法を、見つけるのが医者の仕事だと思うのだがね」
「治るか、治らないか、それがすべてなんだよ」
バルドレイクは、燭台の蝋燭を見つめた。ちろちろと燃える火が、頼りなく揺れている。
「それで、あの子たちのことなんだが」
「心配いらないよ、ヒューリック。流行り病はもう終息した。あの子たちは、大丈夫だ」
「そうか。安心して、いいのか……」
ヒューリックは椅子に深く腰掛けて、瞑目する。なんとなく様子を眺めながら、バルドレイクは酒を口に入れた。
「引き取ったほうが、いいんじゃないか、ヒューリック?」
問いかけると、ヒューリックの目が開いた。
「ダメだ。妻が、許さんだろう……」
「そうか。奥さんは、まだ怒っているんだな……」
バルドレイクは目の前で落ち込んだ肩を、そっと叩いた。それから、二人は蒸留酒を飲み交わし続けた。夜半過ぎまで、会話もなく酒を飲んだ。
「それじゃ、そろそろお暇するよ」
酔い潰れてテーブルに突っ伏したヒューリックに、バルドレイクは声をかけた。返事のかわりに、大きないびきが聞こえた。
屋敷を出てバルドレイクが向かうのは、繁華街だった。夜の店が立ち並ぶ通りは、夜半を過ぎるとひっそりとした空気になっていた。
「竜のにいさん、どこ行ってたんだ。探したよ」
夜道を一人歩くバルドレイクに、少年が声をかけてきた。走っていたのか、少年の息は荒い。
「ここでは、バルドレイクという名で通っているんだ。何度も言わせないでくれ」
酔いにふらつきながらバルドレイクが言ったが、少年は構わずにバルドレイクの手を引いて駆け出した。
「かまうもんか。いま、こっちのが大事だ。それに、誰も聞いちゃいないよ、こんな時間に」
それもそうか、と口の中で呟き、バルドレイクは少年に導かれるままに店と店の間にある小さな家へと入った。
「灯り、持ってくるよ」
少年の声が、入り口に消える。暗闇の中でバルドレイクは、寝台の上に横たわる若い女を見た。夜の商売を生業としているのか、肌を多く露出した服を着ていた。腹の部分も、だから自然と見えた。
「どうだい、にいさん」
灯りを持って、少年が戻ってきた。灯りに照らされると、女の腹がよく見えた。右側が、不自然に腫れあがって小さな山を形作っている。
「……虫だね、これは」
「虫? 虫に刺されたのか?」
「そうじゃない。腹の中に、虫が入り込んでいるんだ」
膨らんだ皮膚に触れて、バルドレイクは言った。
「すまないが、刃物と酒を。出来るだけ、強い酒のほうがいい」
少年に言うと、再び少年は姿を消し、しばらくして戻ってくる。その間に、バルドレイクは準備を整えていた。
「お酒と、包丁でいいかい?」
「うん。まあ、なんとかするさ」
沸かしておいた湯で、包丁を洗う。酒を塗ってから、煮沸した布で拭いた。
「……にいさん、何で、手足を縛ってるの? 趣味か?」
女の様子を見た少年が、言った。寝台の四隅に手足を固定したことを、言っているのだろう。
「僕にそんな趣味はない。暴れられると、困るからだよ」
バルドレイクは女の腹に手を当てて、膨らんだ部分に浅く包丁を入れた。女の口から、絶叫が迸った。猿ぐつわもかませておいたほうが、良かったかもしれない。夜の町に響く大音声に耳を傷めながら、そう思った。
包丁でつけた切り口から、膿を吸いだした。それから傷口を縫い合わせ、酒で消毒する。ひとまずは、応急の処置が終わった。女の手足を解放して、汗をぬぐう。
「よく、頑張ったね。もう大丈夫だ。あとは、薬を飲めば良くなっていく。一日一回、起きてしばらくしたら、飲むんだ」
「ありがと……せんせい……」
とぎれとぎれの声で、女は言った。
「薬は、明日渡す。孤児院まで、来るといいよ。今日はここで、ゆっくり眠りなさい」
女はうなずいて、力尽きたように眠り始めた。
「助かったの、にいさん?」
「今やったのは、応急処置だ。あとは、薬で何とかできる」
「そうか、良かった……」
少年が、眠った女のそばで安堵の息を吐いた。
「薬に必要な薬草があるんだけど、足りない草があるんだ」
「何でも言ってよ、にいさん。今回は、ロハでいいからさ」
必要な薬草の名前を教えると、少年はまた姿を消した。
「いつもタダなら、助かるんだけどな……」
バルドレイクの呟きは、夜の町へ溶けて消えた。